「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

何故、日本人は、「水に流す!」のか!(日本の未来は!)

2011年03月15日 | お昼間カフェ
どうも、ゆるちょです。


津波に被災したひとの言葉を聞いていると、涙が出ますね・・・。

ある女性が泣きながら、

「海なんて、いらない」

って、言っていました。


ある女の子は、

「家もない。両親もいない。兄弟もいない。帰るところもない。わたしは、今までどんだけしあわせだったんだって、そう思いました」

と、言いました。


あまりに、哀しい言葉です。


ある高齢の男性は、むちゃくちゃに汚れた自分の家の中の様子を見ながら、

「それでも、家は残った。それに、生きていただけで、よかったと思う」

と、涙ぐみました。


それだけ、津波の惨状が、ひどかったということでしょう。


テレビは、死体を映すことはありません。


でも、話では、伝わってくる。


100体、200体単位で、死体が見つかっている。


時に千体単位の死体の情報が入る。


テレビに出てくるひとでも、家族と連絡がとれていないひとがたくさん、いる。


哀しい出来事ですけど、でも、それを受け入れなければいけない。



僕はふと、「水に流す」という日本人の考え方が頭に浮かびました。



司馬遼太郎氏は、かつて、その著書で、



「日本人には、水に流すという悪い慣習を持っている。これがあるおかげで、歴史に学ぶということをしない。だから、第二次大戦が起こったのだ」



という趣旨のことを、言い、



「日本人は、馬鹿だから戦争を起こしたのだ!」


と、日本人そのものを、批判しました。


まあ、もっとも当時の戦中派が、軍の上層部に感じていた思いを代表した考えでしょうし、


あの時代は、そういう考えが讃えられたのだと思います。



もっとも、司馬遼太郎氏の考える事は、基本、学識による浅い見識やこじづけに過ぎず、経験から来る知恵というものが皆無であり、

内容として議論に耐えるものではありません。

そのあたりについては、「司馬遼太郎論考」カテゴリー内の記事にて、指摘しています。



ですから、この主張も、

「俺は識者であるのに、戦車兵として軍部に働かされた」

という俺偉い病にかかった人間の浅い主張だと思います。



司馬氏の主張は、

「日本国民が、水に流すという習慣を持っているから、歴史に学ばない」

というものです。


じゃあ、戦争を起こす人間は、歴史に学んでいない、ということなんですか?


アメリカは、どうなんですか?日本のように、250年のミラクルピースを創り上げることもなく、ずーーーっと戦争ばかりしていた、ヨーロッパは?



いいですか?


地球の歴史上、250年ものミラクルピースを成し遂げたのは、日本人だけなんですよ。


まず、この点からして、この司馬氏の主張は、間違っていると言える。



というより、司馬氏は、何がしたかったか、と言えば、当時の軍部の上層部をくさしたかっただけです。



だから、


「日本人には、水に流すという特質が、ある」

「日本人が、馬鹿だったから、戦争を引き起こして、負けたのだ!」


この二つのできごとを、無理にくくりつけたに、過ぎないんです。


しかも、


「日本人が馬鹿だったから、戦争を引き起こして負けたのだ!」


という主張は、当時のアメリカが遂行していた、日本人洗脳プログラム「ウォーギルドインフォメーションプログラム」の目的そのものの主張であり、

要は、戦勝国アメリカの片棒を担いでいただけに過ぎないわけですよ。


日本の歴史を描く人間として、立っていい立場ではないでしょ?



その点からも、批判されるべきだ。



ったく、司馬遼太郎って、調べれば調べるほど、最低の人格が顕になりますね。



さて、ここで、考えたいのは、


「日本人には、水に流すという特質がある」


という特質は、何故、日本人の特質になったのか、ということなんです。



僕は、ここ数日、津波から、命からがら、逃げ得た人々の言葉に共通性を感じているんです。


「とにかく生きていただけで、よかった。あのひどい津波に遭って、生きていられたことだけで、ありがたいと思わなければ」

「家もなくなってしまったし・・・しかたないですよ。生きていただけで、よかった・・・」

「家なくなっちゃったけど・・・しかたないです」


つまり、これ、

「過去への執着を捨て、新たに生きる」

ということなんですよね。


「水に流す」・・・そのものじゃないですか。


つまり、「水に流す」とは、自分の財産や家屋、果ては愛するひとまで、津波という「水に流してしまう」ことで、

新たな新しい自分を作っていこうと、強い気持ちで、執着を取り払う態度、ということになります。



つまり、天変地異の多い、この日本では、今回のような、ひとの手に負えない、突然の災害に見舞われることが、過去、たくさんあったんだと思うんです。

だから、それが原因になって、長い間に、日本人に、

「水に流す」

という新たな能力が、備わったと見るべきでしょう。


たくさんの、天変地異に見舞われた経験から、新たに出来た、ひとつの美徳なんですよ、これ。

経験から培われた能力なんですよ。


日本人と、韓国人、あるいは、中国人と比べて、みてください。

この間、韓国人の男性の方が、インタビューされていましたが、

「日本人は、淡々として、事態を受け入れている。さすが先進国だと思った。韓国では、こうはいかない」

ということを言っていました。


でも、僕は、それは、先進国だからではないと思うんです。


「水に流す」能力があるか、ないかなんです。

過去に対する執着を、取り払えるか、どうかなんですよ。


事件や事故で、愛するひとを失った時の、中国の人や韓国の人の反応を思い出してください。

感情を思いきり現し、超泣いたりわめいたりするでしょう?

あれは、執着がそれだけあるからです。


それに対して、日本は、愛するひとの死を受け入れ、淡々と涙ぐむだけだ。

それは、執着を取り払う訓練が、日頃からできているからだ。

「水に流す」能力があるから、そういう風に出来るんです。


武士道では、他者への執着を厳に戒めています。


それは、他者への依存を戒めるのと同じ扱いです。

「愛するひとを失っても、感情を表に表すな。それは、自分をコントロールできなくなっている状況をひとに見せることだ。恥ずかしいことなんだ」

日本人は、小さい頃から、そうやって育まれてきたはずです。

まだ、教育に武士道が残っているからですよ。


つまり、水に流す能力というのは、執着を取り払えるという、日本人の美徳なんですよ。


司馬遼太郎氏の主張なんて、てんで間違っているでしょう?


ほんと、あいつ何も考えられないアホなんだよなー。


ま、それは、いいとして、「水に流す」能力は、こういう天変地異にあってきた、日本人が、黙々と耐えてきた歴史から、作られているということが、

今回、はっきりしたんです。そして、それは、執着を取り払うという、素晴らしい能力なんです。


日本人は過去から、たくさんつらい目に遭ってきました。


でも、それが、日本人を強くしたんです。


それを考えた時、僕は、日本は、まだまだ、やれると、感じました。

今までたくさんあった天変地異にも、その度に復興を成し遂げてきたのだから。


今はつらくても、

「絶対復興するんだ」

という強い意志を持ちましょう。


強い意志こそ、自分のモチベーションを上げるエネルギーになります。

そして、明日に向かって、よりよき明日に向かって、徹底的に、チャレンジしていきましょう。


輝かしい未来は、絶対に日本に存在する。


このつらい状況から、リカバリをすれば、日本は、他国が経験していない悲惨な状況を乗り越えたことになる。

さすれば、日本は、どこの国にも負けない強い精神をもった国になります。


その時が、さらなる飛躍のチャンスです。


さあ、今こそ、輝ける明日に向かって、一歩一歩歩いていこうじゃありませんか。






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