「大学だけでなく」11月6日
歴史学者藤原辰史氏が、『教育行政の不公平』という表題でコラムを書かれていました。その中で藤原氏は、「身の丈」発言に触れ、こうした不公平さについて『みんな見て見ぬふりをしてきたことじゃないですか、と思う』と書かれています。
ご自身の経験として、『島根県の人口8000人の農村の公立高校で受験勉強』したときのことを紹介なさっているのです。『塾はゼロ』『小さな本屋に参考書は全くといってよいほど置いていない』『センター試験は、雪の影響を考えて前泊』『最も近い島根大学でさえ下宿は必須』。つまり地方の農村に生まれたというだけで、勉強をするために多くの経済負担が生じているということです。
さらに、『国内総生産のうち教育への公的支出が占める割合はわずか2.9%でOECD加盟国34カ国で最下位』という日本の教育行政の現状を指摘し、『家庭の所得で大学の入学が決まるような国』日本を批判しているのです。
もっと悲惨な状況の子供や若者がいる、という指摘があるかもしれませんが、藤原氏の指摘には概ね賛成です。ただ、藤原氏は、高校から大学への進学における時期に焦点を当てて論じていらっしゃいますが、私は、それ以前の段階における不公平についても忘れるわけにはいかないと考えています。
まず基本的な事実として、我が国における大学等への進学率は約6割であり、残りの4割においては、藤原氏が指摘する不公平はあまりかかわりがないのに対し、高校までの義務教育や「準」義務教育についてはほぼすべての子供や若者に関わる問題であるということです。
私が教委勤務中に主に関わってきた小中学校においても、不公平は存在していました。塾や参考書の類における家庭の経済力による格差は当然存在します。専用の勉強スペースをもっているか否か、そのスペースは猛暑でも快適に過ごせる冷房が備わっているか、ネット環境が整っているか、興味関心のある書籍を経済的な制限なしに購入できるか、保護者は有意義な自然及び社会体験の機会を与えることが出来るか、などによって、子供の学力、というよりも「地頭」的な部分は大きく影響を受けます。
私が長年勤務した世界的大都会東京都、交通や情報面においては格差はほとんどないその23区内においてさえ、自治体ごとの学力格差は経済格差とほぼ一致していました。約30年前、生活保護世帯が最多のA区の某中学校の学力テストの平均点は都心のC区の某中学校の半分だったのです。驚くべき数字です。
土地価格が高く、高額所得者が多く暮らす地域の学校に通うか、生活保護世帯が多く存在する地域の学校に通うかという違いだけで、子供の知育に与える影響は無視できない大きさになるのです。非科学的な言い方ですが、そんな空気が蔓延していて、人々を感染させるのではないかと思うくらいです。
私は現内閣の教育政策には懐疑的な立場ですが、かつて大学生の奨学金無償給付拡大が話題になったとき、菅官房長官が言った「大学に行かない若者たちとの間で不公平が生じる可能性も検討すべき」という発言には賛成です。まず、国民全員の問題である義務教育段階における経済格差による不公平の解消に取り組むべきだと考えます。
東京大先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎氏が、『企業と当事者研究 多様性と創造性の両立』という表題でコラムを書かれていました。その中で熊谷氏は、ジャストカルチャー(正義の文化)について触れられています。『想定外の失敗や出来事は学習の機会になる。個人の責任を追及するのではなく、組織全体で失敗が起きたメカニズムを研究する』という風土がある組織文化のことです。
今、公立校で教員間の低劣ないじめやパワハラで休職に追い込まれる教員が出るという事例が複数の自治体で発生し、報道されています。おそらく、今までにも表面化しないだけでいくつもの事例があったと思います。今回表沙汰になったのは、あくまでも氷山の一角であり、今後同じような告発があることが予想されます。公立校の危機であり、どこの教委にとっても想定外の事態であるはずです。
だからこそ、今こそジャストカルチャーの発想で取り組むことが求められます。発端となった神戸市の事例では、加害者とされる4人の教員の処分や責任に注目が集まっているように感じられます。こんなクズに我々の税金から給与を払い続けているのはおかしい、仮病で休み説明責任を果たしていない、このままクビにするだけでなく子供や保護者の前で説明させ謝罪させるべきだ、など、いずれももっともな主張ですし、私も処分は避けられないと考えています。
