「キャリア教育再考」12月21日
「高卒者の就職難」というタイトルの社説が掲載されました。その中では、10月末現在の内定率が過去最大の下げ幅になったことを受け、『不安定な採用状況を改善するため、早い段階から勤労観や職業観をはぐくみ、適性や意欲を引き出し伸ばす「キャリア教育」の充実も急務だ』という主張がなされています。
基本的な考え方に疑問を感じます。まず、現在の「不安定な採用状況」の原因は、生徒側にあるのではなく、景気の先行きが不透明で雇用や設備投資を積極的に増やすどころか削減せざるを得ないという経済状況、すなわち企業側にその原因があるという認識が不足しているということです。ただ、これについては詳しくは触れません。経済にはまったくの素人ですから。
しかし、長年、教委に籍を置いてきた者として、「キャリア教育」に関するとらえ方については一言言っておきたいと思います。「社説」が言うように、「キャリア教育」の背景には、フリーター増加やニート問題がありました。若者の離職率の高さを改善しようという目的の下に、「キャリア教育」の導入が進められてきたのです。しかし、私は、『地元産業人を教壇に招き、キャリアを積んできた「プロ」の意識や誇り、喜びを伝えてもらったり、職場実習教育を拡充・多様化させる』取り組みは、離職率の低下をもたらすものではないと考えています。このことについては、以前にも書いたことですので、重複を避けるため、同じ新聞社の平成17年6月23日の記事について書いた私の原稿を引用してみます。
『「ニート」になる割合は、中学卒や高校中退者の方が、大学や大学院卒より高いことが、厚生労働省所管の研究機関の調査で分かった。こうした調査は初めてで、担当者は「学校での職業体験を充実させ、中退者を減らす努力が必要」と訴えている』という内容です。また、この記事の後半では、研究員の分析として『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない実態を反映している』とも書かれています。
私はこの記事を読んで違和感を感じました。記事では、中退者と卒業者、低学歴と高学歴を比較した場合、前者の方が「ニート」になる割合が高いとされています。そのこと自体については、多くの方が漠然と感じているとおりの結果だと思います。私もそう感じていました。おかしいと思ったのは、 の部分です。「職業体験の充実」と「中退者減」の関係がよく分からなかったのです。
この調査結果を報じた記事からいえるのは、「ニート」を減らすには中退者を減らすことと大学や大学院まで学ぶ人を増やすことが大切であるということだけです(調査自体には他の内容も含まれているのでしょうが)。職業体験の充実が「ニート」減少とどのような関係があるのかということについては、記事の中には一切書かれていません。職業体験を充実させれば、子どもたちは働くことの意義や喜びを体感し「ニート」は減るということを暗黙の了解としているのでしょう。これは、「ニート」である人は勤労意欲が乏しく、そのことが「ニート」という問題を発生させている主たる原因であるという考え方を表しています。本当にそうなのでしょうか。
「ニート」である人の大部分は、「ニート」でありたいと考えてはいません。適当な就職先がなく、しかたなく「ニート」という現状に甘んじているのです。それは、先ほどの記事の中の『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない』という実態分析からも明らかです。だとすれば、「ニート」を減らすために学校教育関係者が配慮すべきことは、学校を中退させないこと、高い学歴をもつことができるようにすることの二つになるはずです。
学校を中退する子どもの多くは、授業内容を理解できず、授業についていけないという実態があります。素行不良による中退者もなぜ素行不良になったという原因を探ってみれば低学力という実態に突き当たります。つまり、単純化して示せば、授業を充実させる→授業内容が理解できる→中退者が減る→「ニート」が減るという図式が成り立つのです。以前も書いたことですが、学校生活の多くは授業を受けている時間が占めています。その時間が苦痛であれば学校生活全体が耐え難いものになっていくのは当たり前のことです。学校は、学業だけでなく、友人や教員との触れ合いを通して人間関係を学んだり、部活や生徒会活動などを通して協力や努力の素晴らしさを学ぶところだという趣旨のことを言う人がいます。そうした面もありますが、学校生活の中核をなすのはあくまでも学業であるべきだと思います。
