ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

この批判は「牽強付会」

2018-05-04 07:44:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「必要の基準」4月21日
 論説委員野沢和弘氏が、『とび箱をとべない子どもたち』という表題でコラムを書かれていました。その中で野沢氏は、不登校やひきこもりの子どもを支援している人が『とび箱や逆上がりが嫌だったという子が多いんですよ』と言っているという話を紹介し、『苦手な子が「さらし者」にされたように感じるのもわかる。どうしてみんなが一斉に同じ能力を身につけなければならないのか』と述べていらっしゃいました。
 さらに、『中学を卒業して20年以上になるけど、これまでの人生でとび箱をとばなければならない場面は一度もなかった。逆上がりをする必要に迫られたこともなかった』という人の言葉を引用した上で、『均質な運動能力や規律の取れた集団行動は、軍隊には必要かもしれない。ベルトコンベヤーの前に並んで部品を組み立てる作業にも役立つだろう。しかし、忍耐を伴う集団主義や横並びの協調性を過度に求める時代ではない』と分析し、『日本の学校教育の中にはかたくなに変わらないものがある』という学校教育批判で結ばれています。
 よく分からない、と感じるのは私だけでしょうか。実は私も跳び箱と鉄棒は大の苦手です。正直に言えば、逆上がりはできませんし、跳び箱も跳べません。それでは体育の授業はどうしていたのか、と訊かれれば、示範なしでも指導はできるというしかありません。
 そんな私ですから、『かっこ悪い姿をみんなに見られるのがつらかった』という心情は分かりますし、そんな経験が不登校やひきこもりのスイッチを押してしまう可能性についても理解できます。しかし、そのことが「どうしてみんなが一斉に同じ能力を身につけなければならないのか」という問題提起につながるのか、疑問なのです。
 野沢氏は、「どうしてみんなが分数の足し算をできなければいけないのか」とはおっしゃらないと思います。同じように、「どうしてみんなが当用漢字を読めなければいけないのか」ともおっしゃらないでしょう。つまり問題なのは、みんなが一斉に~ではなく、対象となっている知識や技能なのです。
 では、平均的な人が20年間一度も使わなかった技能や知識は、学校教育には不要だという考え方は正しいのでしょうか。私も学校の授業で学んだけれども使ったことがない技能はたくさんあります。美術の時間に取り組まされたエッチングの技術、技術の時間に文鎮づくりで習った金属を削る技術、家庭科の授業で作成した刺繍の運針、音楽でやらされたシンバル等々。野沢氏の論法でいけば、多くの学習内容を精選することができそうです。ただ、多くの反論がありそうです。それぞれの分野の専門家の意見を聞いてみたいところです。
 そして最大の疑問は、逆上がりや呼び箱が、「均質な運動能力や規律の取れた集団行動」に資するという発想であり、「軍隊」や「ベルトコンベヤーの前に並んで部品を組み立てる作業」に役立つという考え方です。別の言い方をすれば、「忍耐を伴う集団主義や横並びの協調性」を強いるという見方です。何だか、軍国主義に回帰する教育の象徴であるといっているように思えます。
 私は、このブログで安倍首相とその取り巻きが主導する教育改革に、戦前賛美の臭いを感じ、反対を唱え続けてきました。そうした意味では、野沢氏と共通点があるはずだと思います。しかし、跳び箱や逆上がりを、戦前回帰批判に結びつけるのは強引すぎると考えます。私の感覚が狂っていて、リベラル的な立場の人の間では、跳び箱も逆上がりも学校教育の内容として好ましくないというのは常識なのでしょうか。体育の内容で言うならば、集団走や組み体操の方が「集団行動」的だと思うのですが、おかしいのでしょうか。是非、多くの人の意見を聞いてみたいものです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 政治家の親切 | トップ | 正しくはっきり »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事