『エセー』第3章の冒頭で、モンテーニュは次のように述べている。
「人間がつねに未来のことばかりに見とれるのを非難して、『われわれ人間は未来のことには過去のこと以上に無力なのだから、現在もっている幸福をつかんで、それに満足せよ』と教える人たちは、人間の犯す過誤のもっとも普通のものに触れている。ただし自然自らがその仕事を継続させてゆくためにわれわれを仕向けている事柄をも、あえて過誤と呼ぶものと仮定してである。」
注意しなければならないのだが、モンテーニュは次のように述べようとしているわけではない。「『現在の幸福に満足せよ』と言ったり、考えたりすることは誤りである」と、そう述べようとしているわけではない。
逆にモンテーニュは、こう述べようとしているのだ。我々人間にとって、一寸先は闇、自分の力では未来を動かすことはできない。それが人間である。だから「未来に目を向けず、現在もっている幸福で満足せよ」と説く人たちが出てくるが、これは我々人間の自然本性を考えれば致し方のないことで、しごく当然の成り行きなのだ。
モンテーニュは、我々人間の自然本性について、さらに次のように書いている。
「われわれはけっして自分のもとにいないで、常に自分の向こうにいる。不安や欲望や希望は、われわれを未来に押しやり、将来のことに、しかもわれわれの死後のことに、心を煩わせて、われわれから現にあるものについての感覚や考慮を奪い去る。」
我々は、「将来、自分はどうなるのだろう・・・。先が見えないから、不安だ」と思い悩み、「でも、明けない夜はない。ま、そのうちきっと良いことがあるさ」と将来に思いを寄せる。そんなふうにして自分の足下から、ーー「現にあるもの」から、目を背ける。そして「現にあるもの」に満足することがない。
だがそれは不幸なことであり、愚かなことではないか、とモンテーニュは言うのである。
モンテーニュは、過去の賢人たちの箴言を援用して、次のように書き記している。
《未来を思い患う心は不幸である》(セネカ)
《暗愚は欲望がかなえられても満足しないが、知識は現にあるもので満足し、けっして自己に不満を持たない。》(キケロ)
《賢者は未来の予想や心配をしない》(エピクロス)
過去の賢人たちが言うように、未来に思いを寄せることが不幸であり、現在の自分に満足しないことが愚かであるとすれば、我々人間は不幸であり、愚かであることを宿命づけられた、何とも救い難い存在だということになる。
では、そういう存在である我々人間について、モンテーニュはさらにどういう言葉を紡いでいくのか。乞う、ご期待。
「人間がつねに未来のことばかりに見とれるのを非難して、『われわれ人間は未来のことには過去のこと以上に無力なのだから、現在もっている幸福をつかんで、それに満足せよ』と教える人たちは、人間の犯す過誤のもっとも普通のものに触れている。ただし自然自らがその仕事を継続させてゆくためにわれわれを仕向けている事柄をも、あえて過誤と呼ぶものと仮定してである。」
注意しなければならないのだが、モンテーニュは次のように述べようとしているわけではない。「『現在の幸福に満足せよ』と言ったり、考えたりすることは誤りである」と、そう述べようとしているわけではない。
逆にモンテーニュは、こう述べようとしているのだ。我々人間にとって、一寸先は闇、自分の力では未来を動かすことはできない。それが人間である。だから「未来に目を向けず、現在もっている幸福で満足せよ」と説く人たちが出てくるが、これは我々人間の自然本性を考えれば致し方のないことで、しごく当然の成り行きなのだ。
モンテーニュは、我々人間の自然本性について、さらに次のように書いている。
「われわれはけっして自分のもとにいないで、常に自分の向こうにいる。不安や欲望や希望は、われわれを未来に押しやり、将来のことに、しかもわれわれの死後のことに、心を煩わせて、われわれから現にあるものについての感覚や考慮を奪い去る。」
我々は、「将来、自分はどうなるのだろう・・・。先が見えないから、不安だ」と思い悩み、「でも、明けない夜はない。ま、そのうちきっと良いことがあるさ」と将来に思いを寄せる。そんなふうにして自分の足下から、ーー「現にあるもの」から、目を背ける。そして「現にあるもの」に満足することがない。
だがそれは不幸なことであり、愚かなことではないか、とモンテーニュは言うのである。
モンテーニュは、過去の賢人たちの箴言を援用して、次のように書き記している。
《未来を思い患う心は不幸である》(セネカ)
《暗愚は欲望がかなえられても満足しないが、知識は現にあるもので満足し、けっして自己に不満を持たない。》(キケロ)
《賢者は未来の予想や心配をしない》(エピクロス)
過去の賢人たちが言うように、未来に思いを寄せることが不幸であり、現在の自分に満足しないことが愚かであるとすれば、我々人間は不幸であり、愚かであることを宿命づけられた、何とも救い難い存在だということになる。
では、そういう存在である我々人間について、モンテーニュはさらにどういう言葉を紡いでいくのか。乞う、ご期待。
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