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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

日々新た

2019-11-20 09:00:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「だから職人芸」11月16日
 『創造の源 料理の尊さを』という見出しの記事が掲載されました。桂南光氏と料理研究家土井善春氏との対談記事です。その中の土井氏の言葉に注目させられました。『私に何か得意なことがあるとしたら、いつでも「今日、生れて初めて作る」という気持ちになれることです』。
 仕事の多くは、同じことの繰り返しです。教員も同じです。毎日、教室で数時間の授業をし、清掃や給食を子供とともにし、下校を見送る、授業をする教科や場所に違いがあっても、そんなに違いはありません。
 行事があって、校外に出掛けたり、宿泊したり、あるいは事故やケガといった非日常的な出来事が起きることもありますが、長年、教員をしていれば、子供の怪我もトラブルも、「前にも同じようなことがあった」という感じになりがちです。
 これをマンネリと言います。私はマンネリ化を否定するつもりはありません。マンネリは習熟の一側面であり、緊急事態に直面しても慌てずに対応できることは、教員としての成長の証でもあると考えるからです。私もそうした軌跡を辿って成長してきました。新卒のころは、明日の授業をどうしようかと悩む毎日でしたが、10年選手となったころには、自然と授業の構想が頭に浮かぶようになったものです。みんなそうでしょう。
 その一方で、日々の授業や子供との関係に心が揺さぶられなくなっていくという側面も多くの教員に共通します。「こんなもんだろう」「よくあることだね」「この時期の子供はそうなんだよ」、そんな思いしかもてなくなっていくのです。そうなったとき、教職という仕事は魅力を減じていきます。
 去年と同じ教科書の同じ部分を使って授業をしていても、そして予想通りの反応が返ってきても、そこに驚きや発見を見出すことが出来なければ、気付かぬうちに、子供から学ぶという教員にとって最も大切な姿勢が失われていってしまうのです。同じ「分からない」という答えの中にも、「すごい!」という反応の中にも、去年とは違う何かが、Aさんとは違うBさん流の考えがあることを感じ取ることが出来る能力をもたなければ、子供に対してある種の「敬意」をもつことはできず、それを子供は敏感に感じ取り、教員と心理的な距離を置くようになっていくのです。
 土井氏は、同じ料理を何百回と作っているはずなのに、しかもレシピは完全に頭に入り、手が自動的に動くレベルに達しているはずなのに、毎回新鮮な気持ちで包丁を握り、味見をしているのです。だからこそ料理研究家としての情熱を失わずにいられるのでしょう。良い教員を目指すならば、教員もこうでなければなりません。
 
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その先を

2019-11-19 07:45:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「その先を」11月15日
 『障害で差別ない教育を呼びかけ』という見出しの記事が掲載されました。『国連障害者権利条約の目指す教育や社会を考えるシンポジウム』が開かれたことに関する記事です。残念ながら、期待はずれの内容でした。
 記事では、『人工呼吸器を使う生徒も他の生徒とともに水泳の授業や体育祭に参加』している事例が紹介されたとあります。この報告をした教員は、『できないことよりもできることを探すように心がけている。本人の成長がうれしい』と語っていらっしゃいます。教育者はこうありたいと思います。そして、教育者でないほとんど全ての方も、報告された取り組みを肯定的に評価されるはずだと信じますし、成長した生徒に声援を送りたい気持ちだとも。
 いまどき、障害者は健常者と同じことをしようなどと欲張ったことを考えるな、邪魔だから健常者と一緒にさせるな、などと考えている人はほとんどいないのです。それなのに、こうしたシンポジウムを開かなければならないのは、実際には「インクルーシブ教育」が、広がっていないからです。では、どうして広がらないかと言えば、「インクルーシブ教育」の導入にはいくつかの障壁があるからです。
 その最たるものが、予算措置の必要性です。子供の障害の種類や程度によりますが、「インクルーシブ教育」を行うには、介助者などの人件費、様々な施設設備の費用が必要になります。場合によっては、1人の子供に年間数百万円というケースさえあります。こうした経費は、現在の学校教育予算に上積みされます。そしてそれは国民が負担する税金から支出されることになります。
 我が国は長期にわたる低成長期にあり、各自治体の財政状況には余裕がありません。一方で、英語教育やプログラミング教育など、新しい教育課題の実施に当たっては新たな予算措置が必要となります。そんな現状下では、「インクルーシブ教育」拡充のためには、新たな負担増を受け入れるか、他の教育予算を削減するかしかありません。他人事ではなく、総論賛成各論反対でもなく、「我が市では、インクルーシブ教育拡充のため、新たに市民一人当たり年間1万円程度の増税を行いたい」という提案に賛成できるか、「インクルーシブ教育拡充のために、英語を母語とするALTの採用を控えたい」という方針を許容できるか、という具体的な問題なのです。
 こうしたシンポジウムが無駄だといっているのではありません。今は、インクルーシブ教育の必要性や成果を広める段階ではないといいたいのです。事例紹介で終わらず、その先を論じるべきだと言いたいのです。人工呼吸器を使う生徒に水泳の授業をさせるためには、どういう態勢が必要で、そのために費用はいくらで、適切な介助を行える人材は市内に何人いて、それは必要数に対して何割にしか当たらない、新たな介助者の育成には何円か借りその費用はいくらか、というような試算を示し、そうした条件を基に論じ合う、そんな段階に進まなければならないのです。
 
