『創造の源 料理の尊さを』という見出しの記事が掲載されました。桂南光氏と料理研究家土井善春氏との対談記事です。その中の土井氏の言葉に注目させられました。『私に何か得意なことがあるとしたら、いつでも「今日、生れて初めて作る」という気持ちになれることです』。
仕事の多くは、同じことの繰り返しです。教員も同じです。毎日、教室で数時間の授業をし、清掃や給食を子供とともにし、下校を見送る、授業をする教科や場所に違いがあっても、そんなに違いはありません。
行事があって、校外に出掛けたり、宿泊したり、あるいは事故やケガといった非日常的な出来事が起きることもありますが、長年、教員をしていれば、子供の怪我もトラブルも、「前にも同じようなことがあった」という感じになりがちです。
これをマンネリと言います。私はマンネリ化を否定するつもりはありません。マンネリは習熟の一側面であり、緊急事態に直面しても慌てずに対応できることは、教員としての成長の証でもあると考えるからです。私もそうした軌跡を辿って成長してきました。新卒のころは、明日の授業をどうしようかと悩む毎日でしたが、10年選手となったころには、自然と授業の構想が頭に浮かぶようになったものです。みんなそうでしょう。
その一方で、日々の授業や子供との関係に心が揺さぶられなくなっていくという側面も多くの教員に共通します。「こんなもんだろう」「よくあることだね」「この時期の子供はそうなんだよ」、そんな思いしかもてなくなっていくのです。そうなったとき、教職という仕事は魅力を減じていきます。
去年と同じ教科書の同じ部分を使って授業をしていても、そして予想通りの反応が返ってきても、そこに驚きや発見を見出すことが出来なければ、気付かぬうちに、子供から学ぶという教員にとって最も大切な姿勢が失われていってしまうのです。同じ「分からない」という答えの中にも、「すごい!」という反応の中にも、去年とは違う何かが、Aさんとは違うBさん流の考えがあることを感じ取ることが出来る能力をもたなければ、子供に対してある種の「敬意」をもつことはできず、それを子供は敏感に感じ取り、教員と心理的な距離を置くようになっていくのです。
土井氏は、同じ料理を何百回と作っているはずなのに、しかもレシピは完全に頭に入り、手が自動的に動くレベルに達しているはずなのに、毎回新鮮な気持ちで包丁を握り、味見をしているのです。だからこそ料理研究家としての情熱を失わずにいられるのでしょう。良い教員を目指すならば、教員もこうでなければなりません。