しかし、この問題を特別な、異常な個人が起こした事件として終わらせるのではなく、事件発生のメカニズムの分析・究明に組織をあげて取り組むべきです。人事異動における校長権限のあり方、教員の業績評価の客観性と透明性、校長・副校長・主幹等幹部の連携と相互チェック機能、子供・保護者からの情報の吸い上げ、教委と校長の情報共有と連携、管理職研修の内容、スクールロイヤーの活用など、検討すべき事項は数限りなくあります。
文科省は、形式的な指導や注意で終わらせるのではなく、市教委に組織運営の専門家やパワハラ問題に詳しい弁護士、臨床心理士、精神科医、教育行政の研究者など必要と思われる専門家集団を組織して市教委に送り込み、詳細な事実確認と分析を行うと共に、そこで得た知見を、全国の都道府県教委の人事担当者と共有する場を設けることが必要です。
さらに、提供した知見を基に全国的な調査を実施させ、そこでの分析・研究成果をフィードバックさせる仕組みを構築し、教員間トラブルへの対応指針を確立することを目指すのです。
子供同士のいじめ問題が注目されるようになったとき、現代の子供たちが抱える抑圧が背景にあるといわれました。今、教員の過重労働が問題になり、教員のなり手が減少するという状況にあります。多くの教員が何らかの圧迫感を抱いて日々の仕事をこなしている現状を考えれば、今後教員間のパワハラやいじめへの対応は、教育行政上の緊急の課題となることは確実なのですから、早めの取り組みが望ましいのです。
『増える「カスハラ」現場任せにしていないか』というタイトルの社説が掲載されました。政府に対し、『カスハラへの具体的な対応の判断基準を指針で示すべきだ』と求める内容です。その中に厚労省が行ったヒアリング結果が紹介されています。『暴力的な行為や金品のゆすり、執拗な叱責や営業時間後にも退去しない行為などが、カスハラの例として挙げられた』というものです。
判断基準を設けるにあたって、これらの例は多くの人がカスハラに当たると同意するものと思われます。学校の教員もカスハラの被害者になることが少なくありません。私自身、教員としても、教委の幹部としても、異常なクレーム等に悩まされた経験があります。
中学生の生徒がうるさくて眠れないから慰謝料をよこせと言われたことがあります。よく話を聞いてみると、隣家の中学生がうるさいということでした。学校には何の関係もありませんが、子供の教育は学校や教委の責任だと言い張るのです。教委の窓口でカウンターを叩き大声で怒鳴る男性もいました。なだめすかし奥の部屋に通して1時間以上話を聞きましたが、管轄下にはない他地域の学校とのトラブル(?)を繰り返し訴え、教委間で連絡を取れと要求するのでした。当該教委では相手にしてもらえないからこちらに来たようですが、とんだ言いがかりです。
これらは、金品のゆすり(=慰謝料請求)、暴力的行為(カウンターを叩き大声で怒鳴る)、執拗な叱責(=関係のない学校の出来事での長時間の苦情)にあたると思われます。一方、営業時間後にも退去しないという点はどうでしょうか。
保護者が苦情や要求に訪れたとします。教員の勤務時間は大体17時頃までです。16:45に保護者が来て、17:15になり、「勤務時間は終わっていますので」と言って話を打ち切ろうとしたら、どうでしょうか。保護者がもっと話を聞けと言えば、前述の営業(勤務)時間が終わっても退去しないに該当することは明らかです。でも、こうした対応を世間は認めるでしょうか。
保護者にも仕事があり時間のやり繰りをして駆け付けてきたのに冷たい対応だ、と非難されるのではないでしょうか。そうだとすれば、学校の教員には、企業の従業員とは異なる基準があるということになります。教員にだって家族はあり、保育園に子供を迎えに行かなければならなかったり、家で食事や介護を待つ高齢者や病人がいたりしても、非難されなければならないのでしょうか。
実は、私が指摘した、このカスハラ基準における教員の特殊性にこそ、教員の過重労働の問題が凝縮されているのです。サービス残業が当然視され、そのことが業務の中に組み込まれて日々の学校運営が成り立つという構造的な問題です。戦後長い期間にわたって教育行政を司ってきた自民党には、教職を聖職とみなす体質が色濃く残っています。問題の根は深いと言わざるを得ません。