話がそれてしまいますが、教員は子どもの成績だけでなく、子どものいろいろな面をみて評価すべきであるという考え方があります。私は大反対です。教員は子どもの学習の状況を適切に評価する(成績による順位付けではありません)ことに全力を注ぐべきなのです。考えてもみてください。休み時間に友人と話していることまで教員が把握し「優しく思いやりがある」とか「自己主張が強く、相手の気持ちを考えない」などと評価され、通知票に書かれ、個人面談で親に伝えられるような生活では息がつまります。自分自身の問題として考えてみればすぐ分かるはずです。職場において、同僚との私的な会話や退勤後の行動などが勤務評定の対象とされるとしたら、自分を殺し仮面をかぶり続けるしか対処法はありません。
学校では勉強で、会社では業績で評価されるのが正しい姿なのです。野球部では野球が上手いか下手か、陸上部では遠くに跳べるか否か、水泳部では早く泳げるか否かで評価されるのが当然であることと同じです。あの子は下手だけど心が優しいからレギュラーにするとか、記録は低いけど責任感が強いから今度の試合に出場させるというようなことをすれば、優遇された子どもも反対の立場の子どもも傷つくでしょう。ずっと補欠だった選手が、三年生最後の試合で九回に代打で出場するのは実力ではなくお情けです。選手自身がそのことを知っています。子どもはきちんとした基準で公平に評価されるのであれば、評価が低くても傷つくことは少ないものです。子どもが傷つくのは、一つの基準で自分という人間全体が低い評価をされたときなのです。教員は、「学校は勉強という物差しで君のことを評価するところだ。勉強という物差しで測ると君は○○だ。でも、勉強は君の人間としての価値の一部にすぎないし、勉強が○○であることは、君が□□であることを意味しているわけではない」ということを徹底すべきなのだと思います。
話を戻します。高学歴という点ではどうでしょうか。数年後には、大学全入時代を迎えます。大学を選びさえしなければ、すべての子どもが大学卒の肩書きを手に入れることができる時代がやってくるのです。このことは、大学卒でない者はますます就職機会が狭められる時代を迎えるということを意味します。つまり「ニート」になっていくのです。大学に進学するか否かは本人の選択の問題です。しかし、大学に行こうと思えば行くことができるだけの学力を付けさせるのは学校の責任です。大学に行こうと思ったけど、数学の学力は分数の足し算もあやしいという程度というのでは進学という選択肢はなくなってしまうのですから。そして、学力を保障するための手だては授業の充実ということになるのです。
もちろん、学歴が何の意味ももたない分野もあります。しかし、そうした分野ほど実力主義の競争の激しい世界なのです。「ニート」の問題は、もっと一般的な「真面目に人並みに働いて、そこそこの生活をしたい」という意識の人々にとっての問題です。二十六歳までに四段になれなければクビになる棋士や売れなければ何十年たとうが家族を養うこともできない芸人の世界を目指す人や新規事業に参入して一攫千金を求める人の問題ではありません。そうした分野で成功した一部の人を取り上げて、就労の問題を考えることはあまり意味がありません。
要するに、冒頭の記事にある調査結果を素直に読むならば、授業を充実させ子どもたちの学力を一定水準以上に高める努力をすることが、学校にとって最も有効な「ニート」対策であるということです。
「職業体験の充実」は、授業に充実、学力保障という前提が実現した上で行われるべきものです。すべての中学校において一週間の「職業体験」をという施策を進めている自治体があります。忘れてならないのは、一週間の職業体験をさせるということは、約三十時間の教科等の授業ができなくなるということです。事前事後の学習も含めると、より多くの時間を費やすことになります。何でもかんでも学校教育に持ち込んできた結果、最も大切な学力向上が疎かになる。そんなことにならないようにしてほしいものです。