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時間が生み出すもの

2019-11-18 08:20:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「創造に専門性を」11月13日
 東レ経営研究所の渥美由喜氏が、『難題は「仕事をどうつくるか」』という表題でコラムを書かれていました。その中で、働き方改革に取り組み企業との支援を行っている渥美氏は、『昔も今も依頼が最も多いのは「業務をどのように減らすか」。一方、ここ数年の私の主たる関心事は「仕事をどのようにつくるか」だ』と書かれています。
 そして、『次に必要となるのは、「仕事をつくること」。働き方改革を成功させる秘訣は、社員、特にエース社員に業務を抱え込ませず、業務の「標準化」「誰でもできる化」を進めることだ(略)身軽になったエースは、中長期的に会社に大きな利益をもたらす商品サービスの開発など、今まで時間がなくてできなかった仕事に着手するだろう』と提言なさっています。
 考えさせられる指摘です。私は教員の多忙化の問題について、このブログで何回も触れてきました。多すぎる教育課題、クレーマー化した保護者への対応、無限の奉仕を求める教員聖職論、家庭・地域の教育力の低下など、いくつかの要因を指摘し、その解決の方向性について述べてきました。
 しかし、正直なところ、やや説得力に欠けるということも感じていました。それは、私の主張が、結局のところ、「教員に楽をさせる」ための方法という受け取り方をされてしまうからだと思います。もちろん、教員に精神的肉体的余裕が生まれることは、子供との接し方にも余裕が生じ、一人一人の子供に向き合うことにつながるわけですから、子供の、そして保護者や市民の利益につながるわけですが、その部分が見えにくかったように思います。
 好況とは言えない世相の中、正規雇用で安定し、平均よりは恵まれた状態にあると思われている教員にもっと楽をさせるのか、という反感はあって当然なのです。そう考えたとき、渥美氏のように、余裕が生まれたら何をするのか、学校教育はどのように良くなるのか、を示すという発想が必要だったのです。
 もっとも、学習指導要領等で大枠が決められ、ある程度の画一化が求められる義務教育の場で、営利を目的とせず、数値で成果を表しにくい学校教育という場で、個々の教員が新しい仕事をつくるというのは難しいのが現状です。
 そこで、指導主事の出番です。指導主事はまさにエース教員だった者たちです。彼らを苦情対応や議会対応だけに縛り付けるのではなく、専門的な知見を生かして、新しいアイデアを出し実現させていく業務に携わせるようにすることが、地に足の着いた改革を進める近道になると思います。
 指導主事に企画立案業務を、各教委はこうした視点で業務の見直しを進めるべきだと思います。
 
