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ヨハネ黙示録 第六章 七つの封印の解除―第一から第六 

2015-09-29 23:36:22 | 日記

(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
6・9~17 第五から第六の封印を解く
9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。
11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。
12 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、
13 天の星はいちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。
14 天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島はその場所から移されてしまった。
15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

(参考 増訂新版 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・9 第五第六の封印が解かれた時には、第一から第四までのように馬上の騎士が現われず、第五の封印解除の時には、天上における殉教者の姿が示される。彼らの《霊魂》は天上の《祭壇》の下にいたと言われている。これらの殉教者の霊魂は最後の正しい審判を待っているので、このことは人間の死と最後の審判との中間状態の存在を予想している。
・10 《主よ。いつまであなたは……》と言って、神の手による報復をうながしているが、このへんはユダヤ教的な考え方が表面にあらわれている。
・11 彼らは勝利者としての《白い衣》(復活後のからだ)を着せられ、また《数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように》と言い渡されたのであった。
・12 第六の封印が解かれると、終末における天変地異がおこるのであるが、第一に大地震が起こる。それは「万国民を襲う」世界的な地震であって、次に《太陽は……黒くなり、月は……血のようになる》のである。《毛織の荒布》黒い小羊の毛で造った荒布である。黒い太陽、赤い月は日蝕、月食のことであろう。
・14 《巻物が巻かれるように消えていき》巻物は巻かれても消えることはないが、パピルスの巻物が二つに裂かれるとその2片ともに自ら巻き込んで二つの小さい巻物に分かれてゆくように、天も裂かれて寸断されることを述べたものである。
・15 神の刑罰を受けるべき七つの階級の人々のことを述べている。彼らは《ほら穴や山の岩かげに、身をかくし》16 山と岩とに向かって保護を切望している。
・17 《御怒り》の原意は「彼らの怒り」であって、前節の「御座にいますかたと小羊との怒り」である。それは「神の正しいさばきの現れる怒りの日」である。

私を守護した精神世界

2015-09-29 21:30:59 | 日記
私は教師になり立ての頃、
地方に下宿して一人暮らしをしていたが、
教師仲間の一人から
モラロジ―(道徳科学)という団体があることを教えられ、
夏休みに
教育者研究会というものに
始めて参加した。
この団体は
最高道徳という
普通道徳を一歩進め、
品性を高めることを目的とした道徳の
実践と普及の団体であり、
品性の高い教師を育てることを重視していた。
そして教育こそが
明るい未来の日本を育てるものと考え、
教育の分野にかなりの力を
入れていたのであった。
私はこの団体に入った時から、
目にみえぬ力が、
私をバックアップしてくれるのを感じた。
私の「人生の船」は
ここから明るい方向に向かい始めた。
私はその後4年ほどして、
これもひょんなところから
人類光明化運動に触れ、
そちらの方面からも
強力な神の支援が加わったが
この二つの団体に所属していたから、
守護の力が働いて、
教師をしている間中
不思議な力の支えが
あったのである。
だがもう一つ大事な大事な守護があったのを
忘れていた。
それは仏教の世界からの守りである。
私は教師になって数年後坐禅を始め、
数年後真言宗で
結縁潅頂をいうのを受け、
在家出家したのであるのだが、
これも私を大きく守護しているに
ちがいないのである。


ベテスダの池の奇跡とそれに続く論争―イエスは命の君

2015-09-29 21:24:39 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第5章(5・1―47)ベテスダの池の奇跡とそれに続く論争―イエスは命の君
5・1~9a 38年間もわずらっていた中風病者をいやす
1 こののち、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。[彼らは水の動くのを待っていたのである。
4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5 さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
9a すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
1 《ユダヤ人の祭》は、過越の祭。イエスの第二回目の上京である。
2 《ベテスダ》は「恵の家」の意。城内の東北部、今日ではステパノ門に近い、聖アンヌ教会の下に位する。
3 気の毒な人々の群れ。いやされたいとの強い一念から、他人をおしのけて、まっ先を争う生存競争である。
6 この病人は、イエスの《なおりたいのか》という言葉により、全注意をイエスに向け、そして自分の痛ましい状態を知らせる。彼はまったくひとりであった。