「高卒者の就職難」というタイトルの社説が掲載されました。その中では、10月末現在の内定率が過去最大の下げ幅になったことを受け、『不安定な採用状況を改善するため、早い段階から勤労観や職業観をはぐくみ、適性や意欲を引き出し伸ばす「キャリア教育」の充実も急務だ』という主張がなされています。
基本的な考え方に疑問を感じます。まず、現在の「不安定な採用状況」の原因は、生徒側にあるのではなく、景気の先行きが不透明で雇用や設備投資を積極的に増やすどころか削減せざるを得ないという経済状況、すなわち企業側にその原因があるという認識が不足しているということです。ただ、これについては詳しくは触れません。経済にはまったくの素人ですから。
しかし、長年、教委に籍を置いてきた者として、「キャリア教育」に関するとらえ方については一言言っておきたいと思います。「社説」が言うように、「キャリア教育」の背景には、フリーター増加やニート問題がありました。若者の離職率の高さを改善しようという目的の下に、「キャリア教育」の導入が進められてきたのです。しかし、私は、『地元産業人を教壇に招き、キャリアを積んできた「プロ」の意識や誇り、喜びを伝えてもらったり、職場実習教育を拡充・多様化させる』取り組みは、離職率の低下をもたらすものではないと考えています。このことについては、以前にも書いたことですので、重複を避けるため、同じ新聞社の平成17年6月23日の記事について書いた私の原稿を引用してみます。
『「ニート」になる割合は、中学卒や高校中退者の方が、大学や大学院卒より高いことが、厚生労働省所管の研究機関の調査で分かった。こうした調査は初めてで、担当者は「学校での職業体験を充実させ、中退者を減らす努力が必要」と訴えている』という内容です。また、この記事の後半では、研究員の分析として『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない実態を反映している』とも書かれています。
私はこの記事を読んで違和感を感じました。記事では、中退者と卒業者、低学歴と高学歴を比較した場合、前者の方が「ニート」になる割合が高いとされています。そのこと自体については、多くの方が漠然と感じているとおりの結果だと思います。私もそう感じていました。おかしいと思ったのは、 の部分です。「職業体験の充実」と「中退者減」の関係がよく分からなかったのです。
この調査結果を報じた記事からいえるのは、「ニート」を減らすには中退者を減らすことと大学や大学院まで学ぶ人を増やすことが大切であるということだけです(調査自体には他の内容も含まれているのでしょうが)。職業体験の充実が「ニート」減少とどのような関係があるのかということについては、記事の中には一切書かれていません。職業体験を充実させれば、子どもたちは働くことの意義や喜びを体感し「ニート」は減るということを暗黙の了解としているのでしょう。これは、「ニート」である人は勤労意欲が乏しく、そのことが「ニート」という問題を発生させている主たる原因であるという考え方を表しています。本当にそうなのでしょうか。
「ニート」である人の大部分は、「ニート」でありたいと考えてはいません。適当な就職先がなく、しかたなく「ニート」という現状に甘んじているのです。それは、先ほどの記事の中の『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない』という実態分析からも明らかです。だとすれば、「ニート」を減らすために学校教育関係者が配慮すべきことは、学校を中退させないこと、高い学歴をもつことができるようにすることの二つになるはずです。
学校を中退する子どもの多くは、授業内容を理解できず、授業についていけないという実態があります。素行不良による中退者もなぜ素行不良になったという原因を探ってみれば低学力という実態に突き当たります。つまり、単純化して示せば、授業を充実させる→授業内容が理解できる→中退者が減る→「ニート」が減るという図式が成り立つのです。以前も書いたことですが、学校生活の多くは授業を受けている時間が占めています。その時間が苦痛であれば学校生活全体が耐え難いものになっていくのは当たり前のことです。学校は、学業だけでなく、友人や教員との触れ合いを通して人間関係を学んだり、部活や生徒会活動などを通して協力や努力の素晴らしさを学ぶところだという趣旨のことを言う人がいます。そうした面もありますが、学校生活の中核をなすのはあくまでも学業であるべきだと思います。