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私とは違うあなた

2019-11-17 09:25:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あなたはあなた、私は私?」11月12日
 週1回の『読書日記』欄は、文化人類学者上田紀行氏が担当でした。上田氏は、『未来への大分岐』(集英社新書)を取り上げられていました。その中で上田氏は、「相対主義批判」の著述に触れ、『文化が違えば、立場が違えば、ものの考え方や行動様式は違う。だから他人にも他人の見方にも干渉しない。それは一見寛容に見えるが、その相対主義は、事実を認めず、「それは彼らの見方にしかすぎない」「私の見方は違う」と喝破するトランプ流の「ポスト真実」をもたらしてしまう。そうではなく、正義、平等、自由といった普遍的な概念の復権が必要』という哲学者マルクス・ガブリエルの見解を紹介し、賛意を示されています。
 大事な指摘だと思いました。実は学校教育の場にも、ここで批判されている「相対主義」的な考え方が浸透しているように思えるのです。教員が「そういう考え方もあるんだね」というフレーズで、子供の見方・考え方を全て容認する風潮です。
 例えば、道徳の授業では、戦前の修身に対する反動もあり、教員がある価値観を強制し刷り込むことはいけないとされています。もちろん、それは全面的に正しいのですが、こうした指導が重要なわけを理解せず、子供の言いっ放しで授業を終えてしまう教員がいるのです。極端なことを言えば、いじめはいじめられる側にも責任があるとか、世の中の役に立たない人は死んだ方がいい、というような暴言まで許容してしまうような、です。
 道徳の授業で、特定の価値観を教え込んではいけないというのは、そうした行為は真の意味で子供の道徳性の陶冶には結びつかないこと、表面的に教員の意向に迎合するだけの面従腹背の生き方を植え付けてしまうこと、自分の考えをきちんと主張する姿勢を損なってしまうこと、などの問題点があるからであり、子供の暴言を放置してよいということではないのです。求められているのは、子供の思いを受け止めた後、新しい事例を提示したり、他の意見をもつ友人と議論の場を設けたり、ロールプレイや体験的な活動などを通して異なる立場に立たせてみたりという工夫によって、子供と「正しい価値観」を出会わせることなのです。そこまでしなければ、道徳教育ではありません。
 これは道徳教育に限定したことではありません。子供が自ら問題を発見し、自ら考え解決する学習は、全教科領域において推奨されています。ここでも、子供の発想や感じ方を否定せず、肯定的に受けとめる態度が重要となりますが、それは間違いや誤解を放置する意味ではありません。子供の思考過程を探り、必要な情報や示唆を与えて、正解の方向に軌道修正させてやることが教員の役割なのです。
 授業以外の場においても同じです。教育相談の基本は受容だと言われますが、それだけでは誤解を生んでしまいます。受け止めるのは子供の感情であり、問題となった行為ではありません。級友に暴力を振るった子供に対し、「そうか、みんなの前で言われて悔しかったんだね。そういうことは先生も子供のときにあったよ。気持ちは分かる」で終わるのではなく、その後に「でも、どんなに悔しくても暴力はいけないことだ~」と続けなければいけないのです。未熟な教員は、その点を誤解してしまう場合があります。
 上田氏は、文化人類学者らしく、正義、平等、自由を普遍的な概念として重視しています。教員にとっての普遍的な概念は、子供の発達段階によっても変わってくるかもしれません。正直や責任、寛容や助け合い、自立と自律、など私にはこれとこれと明示することはできませんが、独善的にならないためには、各学校の教育目標や計画に含まれている価値項目が参考になるでしょう。自信をもって「普遍」を教えましょう。