『英語漬け授業 公立小の試み』という見出しの記事が掲載されました。『愛知県豊橋市立八町小学校が2020年度から、国語と道徳を除く全ての授業を英語で教える「イマージョン・プログラム」を導入する』ことを報じる記事です。ちなみに、「イマージョン」とは浸すという意味で、英語漬けということです。
こうした試みはとても望ましいと思います。このように書くと、お前は小学校の英語教育拡充反対派ではないか、と言われそうです。その通りです。今も考え方は変わっていません。でも、同小の取り組みには賛成です。それは、『「イマージョン教育コース」を新設し、各学年20人程度受け入れる(略)このコースを希望しない児童には従来通り日本語で授業をする』というシステムだからです。
つまり、選択制ということです。子供に意欲と能力があり、保護者が英語授業実施による副作用を理解しケアするだけの能力を有する場合にのみ行うというのですから、反対する理由がありません。記事では、算数の授業を例に、『通常の授業と比べて説明に時間を要するため、授業内で児童が解く問題の数は少ない。その分宿題が増えるため家庭の支援が欠かせない』と英語授業の副作用と家庭の責任に触れているのも、公平な態度で好感がもてました。また、算数に限らず、『母語もきちんと習得するために家庭などで正しい日本語を使うことが大切』という指摘もなされ、広く副作用への目配りがなされています。
私は、英語教育の拡充強化について、どの程度の英語力を身につけさせることを想定しているのかが不明確であり、そのためどのような形で英語教育がなされるのが適切か判断できないという主張を繰り返してきました。10年後、20年後、全ての日本人が英語でビジネス上の会話をし、契約書を読み書くことが出来なければいけないのか、そうした能力は一部の者にだけ求められ、大半の国民は道を尋ねたり、買い物をしたり、病院で症状を訴えたりする程度の英語力でよいのかによって、教育を始める時期や内容・方法は違ってくるはずだからです。
ビジネスエリートや国際的な研究者を目指す人には、八町小学校のようなコースが設けられ、そうでない人には従来程度の英語教育というコース分けこそ、今の我が国に最もふさわしい英語教育の在り方だと考えます。
政府はこうした取り組みを積極的に後押しすべきです。
「したいと出来ない」11月2日
念佛明奈記者が、『校則』という表題でコラムを書かれていました。ドイツ留学時に『頭は金髪メッシュで耳にはピアス』であった念佛氏が、日本に戻って感じた息苦しさについて述べた後、話は制服に及びます。
制服について、『生徒の貧富の差を隠す側面があるにせよ「学校を一歩出て制服を脱げば、そこに『違い』があることは子どもにも分かる」』とし、『個性や経済格差といった他人との違いとどう付き合うかを「学校で好きな恰好をすることで学んではどうか」という。悪口を言う子に教師がすぐに気付き、すぐに話し合えるメリットもある』というドイツ時代の友人の言葉を紹介なさっています。
私は、校則や制服の問題について論じるつもりはありません。ただ、「個性や経済格差といった他人との違い」という表現に違和感を覚えたので、その点に触れてみたいと思います。個性と経済格差を並列することは適切ではないと感じるからです。
制服ではなく、自由な服装で登校するのは、都立高校にも例がありますし、反対するつもりもありません。そこでは、他人との違いが分かりやすく視覚化されています。しかし、その違いには、自分がしたくてしている=個性と、自分はしたくはないのにそうせざるを得ない場合があります。後者には、貧困や家庭環境などの原因が考えられます。
私も教員時代に、多くの子供を見てきました。生活保護を受けていた家庭の男児は靴下に穴が開いていましたし、父子世帯の女児は、経済的に特に貧しいわけではありませんでしたが、毛玉のついた袖口ののびたセーターを着ていました。女児は毛玉をむしるのが癖になっていました。
小学生といっても高学年でしたから、彼らは自分の格好を恥ずかしいと思っていたでしょうし、できればこうしたいという「理想の服装」があったかもしれません。しかし、子供なりに保護者に気を遣い、ある種の優しさから現状に甘んじていたように思います。
そしてそうした違いや心情について、周囲の子供も理解していたはずです。まさしく、念佛氏のドイツ人の友人が言う通りです。しかし、そこから話し合いや学び合いが深まり、多様性について学ぶことが出来るというような簡単な問題ではないような気がします。