話がそれてしまいますが、教員は子どもの成績だけでなく、子どものいろいろな面をみて評価すべきであるという考え方があります。私は大反対です。教員は子どもの学習の状況を適切に評価する(成績による順位付けではありません)ことに全力を注ぐべきなのです。考えてもみてください。休み時間に友人と話していることまで教員が把握し「優しく思いやりがある」とか「自己主張が強く、相手の気持ちを考えない」などと評価され、通知票に書かれ、個人面談で親に伝えられるような生活では息がつまります。自分自身の問題として考えてみればすぐ分かるはずです。職場において、同僚との私的な会話や退勤後の行動などが勤務評定の対象とされるとしたら、自分を殺し仮面をかぶり続けるしか対処法はありません。
学校では勉強で、会社では業績で評価されるのが正しい姿なのです。野球部では野球が上手いか下手か、陸上部では遠くに跳べるか否か、水泳部では早く泳げるか否かで評価されるのが当然であることと同じです。あの子は下手だけど心が優しいからレギュラーにするとか、記録は低いけど責任感が強いから今度の試合に出場させるというようなことをすれば、優遇された子どもも反対の立場の子どもも傷つくでしょう。ずっと補欠だった選手が、三年生最後の試合で九回に代打で出場するのは実力ではなくお情けです。選手自身がそのことを知っています。子どもはきちんとした基準で公平に評価されるのであれば、評価が低くても傷つくことは少ないものです。子どもが傷つくのは、一つの基準で自分という人間全体が低い評価をされたときなのです。教員は、「学校は勉強という物差しで君のことを評価するところだ。勉強という物差しで測ると君は○○だ。でも、勉強は君の人間としての価値の一部にすぎないし、勉強が○○であることは、君が□□であることを意味しているわけではない」ということを徹底すべきなのだと思います。
話を戻します。高学歴という点ではどうでしょうか。数年後には、大学全入時代を迎えます。大学を選びさえしなければ、すべての子どもが大学卒の肩書きを手に入れることができる時代がやってくるのです。このことは、大学卒でない者はますます就職機会が狭められる時代を迎えるということを意味します。つまり「ニート」になっていくのです。大学に進学するか否かは本人の選択の問題です。しかし、大学に行こうと思えば行くことができるだけの学力を付けさせるのは学校の責任です。大学に行こうと思ったけど、数学の学力は分数の足し算もあやしいという程度というのでは進学という選択肢はなくなってしまうのですから。そして、学力を保障するための手だては授業の充実ということになるのです。
もちろん、学歴が何の意味ももたない分野もあります。しかし、そうした分野ほど実力主義の競争の激しい世界なのです。「ニート」の問題は、もっと一般的な「真面目に人並みに働いて、そこそこの生活をしたい」という意識の人々にとっての問題です。二十六歳までに四段になれなければクビになる棋士や売れなければ何十年たとうが家族を養うこともできない芸人の世界を目指す人や新規事業に参入して一攫千金を求める人の問題ではありません。そうした分野で成功した一部の人を取り上げて、就労の問題を考えることはあまり意味がありません。
要するに、冒頭の記事にある調査結果を素直に読むならば、授業を充実させ子どもたちの学力を一定水準以上に高める努力をすることが、学校にとって最も有効な「ニート」対策であるということです。
「職業体験の充実」は、授業に充実、学力保障という前提が実現した上で行われるべきものです。すべての中学校において一週間の「職業体験」をという施策を進めている自治体があります。忘れてならないのは、一週間の職業体験をさせるということは、約三十時間の教科等の授業ができなくなるということです。事前事後の学習も含めると、より多くの時間を費やすことになります。何でもかんでも学校教育に持ち込んできた結果、最も大切な学力向上が疎かになる。そんなことにならないようにしてほしいものです。
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