「条文理解」3月15日
『「未熟」論文 見抜けず』という見出しの記事が掲載されました。STAP細胞作製にまつわる問題を取り上げた記事です。その中に次のような記述がありました。『会見で明らかになった小保方晴子・理研研究ユニットリーダーの調査に対する発言は、驚く内容だった。「(データの切り張りを)やってはいけないという認識がなかった。申し訳ありません」』というものです。
確かに信じられない発言です。科学研究とはほど遠い「ゆるい」研究しかしてこなかった私でさえ、データの切り張りはやってはいけないということぐらいは「知って」います。それなのに、とにわかには信じがたい思いを抱いたのは私だけではないと思います。
ところで、私はこの小保方氏の発言に、教員の体罰との共通性を感じました。それは、「知って」いることの意味ということです。小保方氏も、研究者としての倫理規定のようなものについては、読んだことがあり、そこで禁じられている行為についても、「知って」いたと思います。もし、研究者の倫理規定に関するペーパーテストのようなものがあれば、正解したはずです。しかし、具体的にどのような行為がアウトでどのような行為ならセーフなのかということについては理解できていなかったのだと思います。さらにいえば、アウトとかセーフかという以前に、倫理規定の趣旨や精神についての深い理解が不足していたのだと思うのです。
教員の体罰についても同じなのです。学校教育法第11条において、体罰が禁止されていることは、教員であれば99%以上の者は知っているはずです。教員採用試験の際に勉強したはずですし、新規採用教員研修でも、若手教員研修でも、指導を受けるからです。しかし、実際に体罰をしてしまった教員を「訊問」すると、「あの程度のことが体罰になるとは思っていなかった」という意味の発言をする者が多いのです。平手で尻を叩く、もみあげを引っ張る、「いたずらしたこの手が悪い」と言って手を叩く、おしゃべりした子供の口にガムテープを貼るなどの行為をした教員たちです。
そして、体罰についての研修会を行うと、教員の一番の関心事は、「どこまでなら体罰になりませんか」ということです。そこにあるのは、処分を受けないぎりぎりのところまでなら体罰は有効な指導手段という意識です。彼らは決して体罰禁止に込められた教育理念、人権尊重の精神などについて考えようとはしないのです。
もし、体罰禁止に込められた崇高な理念について理解していれば、「どこまで~」云々という質問は出ないはずです。私は体罰研修会の講師として、「子供が体罰を受けたと思い、訴えてくれば教委は体罰があったという疑いをもって調査に乗り出します」と答え、「そもそも有形力の行使によって子供を従わせようという発想そのものが教員失格」である旨を強調してきました。体罰をしたのでは、と疑われること自体恥ずべきことであるとも言ってきました。
小保方氏も、「あの程度のことが体罰になるなんて~」とつぶやく教員同様、規則や規程の条文としての禁止事項は理「知って」いても、その理念まで理解し、外部の人から見たら過剰と思われるほど自戒することが専門職のプライドであるということまで理解してはいなかったのだと思います。
「知って」いることと真に理解していることには大きな隔たりがあるのです。
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