ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

誤解を重ねる

2016-05-16 07:20:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誤解を重ねる」5月10日
 『「脱ゆとり」を宣言 次期指導要領「知識軽視」誤解解く』という見出しの記事が掲載されました。馳文科相が、『次期学習指導要領改定に向け、授業内容を減らしたかつての「ゆとり教育」には戻らないとする見解を公表した』ことについての記事です。記事によると、『「アクティブ・ラーニング」の全面的な導入を目指しているが、教育関係者の一部から「ゆとり教育の理念を復活させる」と誤解されていることを受けた対応』とのことです。
 馳氏は、『「ゆとり教育」か「詰め込み教育」かといった、二項対立的な議論には戻らない』『知識の量を削減せず、質の高い理解を図るための学習過程の質的改善を行う』などと語っていらっしゃいます。言葉の意味としては、全く正しいと思います。しかし、実際に、実現可能なイメージをもっていらっしゃるのか、疑問に感じます。
 メディアや国民の多くがどのように感じていたかはともかく、そもそも小学校の教育現場の人間にとって、「ゆとり教育」と「詰め込み教育」を二項対立的に捉える認識は存在しませんでした。「ゆとり教育」について様々な解釈のずれがあったことは事実ですが、「詰め込み教育」を是とする考え方はなかったのです。
 ここで「詰め込み教育」を定義しておきますが、「詰め込み教育」とは、知識の量の多少に関する概念ではありません。知識を獲得させる方法に関する概念です。ある知識を、子供にとっての必要感や、知識を得た後の活用経験等に配慮することなく、教員が一方的に注入する型の指導法を指す言葉です。当然、子供が意欲的に学ぶことは期待できませんし、活用する場面がないので定着したり理解が深まったりすることも期待できません。非常に効率の悪い指導法です。実際には「詰め込み教育」を専らにしている教員は少なくありませんでしたが、理念として「詰め込み教育」を指示する教員は極少数だったのです。
 一方、「ゆとり教育」は、必要と考えられる知識を、子供の興味関心を生かし、子供自らが試行錯誤を繰り返しながら獲得していくという概念で、試行錯誤を繰り返すために多くの学習時間=授業時間が必要となるので、授業時間にゆとりをもたせて学習指導計画を立てておくということから、「ゆとり教育」と呼ばれるようになったものです。実際の指導はとても難しく、教員の中には忌避感をもつ者もいましたが、理念としての「ゆとり教育」に反対する声はほとんどなかったのです。
 つまり、学校教育の在り方として、2つの「~教育」の間で問題になるのは、知識の量を削るか増やすかというようなことではなく、「ゆとり教育」の実施には授業力の高い教員が必要であるにもかかわらず、実際にはそこまでの授業力のない教員が多数存在するという現実なのです。
 馳氏は、学習過程の質的改善によって、脱ゆとり教育を実現する考えのようですが、アクティブラーニングを実現する学習過程の改善など、既に30年以上も前に終わっています。私自身、指導主事として、多くの資料を作り校内研修や研究員の指導を通して学校現場に広げてきました。もちろん、私の専売特許ではなく、指導主事に限らず、多くの実践家や学校の研究などでも取り上げられてきました。教員であるならば誰でも知っていることです。各校の校内研究で、「効率的な詰め込み教育の在り方」や「知識注入法の研究」などといった研究物が皆無であるのに対し、「自ら学び解決する子供を育てる学習過程の在り方」や「問題をつかみ、予想し、解決し、行動する子供を育てる主体的な学習過程」といった研究物は無数に存在することを。
 教育行政を司る馳氏に求めたいのは、学習心理学等の知見を基に既に確立している学習過程の改善を目指すのではなく、学習過程に沿って実際の授業展開することができる教員を育成するための具体的な施策を打ち出すことだと思います。
 最後に、上記の記述の中で、「小学校の教育現場の人間」と但し書きを付けたのは、中高では授業観が異なるためであり、馳氏がそうした違いを認識なさっていないのではないかという懸念の表れです。

 

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