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幸せな授業

2019-11-16 08:30:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「幸せな授業」11月12日
 『幸福のあり方解く』という見出しの記事が掲載されました。慶応大学大学院SDM研究科教授前野隆司氏の研究を紹介する記事です。「幸福学」の第一人者とされる前野氏は、『1500人を対象に29項目87個におよぶ「幸福の因子」に関する調査を行った』そうで、「幸せの4因子」を明らかにされました。
 『自己実現と成長の「やってみよう因子」、感謝と人を喜ばせる「ありがとう因子」、楽観性の「なんとかなる因子」、マイペースの「あなたらしく因子」』なのだそうです。私が前田氏の研究成果をきちんと理解できているかは分かりませんが、4つの因子は、良い授業の条件として、多くの教員が研究実践で主張してきたことに重なると思いました。
 良い授業は、教員の指示と強制で進むのではなく、子供が「どうしてなんだろう」「面白そうだな」と感じて「調べてみたい」と取り組むものです。つまり、「やってみよう」です。
 そして、教員と子供が1対1で展開させるものではなく、多くの子供が共通の体験をし、それを土台に話し合いや討論に参加したり協働で何かを創り上げたりするものです。その過程で共同学習の醍醐味を味わうのです。「ありがとう」です。
 教員が一方的に説明してそれを聞くだけの知識注入型の授業は、子供にとって楽であるという一面をもちますが、自分で考え解決していく授業は、ときに道に迷い見通しがもてなくなり、これでいいのかと懐疑的にになるものです。そんなときぽっきり折れてしまうのではなく、自分にはやり切るだけの能力があると思いこめることが重要です。そのために教員は、スモールステップの学習過程を組み、子供に成功体験を積み重ねさせていくのです。こうして子供に「なんとかなる」意識を育てるのです。
 そして忘れてはいけないのが個性尊重です。同じ問題意識の下、問題解決に当たっても、その過程は十人十色、千差万別です。じっくり一人で調べるのが好きな子供少人数で話し合って刺激を受けていく子供、文章を読んで理解するのが得意な子供もいれば人から話を聞いて分かる子供もいれば、写真や映像から直感的に把握する子供もいます。分かったことを表現して伝える際にも、言葉で話す、絵やグラフを使う、寸劇や紙芝居などストーリーを通して伝えるなど、様々です。個々の子供の良さを生かし認める、つまり「あなたらしく」です。
 子供が幸せを感じる授業が良い授業、考えてみれば当たり前なのかもしれません。
 
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ハイブリッドな職

2019-11-15 08:25:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「低評価の背景」11月11日
 毎日出版文化賞企画部門受賞「シリーズ ケアをひらく」担当編集者白石正明氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中に次のような記述がありました。『医療業界で、ケアは「専門家でなくてもできる」という印象を持たれがちで、重視されていないように感じていた(略)ケアはあまりに範囲が広いので、どういう学問から見ても中途半端に見える。でもあらゆるジャンルにクロスオーバーしているのはケアだけ』と。
 ちなみに後段は、公共政策、科学哲学を専門となさっている京都大教授広井良典氏の言葉だそうです。目から鱗が落ちる、という感じがしました。私はこのブログで、教員は教えることの専門家、授業のプロと主張してきました。また、教員の仕事は職人芸とも書いてきました。さらに、小学校教員を長年してきた経験から、授業や学級経営が難しいのは、高学年よりも低学年である、つまり、より専門性が求められるのは低学年担任の教員であるとも指摘してきました。
 こうした主張は、教職に対する低評価に対する異議申し立てという性格をもっていました。教職の専門性を正しく理解するということは、教育政策を立案・実施していく上で不可欠な要素だと考えているからです。それは外部からの無理解というだけでなく、教員内部にもありました。中学校校長会の会長を務め退職後は教育委員になったH氏は、酒席で「何だかんだ言っても、幼稚園の先生なんていうのは、チイチイパッパやってるだけなんだろ」と言い放ちました。小さいこの相手など誰でもできる、というに認識だったのです。まさしく、ケアは専門家でなくてもできる、と共通する誤った認識です。
 私はこうした見方や捉え方に対して上記のような表現で反論してきたのですが、何だかいいたいことがうまく伝えられていないもどかしさを感じていました。それが、広井教授の「あらゆるジャンルにクロスオーバーしている」という言葉で、胸のつかえが下りたような感覚を覚えたのです。
 教職は、単に理科や社会などの基礎的な理解を必要とするだけでなく、心理学や認知学・行動学、組織論や経営論、説得力や表現力など、様々な分野の様々な能力が必要とされる「クロスオーバー」な職なのです。
 これからは教職=クロスオーバー論を展開していきたいと思います。
 