また、悪口に教員が気付いて~、という指摘についても、直接的な悪口を耳にすることは少ないのが現実です。何も言わないけれど一緒には行動しないとか、学校では普通に接するけど放課後に行動を共にすることはないといった形で、見えない壁を築くという形をとるのが普通です。
微妙な雰囲気を教員が感じ取り、指導しようとしても、まだ何も問題が発生していない段階なので、表面的な指導に留まるケースが多くなります。そもそも、「被差別者」である子供自体が、教員の介入を喜ばないことが多く、むしろ同じような仲間といるから不都合は感じないので放っておいてくれ、という方が多いのです。子供なりに、家庭環境や経済格差は、子供である自分たちの力では変えようがないと考えており、それは事実でもあります。貧困等を取り上げられることは、貧しいなりに一生懸命に自分を育ててくれている保護者に対して申し訳ない、という思いがある場合も珍しくありません。
もしこれが、人種や国籍、肌の色というような条件による差別的な扱いであれば、彼らも不満をぶつけやすいですし、教員も対応しやすいのです。本人の努力では変えようのないもので人を差別するのはいけないと諭すことが出来ますし、多くの子供がそうした考え方を受け入れる土壌があります。しかし、経済格差や家庭環境は、時間の経過とともに変わっていく可能性がありますし、子供自身が成長した後には自分の手で能動的に変えていくことが出来るものです。
日本人が好きな、恵まれない幼少期を過ごした人物が努力を重ね成功するという物語です。そうした可能性を信じることが可能であるだけに、今、我が家の貧困には触れないでくれという心情が芽生えるのです。
違い=個性ではありません。そうした捉え方は、子供を傷つけるものです。髪を染め、ピアスをし、化粧をして、好きなファッションに身を包む、そうした行為をすることこそが自由で正しい生き方とするような浅薄な考え方は、リップクリーム一つ購入するのに大きなためらいを感じる子供の心情を考えてがいないのです。個性ではない違いがあることを認識し、その上で全ての違いを受け止める、教員はそうした姿勢でいなければなりませんし、学校はそうした場でなければなりません。
「責任転嫁」11月1日
『24年度にも新制度 「身の丈」発言 文科相、影響否定』という見出しの記事が掲載されました。『2020年度に大学入試センター試験に代わって始まる大学入学共通テストで導入が予定されていた英語民間試験について、萩生田光一文部科学相は1日の閣議後記者会見で延期すると発表した』ことを報じる記事です。
記事によると、萩生田氏は、『全体的に不備があると認めざるを得ない。抜本的に見直し、高校生が平等に試験を受けられる環境づくりに注力したい』と述べ、『私の発言が直接原因になったわけではない』と話したということです。大学入試制度の在り方や、受験生の戸惑い、高校側の困惑等の問題について、ここではふれません。ただ、政治家に教育行政を委ねる際の問題点について述べたいと思います。
今回の延期が、萩生田氏の失言が要因であることは誰もが否定しないはずです。教育行政の最高責任者が、憲法に定める教育の機会均等について、不十分な認識しかもっていなかったという点について、批判が集まるのは当然です。しかし、それが国会を止めて政府を追い込む、大臣の首を取る、内閣総辞職に追い込むといった、政治闘争に転化してしまいました。その結果、政府・与党が大臣の首を守る代わりに延期という代価を野党に与えるという政治取引になってしまいました。
私は、与党も野党も非難するつもりはありません。国会だけでなく地方議会でも、他国の議会でも似たようなことが行われてきた歴史がありますし、ある種の必要悪だと思っています。ただ、こうした動きの中で、受験生や高校側の反応、民間業者の不満などが取り上げられる一方で、文科省で制度の立案・実施に努力してきた職員たちの思いにはあまり焦点が当てられていないのが気になります。
たしかに、新制度には不備が目立ちます。しかし、そもそも民間試験は、政治家の思惑で導入が決まり、歴代文科相が積極的に推進し、同省の職員は限られた時間の中で必死に制度化に取り組んできたのです。おそらく大臣を含めた政務三役の政治家と二人三脚で。それなのに、2年余にわたる尽力を、二人三脚で取り組んできた同志であるはずの大臣から、それも延期に追い込まれた最大の原因を作った当人から、「不備が多い、問題がある」と批判されてしまったのです。
