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ヨハネ黙示録 第六章 七つの封印の解除―第一から第六 

2015-09-28 15:31:51 | 日記
ヨハネ黙示録 第六章 七つの封印の解除―第一から第六 
2015/9/28
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
6・1~8 第一から第四まで
(1)小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
(2)そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
(3)小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。
(4)すると今度は赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。
(5)また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
(6)すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは、一デナリ、大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。
(7)小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」という声を、わたしは聞いた。
(8)そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉(よみ)が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣(けもの)らとによって人を殺す権威とが、与えられた。

(参考 増訂新版 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
(1)《小羊》だけが封印を解くことができる者であった。《きたれ》の呼び声によって、種々の色の馬が現われてくるのである。ゼカ6章においては、これらの馬は四つの戦車を引く馬で、四方の国々に神の審判をもたらすものであった。
《白い馬》の白色は《勝利》の色である。《冠》も勝利の冠である。
(4)《赤い馬》の赤色は流血の色であり、これは紛争をさし、《人々が互に殺し合うようになるため》とあるから、ローマ国内の内乱をさすとみられよう。《大きなつるぎ》この内乱は大規模のものであった。
(5)《黒い馬》の黒色は穀物の不作を意味し、《はかり》は食料不足のために行われた限定供給のはかりにことである。
(6)《小麦一ますは一デナリ》小麦一ますは一日の主食の量であってききんのためにその値段は一デナリにもなったというのである。一デナリは労働者が受ける日給の額であって、小麦一ますの値段は通常、一デナリの八分の一から十二分の一までであったと言われている。《オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな》オリブ油やぶどう酒は小麦や大麦に対して更に高価な食品であるが、これも生産を減らすなという神の慈悲による命令と解されている。八節には地の四分の一とあって、全地の四分の三は災厄を免れるようにされた。同じような神の意志のあらわれと解すことができよう。
(8)《青白い馬》これは灰色のうまの意で、これは《死》すなわち疫病を象徴している。終末の時に神が四つの災厄を地上に送ることについては旧約の預言者がすでに述べている。

谷口生超先生のキリスト研究の理由

2015-09-28 14:36:31 | 日記
谷口清超先生は
イエス・キリストの研究をし、
少しずつ「精神科学」という神誌に投稿を続け、
それが本になったのが、
以下のタイトルの本である。
では生超先生は
どのような意図をもって
キリストの研究をしたのであろうか。
それは以下の文章で読み取れる。

(参考 キリスト~イエスの神秘的生涯とその解説 谷口清超著 日本教文社)
<はしがき>
 即ちキリストの生き給うた如く生きるならば、吾々の時代にもキリストの奇跡を実現する事が出来るのであり、又その事実もある。それならば、どのようにキリストは生活し信じ行じ給うたのだろうか。そのようなキリストの生涯を、四福音書を基にしてその生涯に起った事件を順序だてて、立体的に浮び上らせると共に、解釈に困難な奇蹟のような部分には新しい解説を与えて何人にもわかるように最も平明に叙述しようと試みたのが本書である。そしてその叙述の根拠となる聖書の章句が一々示してあるから、聖書研究者にとっては好参考書ともなり、新しい研究者にとっては、キリストの劇的生涯がどのようにして進行し完結したかが、きわめて興味深く容易に知ることが出来、キリストの教えの真の意味が那辺にあるかを知るための便宜を供し得ると思う。キリストはキリスト教徒だけのキリストではない。「我は道なり真理なり」と云っておられるとおり、人類の生活規範としての「道」であるのがキリストであるから、キリストの生涯の研究は人類すべてによって如何に生きるかの「道」の研究となるのである。その意味に於て、イエスが如何に生き、何を教え給うかを理解する指針となれば幸いである。