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英語教育のカオス

2019-11-14 08:45:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「混沌」11月10日
 日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏が、「悪弊の刷新」という表題でコラムを書かれていました。藻谷氏は、雰囲気やムードに流されることなく、事実に基づいて冷静な分析をなさる方だと思います。私は藻谷氏のコラムを読むのを楽しみにしています。
 今回、藻谷氏は、課題を先送りし小手先の改革で乗り切ろうとする悪弊について述べていらっしゃいます。その一例として、英語教育を取り上げています。藻谷氏は、『欠けているのは、母音だけでも20前後あるとされている、英語を発音する訓練である。母音が5つしかない日本語を話しているだけでは使わない、顎回りの筋肉をつけなければならない』と指摘し、『英語を学習する最初の年に発音の教育だけを徹底的に行えば、その世代から下は、それなりに会話できるようになる』と提案なさっているのです。
 なるほどと思う反面、英語教育に関心をもつ人たちからは反論もありそうだと思います。まず、「顎回りの筋肉~」という指摘からすると、意味の理解など不要な「訓練」ですから、早期に行うことが可能ですし、筋肉に日本語の癖が付く前の早期に行うほど効果的ということになります。具体的には小1から始めるべきということです。これには母語の習得が全ての学習の基盤であるという反論がありそうです。
 また、発音の訓練をすべきという主張は、近年主流の学習観には反します。自ら問題を発見し、自ら考え~という主体的な学習が望ましいという立場からすると、とにかく訓練で叩き込むという指導のあり方は厳しく批判されるでしょう。
 さらに、英語の発音に拘る藻谷氏の主張そのものを否定する意見も現れてきています。それは、英国流の正当な英語ではなく、世界で主流なのはそれぞれの国や地域で使われている訛りや癖が強い現地英語でよいとする考え方です。dayをダイと発音する地域もあり、そうした英語擬きが飛び交っているのが現在のグローバル企業であるという指摘です。確かに、世界共通語としての「英語」なのですから、細かな発音に拘るのは間違いという主張にも理があるように思います。
 そして、藻谷氏の、発音の訓練で会話ができるようになるという指摘には、読む書くについての言及がありません。英語教育については、グローバル化した中で真に求められているのは、論文や契約書などの論理的な文章をしっかり読み来ないし書き表すことが出来る能力だという意見もあり、会話中心主義そのものにも疑念がもたれています。
 英語教育について、より活発な議論が必要であることは間違いありません。藻谷氏のような方がそこに刺激を与えてくだされば、より意味のある議論が展開されるはずだと期待します。
 
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囲い込みと切り離し

2019-11-13 08:37:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「表す言葉」11月9日
 ドイツ駐在の念佛明奈記者が、『せきと鼻水』という表題でコラムを書かれていました。その中で念佛氏は、長男を医院に連れて行ったときの経験を綴られています。『ゼイゼイいうせきと鼻づまりが1ヵ月続く(略)ミューマー氏は「この子はせきをして鼻水を垂らしている非常に健康な子ども」と診断。「散歩に連れ出し、新鮮な空気を吸わせること」と“処方”された』と。
 その後も、2週間下痢が続いて医院に連れて行っても、食事のメニューを渡されただけで、薬は出ません。こうした経験を重ねて念佛氏は、『「子どもの異変にはまず病院。そして薬を」という意識は薄れ』たと書かれています。
 とても考えさせられる話です。人はあるものや状況に名前を付け、名前を付けたことで今度はそのものや状況を意識するという事を繰り返してきました。せきと鼻水は、風邪という病名を付けられ、投薬や注射・点滴等の医療行為の対象とすることが常識になり、医療行為をしないで対処するというのは、非難されるべき行為となっていったのです。ですから、「暖かくして栄養のあるものを食べて寝てれば治る」などと言えば、医師失格とされかねず、医師はとにかくもっともらしい薬を出す、それで治れば腕のいい医者という仕組みが出来上がっていたのでは、というのが念佛氏のコラムの含意でしょう。
 学校に通っていない子供は昔からいましたが、それに登校拒否、不登校という名前を付けたことによって、解決すべき問題であるという意識が生まれ、我が子が3日も学校を休むと、不登校だと慌てて対策に駆け回るようになったのです。
 学校生活で突飛なことをして、目立つ子供はどこの学級にもいました。やがて、LDやADHDという脳の機能障害であることが認知され、対応が進められました。いつも同じ汚れた服を着て登校してくる子供は、ネグレクトという虐待の被害者として、児童相談所が家庭訪問をするようになりました。
 いずれも、それまで認知されていなかった、あるいは誤解されたり、軽視されたりしていた被害者が救われるようになったのですから、良い結果をもたらしたといってよいと思います。しかし、命名しカテゴライズしたことで、通常や普通とは異なるものとされ、特別扱いされ、分離させられてしまって弊害が生じているケースもあるように思います。
 何か事件があり、子供がショックを受けていると推察されるとき、保護者はスクールカウンセラーの派遣を求め、教委は当然のこととしてスクールカウンセラーを緊急は位置します。子供を最もよく知るはずの、教員や保護者は関わらなくてもよいことにされているのです。この対応は本当に正しいのでしょうか。
 こうした事態が続けば、教員も保護者も子供を理解し、寄り添って心のケアをするという能力を失ってしまいます。カウンセリングの専門技能ということとは別に、ぎゅっと抱きしめて背中をさすってやるというような子育ての歴史の中で当たり前にしてきた行為すら出来なくなってしまえば、大問題なのに。
 抱きしめて背中をさする行為も、空気のよい場所で散歩をする行為も排除され、相談室で臨床心理士と向き合い、病院で注射を打ってもらうことがよしとされるのは、本当に進歩なのか、子供の成長に携わる保護者や教員は、そして教育行政を司る者たちは、よく考える必要があるように思います。子供の成長に関わる行為を細分化、専門化し、そうした専門家に丸投げすることの是非を。
 
