ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ほどほどに、なんだけど

2022-05-09 08:08:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中道を」5月5日
 読者投稿欄に、兵庫県の主婦T氏による『学校は多様な個性が集まる場』と題する当初が掲載されました。その中でT氏は、『学校は多様な個性が集まる場で「周囲と違うのはすてきなこと」を学ぶ場でもあります』と書かれています。
 その通りです。私が教委に勤務していたときも、生活指導を担当する主任指導主事が、金子みすゞ氏の「みんな違ってみんないい」を引用しながら、個性を尊重して育てることの大切さを強調していたものです。
 しかし、一方で、学校とは個性を削り、剪定する場でもあるということを忘れてはなりません。チャイムが鳴ったら教室に入り席に着く、ということを強制する場なのです。もっと遊んでいたい、校庭を走り回りたい、花壇の花を見ていたい、暑いからプールに入って水浴びしたい、という思いを抑え付けるのが教員なのです。
 こうした指導を繰り返し、子供を型にはめ、みんな同じにすることを前提にして、我が国の学校教育は成り立っているのです。チャイムが鳴った着席というような最低限のことは仕方がないが、今の学校には不必要な指導が多すぎるという考えの方もいるかもしれません。ブラック校則の廃止などの取り組みを見ていれば、そういう声があることにも頷けます。
 しかし、必要な指導と不要な指導の線引きは容易でもなければ、明確でもありません。朝登校して教員とすれ違ったら「おはようございます」と挨拶をする、これは指導すべきでしょうか。指導するとして、教員が「おはよう」と言っているのに、挨拶しなかった子供に注意をすべきでしょうか。一度しっかりと教えて理解しているはずなのにしたくないというのであれば放置しておくべきなのでしょうか。教員にあいさつしないのもその子供の個性だとして。
 意見が分かれそうです。では、それぞれの意見の違いこそ個性の違いとして尊重し、重ねて指導すべきで注意もすべきと考える保護者の子供には指導をし、そうではない保護者の子供には指導も注意もしない、という対応が望ましいのでしょうか。そもそも、子どもの権利条約の趣旨をストレートに受け止め、子供に自己決定権があるという立場に立てば、子供一人一人が、「私にはそうした指導は不要ですから」と拒んだりすることを認めていくということにすべきなのでしょうか。
 さらに進めて考えれば、私は○○先生は尊敬できるので挨拶するが、▽▽先生は嫌いなので挨拶はしません、という考え方も個性として尊重すべきということになるのでしょうか。
 子供も、保護者も、教員でさえも、考え方や価値観は多様です。ですから、具体例を挙げて議論すれば、異なる見解が存在するはずです。一つ一つについて吟味する能力は私にはありません。ただ、学校という場について、T氏が書かれているように「周囲と違うのはすてきなこと」という側面だけで成り立っているわけではなく、個性を剪定し抑え付けることもあって成り立っているということだけは全ての人に理解してほしいと思います。
 

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