ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

似て非なるもの

2010-07-27 07:51:13 | Weblog
「それは自由研究」7月24日
 今秋の記者ノートは、「夏休みの宿題」というタイトルでした。遠藤記者は、夏休みの宿題について、『出さないでほしい。暑くて授業にならないから休みにしたのでしょう?なのになぜ』、と子供のころに思っていたことを打ち明け、一方で、毎年、生徒に社会科のリポートを課すある中学校教員の『資料の収集、読解からインタビューまで、自分でこなすよう仕向けるのだ。「物事を調べ、まとめ、表現する力を育成するのにピッタリ」』という言葉を紹介しています。
 よく分かります。でも、用語が食い違っているように思えます。記者が「宿題」と呼んでいるものは、一般的には「自由研究」と呼ばれているのではないでしょうか。細かいことに拘るようですが、「宿題」と「自由研究」は異なります。例えば、漢字の書き取りや計算問題は「宿題」ですが、スーパーに買い物に来る人の住まいとスーパーがチラシを配る地域は重なっているかという調査は「自由研究」です。『試験が苦手な子も、キラリと光る作品をものにする。「塾のように目先の利益を求めない。将来、教え子の役に立てばいい」』と教員が語っているのは、明らかに「自由研究」です。
 実は、多くの子供が嫌がっているように、良心的な教員も「宿題」や「自由研究」が嫌いなのです。それは、自信がないからです。ほとんどの教員は、大学の教職課程でも、教員になってからでも、「正しい宿題の出し方」とか「望ましい自由研究」というようなことを学んだことも、研究したことも、教わったこともないというのが現状だからです。ほとんどすべての学校で毎年行っている校内研究でも、「子供の意欲を高める宿題のあり方」とか「自ら考え、表現する力を伸ばす自由研究のあり方」といった研究テーマを掲げている例は見たことがありません。おそらく、本音を言うと、「宿題」と「自由研究」の違いがよく分からないという教員もいるはずです。
 以前、学力低下に関わって宿題を出さない教員が問題となったことがありました。その後、「宿題」に対してその教育的意義が再確認されるようになりましたが、「宿題」そのものについての研究は進んでいません。それでも、漢字ドリルや計算ドリルが市販され、「宿題」を出すことについては、あまり悩まない教員もいます。しかし、「自由研究」となると、教員自身が拒絶反応を示すケースが少なくありません。無理もありません。教員自身が、「研究」をしたことがないのですから、子供に「研究」を指導できないのです。
 誤解のないように言っておきますが、教員はよく勉強をします。しかし、「○○の指導法」といった書籍を読むのは「勉強」であって「研究」ではありません。そういう意味でも、教員の研修も大事ですが、研究も大事だと思います。少し話が逸れました。
 「研究」の命はオリジナリティです。少なくとも、子供の作品を見て教員が、「へぇ、そうなんだ」と驚くようなものでなくてはなりません。ですから、「徳川家康の一生」などというタイトルで、たくさんの参考書を写して整理したレポートは、自由研究ではありません。仮に、教員が驚いたとしても、それはその教員が歴史に疎いというだけのことです。逆に、お客さん一人一人に自分で聞き取りした結果分かった「○○スーパーのチラシは△△1丁目から6丁目に配られているが、実際の買い物客は、△1丁目よりも、□□4丁目の方が多い」というのは、十分に研究の名に値するのです。
 私は、教員時代に「自由研究の仕方」をテーマに講演会の講師を務めたことがあります。多くの保護者の方が子供を連れてきましたが、それは、保護者も子供も、「自由研究」について教員からきちんと指導されていなかったということの表れだと思います。
 遠藤記者は、『まじめにやっておけばよかった』と結んでいましたが、記者をそういう気持ちにさせた「ある中学校教員」の課す「自由研究」がどのようなものであったのか、知りたかったと思うのは私だけではないと思います。
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