先生から大変だろうが頑張れと叱咤激励され、一生懸命に取り組み、よく頑張ったもう少しだと言われ、ようやくやり遂げられそうになったところで、今までやってきたことは問題だらけと、無能の烙印を押されてしまったとしたら子供はどう感じるでしょうか。もう、こんな先生の下ではやっていけないと思うはずです。同じことが、今回文科省で起きてしまったのです。職員は、大臣に不信感をもちやる気を失っているはずです。そしてこうした政治的取引によって、それまで積み上げられてきたものが、教育的な見地からの理論的な検討を経ずに葬り去られたり、歪められたりするということは、問題の大小はともかく、地方でも起きているのです。それも、首長という政治家が地方教育行政において権限をもつようになってから頻繁に、です。こうしたことが続けば、教育行政の専門家と政治家の間の信頼関係は損なわれ、それは教育行政の停滞という形になって、児童・生徒に跳ね返って行くのです。
公教育は民意を踏まえて行われるべきです。しかしそのことと政治取引が教育行政に介入することとは別でなければなりません。
「無理筋」11月1日
『加害教諭4人給与停止 神戸市教委 同僚いじめ「分限処分」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『市教育委員会は31日、加害教諭4人を分限処分にした。懲罰の意味合いで行う懲戒処分とは異なり、校務継続に支障が出るとの点から市が独自に対象を拡大して可能になった』ということです。
10月24日の記事でもふれた条例改正の結果が、早くも実施された格好です。今後の動向が注目されます。公立学校の教員の処分には、分限処分と懲戒処分があります。分かりやすく言えば、前者は、「こんなこともできない」教員に対して行われるもので、後者は「こんなことをしてしまった」教員に対して行われるものです。
例えば、授業が成り立たない、学級経営ができない、保護者からの苦情に対応できない、子供間のトラブルに対処できないなど、「~できない」度合いが甚だしい教員は、分限処分を受けることになります。私が教委勤務時代に担当していた「指導力不足教員研修」の受講者は、「できない」教員であり、研修を経てもなお指導力が回復せず、授業も学級経営も円滑に行うことが出来なかった者は、分限免職処分を受けました。
一方、女児にわいせつ行為をした、酔っぱらって民家に侵入し住人を殴ったなど、犯罪行為などを「してしまった」教員は、例え示談等が成立し、刑事罰を免れたとしても懲戒処分されるのです。
懲戒処分は、被害者が存在し、その訴えがあり、警察の捜査が行われるなど、事実関係の確認が客観的に行われます。一方、分限処分の場合、保護者との対応がうまくいかなかったという事実はあっても、その保護者がモンスタークレーマーであれば、非は教員にはないことになりますし、子供のトラブルへの対応で問題が解決しなくても、当該児童生徒が札付きの不良だったり、学校の支援体制に大きな不備があったりすれば、教委個人の責任だけを問うことは難しくなります。つまり、客観的な評価が難しいケースが多く、それだけに処分後に法的な争いに発展することが多いのです。
今回の神戸市の事件では、加害教諭という言葉が使われていることからも明らかなように、4人は「できなかった」教員ではなく、「してしまった」教員です。本来ならば、懲戒処分の対象となるべき事案です。それを、分限処分の対象とすることは、行為の有無とは別に、処分権の濫用とされる可能性が高いと思われます。教委にとっては、大冒険です。
4人に対する給与支払いが市民感情に沿わず批判が出たための緊急避難的対応だったと思われますが、もし訴えられて敗訴すれば、今後の教育行政に大きなダメージとなります。また、懲戒処分であれば、教委が4人の「悪行」について認定し罰するという意思表示になりますが、今まで「できなかった」ので今後も「できないだろう」という校務継続への支障という名目での分限処分では、被害を受けた教員の訴えにも、教員がひどい暴行やパワハラをしたのではという保護者の疑念にも答えないことになります。あくまでも懲戒処分の形をとる方途を探るべきだったように思います。
