力んで実相を念じることはない 2015-09-04 23:44:56 | 日記 神想観中は 「南無実相円満完全大調和」と念じることを 私はやっていますが、 ここが神の国と思えれば思えるほど 実相があらわれることになるのですが、 思うも思わないもない、 事実神の国なんだから、 力んでやる必要もないわけです。
キリスト教の精神的下地は幼少から 2015-09-04 18:19:50 | 日記 私の母親は 私が高一の時に 43歳で 心臓病で他界したが 学生時代にミッションスクールで育ったために キリスト教の信仰をもっていた。 私は幼少の頃 母と讃美歌を歌ったこともあり、 子供の頃 日曜日には 教会の日曜学校に 行ったりしていた。 母の知人には 教会での友人が何人かいた。 つまりそういう文化状況にいたにはいたが、 神様を信じていたわけではなかった。 私が仏教に触れたのは 私が教師になってからで、 35歳過ぎてからのことであるが、 これは他私自身の体験で 自分が原因で仏教の道に入ったのだ。 でも幼少からの下地として キリスト教の雰囲気だけは知っていたから、 今回聖書を学ぶといっても 全然はじめてというわけではない。
万物はこれ神の言(コトバ) 2015-09-04 17:05:55 | 日記 私は「生命の実相」を聖書から学ぶために、 まず翻訳文をブログ上に 書き写すことにした。 フランス語の聖書を読んだ部分についての日本語翻訳を ブログに書くのである。 これに私自身の意見も 添えたいと思う。 私の理解は 生命の実相哲学を使った 独自の理解であることは いうまでもない。 聖書の今日引用した部分は 聖経「甘露の法雨・神」の部分から 十分に理解可能だ。 (参考 新約聖書) <ヨハネによる福音書第一章1~5> 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であっら。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 私はこれの続きを つまり聖書からの学びを このブログ上でやるか、 それとも別にブログを作ってそこでやるかは、 まだ決めていない。 他でやる時はURLを書きます。