「ありがとうございます」2月9日
読者投稿欄に、兵庫県の元教員I氏の『教師冥利に尽きるということ』という投稿が掲載されました。その中でI氏は、教員不足のニュースに触れ、『職務の過酷さを必要以上に取り上げるのではなく魅力の数々を探し発信』することの重要性を説いています。
その通りだと思います。ただ、I氏が説く教職の魅力が気になるのです。I氏は、『生徒からもらった数えきれない「ありがとうございます」の言葉。この程度でいいのかと自問しつつ教師の仕事の魅力、奥深さをかみしめてきました』と書かれています。
羨ましい限りです。恥を明かすようですが、私には教え子から「ありがとうございます」と言われた記憶がないのです。もっとも、机間指導のとき、落ちていた消しゴムを拾ってあげたときに、「ありがとう」と言われたというような軽い「ありがとう」はいくつもあったでしょうが。
また、卒業生を送る会や勤労感謝の集会などで、代表の子供から「ありがとうございます」と言われたことはありますが、それは儀式の言葉、あまり意味はありません。正直に言うと、私には子供が教員に「ありがとうございます」と言う場面が頭に浮かばないのです。
分かりやすい授業ができたとき、授業中の発言について個性的な見方だと褒めたとき、補助具を使わせて初めて逆上がりができるようにさせたとき、子供が作った歴史新聞にコメントを付けて返したとき、そんな繰り返される日常の中で、子供が「ありがとうございます」と言う光景は想像もつきません。
私が特にダメな教員だったのかもしれませんが、子供が改まって「ありがとうございます」を言うのは、何か特別なとき、顧問として指導してきた野球部が都大会で優勝を勝ち取ったとか、プールでおぼれていた子供を飛び込んで助けたといった劇的な場面でしかないのではないか、という気がしてならないのです。
しかし、学校生活は学園ドラマではありません。そんな劇的なことは起こりません。平凡な日常の繰り返しの中で、子供たちが小さな幸せを感じてくれればそれで十分なのです。
私は教員としての充実感を、日頃の授業の準備から得ていました。学級の子供の顔を浮かべながら、この場面ではAさんがこんなことを言うだろう、Bさんは何も言わずに事典を調べ始めるかな、などと考えながら、学習指導案を作り、自作資料を作成し、授業をしては記録を分析して、次の授業の準備をする。十分な準備ができたと思えるときは満足感がありますし、ごく稀にですが子供が「先生、もっと授業続けようよ」などと言ってくれれば心の中で会心の笑みを浮かべたものでした。
子供のために、自分の思いや発想を生かして授業を創り上げていくことが許されている(学習指導要領の範囲内で、ですが)創造的な仕事、それが教職の魅力だと考えているのです。言葉に出して「ありがとうございます」とは言われなくても。
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