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偏らず事実だけを

2019-11-12 08:17:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「見出しが違う」11月9日
 『寄り添わぬ第三者委』という見出しの記事が掲載されました。学校におけるいじめや体罰などに起因する『自殺や事故を巡る第三者委員会の調査に対し、多くの被害者家族が不信感を募らせている』ことがアンケート結果によって明らかになったと報じる記事です。
 記事では、全国学校事故・事件を語る会代表世話人内海千春氏のコメントが掲載されています。『学校生活で子供の命が奪われた時、遺族が知りたいのは「なにがあったのか」という事実のすべてだ』と。内海氏は、第三者委設置による真相解明を求める運動の中核を担ってきた方です。それだけにおっしゃっていることは正しいと思います。
 ところで、「全ての事実を知りたい」と「寄り添う」は、同じことを意味しているのでしょうか。私は違うと思います。「寄り添う」という表現からは、遺族が思い描いているであろう「事実」に沿うような調査結果を提出する、というニュアンスがついて回ります。
 例えば、ある生徒が教員による指導の後、学校の屋上から投身自殺したとします。遺族は、教員が不当に厳しい指導をした結果、我が子が精神的に追い込まれて自殺したのではないか、と考えるでしょう。我が子は、通常の適切な指導で命を絶つような弱い子供ではないはずだ、注意が必要なことはあったかもしれないがきつく叱らなければならないほど悪いことをするような子供ではないはずだ、厳しい指導が必要ならば親を同席させるべきだったはずだ、などの疑問や不満を抱くのは当然です。
 しかし、実際には、自殺した生徒の行動は、授業中に教室を抜け出し、他の学級の生徒を呼び出して、脅して10万円以上の金を持ち出させて受け取り、口封じのために吸っていた煙草を相手のお腹に押し付けて火傷させるという悪質なもので、しかも数人の生徒に複数回繰り返していたというものだったということもあり得ます。さらに、その事実を把握した教員が、人権を考慮し、他の生徒に分からないように相談室に呼び、穏やかに話を聞き出そうとしていたにもかかわらず、黙秘を続け話そうとしません。教員は、「ここでは話しにくいのなら、家に戻ってご両親と相談してごらん。ご両親はきっとよいアドバイスをしてくれるはずだよ。また明日話を聞こう」と言って帰宅させます。門のところまで見送り、下校したことを確認もしました。その後、生徒は学校に戻り、屋上から飛び降りたというのが確認できた事実だったと報告したとして、保護者は納得しないことが考えられます。
 うちの子がそんなことをしていたはずがないなど、自分が思い描く「我が子像」との食い違いに納得できず、我が子を、そして自分の子育てを否定されたような思いに駆られ、「嘘だ!」と叫びたくなっても不思議ありません。だからといって、事実を曲げることはできません。それは、内海氏が言う「事実のすべてを知りたい」という思いにも反します。
 もちろん、今の例は、あえて極端に作ったもので、自殺や事故の大部分は、学校側に重大な手落ちがあるケースだと考えるのが妥当です。でも、「寄り添う」という表現には、どうしても遺族が納得しない調査結果を報告するべきではない、というニュアンスを感じ取れるのです。
 徹底した事実究明、この言葉を使うべきだと思います。そして蛇足ながら、事実究明を掲げるならば、第三者委は、大学教授などではなく、警察や検察等の捜査の専門家のOBを中心に構成すべきだと思います。
 