『奈良の小学校「パワハラ」 市教委否定 訴えた4教諭欠勤』という見出しの記事が掲載されました。大和郡山市立小学校の教諭男女4人が『9月初めから体調不良で学校を休み、理由として上司や同僚6人からのパワーハラスメントやいじめを訴えている』件について報じる記事です。
とても不可解な記事です。まず、4人が「欠勤」という点です。もし本当に欠勤であるならば、4人とも処分を受けることになるはずです。病休でも有給でもなく、2ヶ月間欠勤が続くということは、充分な懲戒理由となります。『医師の診断書を提出した上で~』とあるのですから、欠勤という表現は適切ではないと考えます。
しかしこれは些細な問題です。大きな疑問は、『学校や市教委は校内で聞き取りをし、「パワハラなどは確認できなかった」と結論』という部分についてです。4人は、「上司や同僚から~」と訴えているのです。上司とは常識的に考えて校長や副校長です。そうだとすれば、訴えられた当事者が聞き取りをするなど考えられません。かといって、人事に関する聞き取りを同僚の教員が行うこともあり得ません。校内で聞き取りをしたというのは、誰がしたのでしょうか。
考えられるのは市教委の人事担当者が聞き取りをしてというケースです。しかしそうであるならば、校内で聞き取りをするというのは、非常にまずい対応です。当然、関係者を一人ずつ教委に呼び、複数の担当者で聞き取りをし、供述内容を書面化し、聞き取りをした相手に読ませ、内容を確認させた上で、確認印を押させるという手順を取るべきです。
人間の心理には、テリトリー意識が作用するといわれています。自分の縄張りと意識できる場所では、精神的優位に立つことができるとされています。つまり、加害が疑われる教員にとって学校は自分の縄張り、テリトリーであり、尋問者である教委の担当者に対して心理的優位に立つことができ、その分ウソの供述が可能になるのです。
ですから、こうしたケースでは必ず教委という場所、教員のテリトリー外で聞き取りを行うのが常道です。そして、言った言わないという水掛け論にならないように、確認印を押させるのです。今回の事案では、加害者とされる教員は6人ですから、一人一人別々に口裏合わせが出来ないような状況で聞き取りすれば、自ずから事実が明らかになってくるものなのです。
そうした形を取らず、加害者側(?)に有利な状況での聞き取りでハラスメント無しという結論を出したのであれば、隠蔽の意図があったと疑われても仕方ありません。さらに、聞き取りを行った対象が明記されていません。こうした人権侵害が疑われる事例では、加害者と被害者だけでなく、第三者の証言を得ることが必要です。どの範囲の関係者まで聞き取りを行ったのか、それによっても初めからある方向に結論を導こうとしたという疑いが生じます。
教委が、一方に荷担していたという疑いをもたれてしまえば、ことは当該校に留まらず、市の教育行政全てに悪影響を与え、市民の不審をかうことになります。市教委は、結論だけでなく、聞き取りの範囲や対象、態勢等もメディアに明らかにし、信頼確保に努めるべきです。
「どこで?」10月28日
『ぼくが食べられない理由知って』という見出しの記事が掲載されました。『好き嫌いやわがままで片付けられがちな子どもの強い偏食について、近年、発達障害に起因する感覚過敏・鈍麻やこだわりの強さなどが関連していることが分かってきた』という問題について啓発する内容の記事です。
『普通の人では気にならない食べ物の舌触りやにおいが気になってしまう』『予測のつかない出来事が苦手な人も多く、なじみのない食材や自分の知らないメニューを敬遠する』というような傾向があり、アンケートによると、『見るだけで気持ち悪かったり、怖かったりする食べ物がある』『固さや食感によっては口の中に入れるだけで全身が苦しくなるほど不快な食べ物がある』など食べ物に恐怖感さえ覚える人がいるのだそうです。
さらに、『食器や箸を使い、口に食べ物を運んで咀嚼する。その合間に他人と会話する。食事は同時並行で体の様々な部位を使う複雑な運動だ』ということで、『周囲の環境も食事を困難にする要因』だというのですから、その苦労、苦痛が偲ばれます。恥ずかしい話ですが、私は発達障害のある方が、こうした傾向をもつことを知りませんでした。教員時代に無知による給食指導で、何人もの子供を苦しめていたのかもしれません。
