gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自分は「神の言」ロゴスとしての神の子なり

2015-09-21 21:28:32 | 日記
新約聖書のヨハネ伝のブログを始めてから
神想観のやり方に
またヒントを得ました。
ヨハネ伝には
神の子イエス・キリストが「神の言」(ロゴス)であるということを
受け入れた者は
神の国に入る、
と書かれています。
だとしたら
私は「神想観」をしている時に、
自分が「神の言」ロゴスとしての神の子であることを受け入れようと
思いました。
自分が「神の子である」と念ずるより、
念じるやりかたが
さらに明確で確実であると
感じています。

第三章 サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ教会への手紙

2015-09-21 18:55:02 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
3・14~22 ラデオキア教会への手紙
14.ラデオキアにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
15.わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16.このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
17.あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気づいていない。
18.そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
19.すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
20.見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食をともにし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
21.勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
22.耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

(参考 増訂新版 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・《神に造られたものの根源であるかた》キリストにより万物が造られたことをさす。
・《冷たくもなく、熱くもない》ラデオキア教会は微温的状態、無関心の態度が表面に見られた。世俗化した信仰、混合宗教である。
・17.彼らは満腹した王のような態度をとっていた。
・18.《買いなさい》金と衣と目薬の三つを買うようにと、一種の皮肉まじりの勧告がなされている。《富む者》神に対して富む者。
・《裸の恥をさらさないため》不信者の魂は、裸のままで暴露されている。
・20.《わたしは戸の外に立って、たたいている》「さばき主が、すでに戸口に立っておられる」とある。
《食を共にする》天国における食事のこと。

サマリヤにおけるイエス

2015-09-21 16:54:38 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第三章(4・1―42 イエスとサマリヤの女)
4・1―6 サマリヤにおけるイエス
1.イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり.またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、
2.(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
3.ユダヤを去って、またガリラヤに行かれた。
4.しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
5.そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
6.そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の12時ころであった。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・サマリヤ人は半異教的民族である。イエスはサマリアに行き、その婦人に道を説かれた。
・イエスは自分の身辺が危ないと気づかれた。
・ユダヤからガリラヤへ行くのには、サマリヤを通過する必要はなかったが、神の意志に基づいた神的必然によって、サマリヤを通った。
・水の少ないユダヤでは、井戸は生活と切り離し得ない。婦人たちは水がめを頭にのせて、夕方水くみに出かけるのが常である。

聖書の素晴らしさ

2015-09-21 09:22:28 | 日記
私は
新約聖書の「ヨハネ伝」のブログと
「ヨハネの黙示録」のブログの
二つのブログを出し始めたばかりであるが、
解釈本を片手に聖書を読んでみると、
聖書の内容の素晴らしさに
心を打たれている毎日である。
そこで、
これらのブログの投稿は
毎日やっていかなければならないと、
強く心に思う次第である。
やってみて、
キリスト教が西洋の世界に
広まった理由は
聖書の霊的素晴らしさにあったのだと
改めて認識を深めた。
ただその時代における時代的な挟雑物があるので、
それらをうまく処理して
エキスのみを取り出して学ぶ力量が必要で、
そういうことがあるにはあるが、
そのことを考慮に入れさえすれば、
聖書の素晴らしさは
世界に冠たるものであることは
間違いはない。