ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

京アニ犯人の帰責問題

2023-09-24 13:38:02 | 日記
きょうの朝日新聞に、こんなタイトルの記事が載っていた。


「半生の恨み、社会に向けた 『筋違い』の憤り、遺族の前で 京アニ被告、責任能力審理へ」


そうか、京アニ事件について裁判員裁判がはじまったが、そこでは青葉真司被告(45)の責任能力の有無が争点になるのだったな。さて、この問題は一体どうなるのかーー。


この件について私は過日、本ブログで論じたことを思い起こした。ただ、そこで自分がどう論じたのか、どういう結論を出したのかを思い出すことができない。「京アニ犯人の責任能力」と題したそのブログ記事をもう一度読み返してみた。


しかし、そのブログ記事の中で私は、白とも黒ともはっきりした結論を出していなかった。出すことができなかったのだと思う。


そこで私は、きょうの朝日新聞の記事に特段の関心を懐き、じっくり目を通したのだが、この記事もまた白とも黒ともはっきりした結論を出していなかった。この記事は、青葉被告のこれまでの人生が「虐待や不登校、中退、貧困」に直面するなど、きわめて苦難に満ちたものであり、そういう生い立ちが青葉被告の性格を大きく歪めたことを丹念に記していた。


青葉被告のおかれた不幸なーー可哀相なーー境遇が、彼の性格を歪めたことはおそらく事実でだろう。そうした性格の歪みが凶行を引き起こしたことも否定できない。
とすれば、青葉被告はこの犯行に対して、帰責能力を欠いている、つまり責任能力を持たない、ということになるのではないか。
というのも、自分の性格が歪む/歪まないは、青葉被告自身の力では如何ともしがたいことだからである。


はたして朝日新聞は暗にそう言おうとしているのだろうか。


では、この種の問題について、モンテーニュ先生はどう言っているのか。
エセー』の中で、先生は次のように書いている。


「われわれの行為は意図によって判断される」(第7章)


われわれは能力以上に義務を負うことはできない。そのわけは、事の結果と実践とはわれわれの力では如何ともしがたいことであるし、われわれの力でなし得ることは、本当に意志以外には何もないからである。したがって人間の義務についての掟はすべて、必然的にこの意志にもとづいて立てられる。」(同上)


先生のこの言葉を、京アニ事件について当てはめると、一体どういうことになるのか。


青葉被告の(a)「意志」、「行為の意図」とは、「自分の小説のアイデアをパクった京アニに、復讐をすること」である。
して(b)「事の結果と実践」とは、京アニの建物の炎上と、前途ある若者36名の殺害である。
このうち(a)は青葉被告の「力でなし得ること」であり、(b)は青葉被告の「力では如何ともしがたいこと」だとモンテーニュ先生は言うのである。


たしかに、京アニへの復讐は、やめようと思えばやめられたことであり、青葉被告の意志次第である。これに対して、建物の床にガソリンを撒き、マッチで火を点けたとしても、それが建物の炎上につながるかどうか、若者36名の殺害につながるかどうかは、その時々の天候や人の出入りなどの外的諸条件に左右されることであり、青葉被告の当初の意図を超えることだと言えるだろう。


したがって青葉被告は、モンテーニュ先生の考え方によれば、京アニの建物を炎上させ、36名を殺害したことに対しては、責任を負うには及ばない、ということになる。


では、青葉被告は「責任能力なし」ということで無罪になるのかーー。
そうではない。モンテーニュ先生の言に従えば、青葉被告は「行為の意図」に対しては、つまり「京アニへの復讐」を企てたことに対しては、その責任を負っている。したがってその観点から、有罪と判定されねばならないのである。


だがその場合、青葉被告に科される量刑は一体どういうものになるのか。その判定には、プロの裁判官でもきっと頭を悩ませるに違いない。その判定が私に荷が重すぎることは言うまでもないが、朝日新聞の記者も確たる答えが見つからなかったのではないか。そんな気がする。
いやはや。

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