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重視すべきなのは

2019-11-11 07:21:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「不可能」11月7日
 『高校生「記述式延期を」 共通テスト文科省に署名4万筆』という見出しの記事が掲載されました。『大学入試共通テストで国語と数学Ⅰ・Aに導入される記述式問題について「高校生を共通テストから守る会」の現役高校生が6日、実施延期を求める約4万2000筆の署名を文部科学省に提出した』ことを報じる記事です。
 『記述式は採点にムラが出て自己採点も難しい』という理由からの延期要請だということです。よく分かりません。延期要請ということは、中止は求めていないということです。しかし、いくら延期しても、「記述式は採点にムラ」という問題は解決できないのではないでしょうか。
 「江戸幕府の初代将軍は」という問いに対する正答は「徳川家康」です。それ以外の正答はありません。ですから採点のムラは発生しません。ひらがなでもいいのか、漢字が間違っていたら、というような「正答の幅」の問題はあり得ますが、それは事前に基準を明確化しておくことで対応可能です。ですから、知識注入型教育や暗記主義と批判されるにしても、選択式や記憶再生型テストは、公平性・客観性が保てるという利点があり、それゆえ長年入試で活用されてきたのです。
 二兎を追う者は一兎をも得ず、ということわざがありますが、記述式を実施するということは、公平性・客観性を捨て、その代わりに思考力や表現力といったより人間的な能力を測定するという道を選んだということなのです。この点を忘れてはなりません。もちろん、少しでも公平性・客観性を高める工夫は可能ですが、選択式のレベルまでに高めることは所詮不可能なのです。
 私が都教職員研修センターの統括指導主事をしていたとき、教員研究生希望者の選考試験における小論文(1000字程度)審査をしたことがあります。受験者は80人程度だったと思います。各自2問の小論文が課せられていました。合計160の小論文を審査することになります。統括指導主事は16名、一人当たり10の小論文を読むことになります。時間は午前9時から12時の3時間、おおよそ1論文15分程度で評価し終える計算です。それを2日繰り返すのです。つまり、同じ小論文を2人の統括指導主事が読み、平均点を受験者の得点とするということです。
 統括指導主事は、指導主事を7年から10年経験した者の中から選ばれています。指導主事は、多くの主任歴や研究歴を有する教員の中から10倍を超す倍率の選考試験を潜り抜けて合格した者が任用されていますから、教育研究の専門家揃いです。そうした専門家集団が、ある程度時間が確保された中で、しかも複数の評価者を置くという措置をして、少しでも公平性・客観性をもたせようとしたわけです。もちろんこれでも、受験者からすれば、自分の小論文は正当に評価されたのだろうか、という疑念を100%解消することはできなかっただろうと思います。
 実は私も、教員時代に教員研究生の選考試験を3回受けています。最初に2回は、小論文は合格しましたが、面接で落ち、やっと3回目に面接も合格したのです。だからこそ、受験する教員の気持ちも分かりましたし、事務局からの指示通り、アラを探すよりもよい点に着目して評価したつもりです。
 毎年数十万人が受験する大学入試共通テストで、このような手厚い対応が取れるはずはありません。採点にムラは出るのです。それは記述式の避けられない欠点です。避けられないということを受け入れた上で、それでも記述式で行くのか、ということを考えることが必要だと思います。
 

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