記事では、対応法として、『調理前の食材の色や形を見せたり、一緒に料理したりすることによって、子どもが「これは自分が知っている食べ物だ」と認識できるようにする。どんな大きさや食感がいいのか、子どもに話を聞く。食事の際に、食事だけに集中できる環境を整える』などが挙げられていました。
なるほど、です。では、こうした対応は誰がするのでしょうか。記事は、保育園の連絡ノートに書かれた偏食の記録から始まっています。小学校の給食時間に居残りをさせられた体験が綴られています。『教員が知識がないままに指導する場合(略)「三角食べ」だった』と、給食指導が子供を苦しめるという指摘がなされてもいます。学校で、上記のような指導をすべきということなのでしょうか。
正直なところ難しいと思います。この記事を書かれた記者の方も、そこまでは要求していないと思います。しかし、給食時の対応の問題点や保育園での対応などを書かれていることから、読者の中には学校等での対応が必要と解釈する人がいそうです。我が国では、教育問題は何でも学校で、という風潮が強いことを考え合わせると、こうした記事では、あえて「家庭で」と強調してもらわない限り、学校への要求が強まるという結果になりかねないように考えます。
学校でできることは、食べることを強制しないことぐらいです。
『「できる楽しさ」知らせる』と題された、「ビリギャル」著者坪田信貴氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で坪田氏は、『教育は科学的な側面で捉えられていることが実は少なく、ほとんど経験論で語られています。「お兄ちゃんはこの方法でうまくいったのに「俺は何回も書いて漢字を覚えた」・・・。「n=1」、つまり1人だけの経験論を当てはめてしまう(略)伝え方をあれこれ試す必要がありますね。教育は実験です』と語られています。
「教育は実験」と言われてしまうと、子供は実験動物か、と反論したくなりますが、前段の「教育は科学ではなく経験論」という指摘には賛成です。学校教育について議論されるとき、様々な立場による対立があります。国力増強への寄与を重視する立場と学習者の知的満足を優先する立場、系統的学習を重視する立場と経験的な学びを重視する立場など、過去の教育改革論議でも、大きく揺れ動いてきました。
私は、そうした対立に加え、教育を科学と捉えるか、経験の積み重ねと捉えるかという立場の相違も無視できないと考えています。教育を科学と捉えたとき、それは万人に共通する最善のものが存在するという考え方に行き着きます。科学的な結論とは反復性によって保障されるのですから、Aさんにも有効、Bさんにも有効、Cさんにも~というように、ある教育方法が優れたものであるということは、それは全ての子供に、ケースに当てはまると考えるのは自然なことです。
そうした考え方を基に、学校教育の改善を考えると、数十万人もいる教員全てを最高レベルに引き上げるという非現実的なことに力を注ぐよりも、それぞれの分野で最高の教員の授業を全ての子供に届ければよい、という発想になります。それが、ビデオ等を活用した遠隔授業の普及という形で具体化するのです。理科の授業で最高峰に位置するH教員の授業を、全国100万人の子供に受けさせれば、我が国の理科教育の成果が向上するはずということです。良い授業のノウハウを獲得したAI教員が授業をするという改革案も、同じ延長線上にあります。
一方、ある方法はAさんには有効だったがBさんの興味を引くことはない、という経験論的な考え方に立てば、最高峰教員H氏の授業を受けても、成果が上がるのは一握りの子供についてだけ、ということになります。当然のことながら、一人の教員ができるだけ少ない人数の子供を受け持ち、それぞれに合わせた方法を試みるという形態がベストとなります。
現実の学校は、このどちらにも属しません。35人の子供は個別対応するには多すぎますし、全国100万人の子供に授業を行うのは一人の最高峰教員ではなく数万人の教員です。どちらの立場の論者からみても、中途半端で批判の対象となります。だからこそ、改革、改革と叫ばれ続けているのですが。
しかし、予算や人員、施設等の関係で中途半端にはなっていますが、現行の学校は、坪田氏の主張に近い発想で構築・運営されています。つまり、経験論の世界であり、私が著書「教師誕生」や「教員改革」で主張してきた教員=職人論の世界なのです。教育は科学か経験か、この問題について議論することは、今後の学校像を描く上で欠かせないと思います。