創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会・公明をブッた斬る-24

2019-04-21 10:13:57 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉¥1,000
    ------(P113)---(以下、本文)-------

宗教法人をかたる営利集団
 同じように、カネ、カネ……というにしても、初代・牧口がいった時は、まだしても救いがあった。「四六版(単行本出版)は儲かるよ」と、牧口常三郎は戸田に教える。創価教育学会を維持していくためにはカネが必要だ、四六版で稼げ、というわけだ。そういって教えた牧口を、後に戸田は、「牧口先生はカネ儲けはゼロだ。おれがやらなきゃ、どうにもならなかった」といっている。
 カネ儲けは、創価教育学会のため、手段であった。また、カネ儲けのスケールにしても、牧口の教えたところのものは、なんともまあ、素朴なもの。創価教育学会の“牧歌”的時代だ。

 牧口にカネ儲けを教えられた戸田城聖が戦後になって口にしたことは、「宗教は儲かるぞ、税金がかからん」というのである。もっとも、その前に、戸田は東京建設信用組合事件でコケている。「東京建設信用組合」は、創価学会員対象に預金を勧誘していた。戸田が事件にひっかかったのは、信用組合の不正融資、背任の疑いである。この事件で、戸田は学会の理事長を退いた。戸田以外の理事も辞職し、矢島周平が戸田に代わった。他に、小泉隆、柏原ヤス、原島茂らが理事として登場する。無キズの人間で学会の組織を守らなければならなかった。一説には、矢島周平は理事長の椅子をカネで買ったことになっている。矢島は、後に理事からも追われ、僧侶になったが、晩年、失意のうちに世を去った。

 戸田は学会理事長を辞任すると、一時、戸田城聖から戸田城正と改めたが、二十六年五月、学会に復帰した。「戸田先生は法難にあわれた。戸田先生をつまずかせた罪は、他の旧理事にある」と、戸田復帰運動が起こり、その波に乗ったのである。戸田の復帰反対派もあり、大石寺法主に手を回したものもあったが、結局、復帰運動は実を結んだ。
 戸田は、理事長ではなく会長として返り咲く。当時、創価学会に会長職はなかった。理事長でなく会長に就任した戸田は、「会長に就任しないでやってきたから、バチが当たった」といってのけ、今度は折伏大行進を号令した。信用組合事件を“法難”と称したが、今度は「バチが当たった」という。こうした詭弁は、一種の変節というより、でまかせの強弁の類いで、その点、戸田は徹底していた。

 法華経の教えにもとる生き方をすると、てきめんに罰が当たるという。しかし戸田は、会長を空席にしていたからバチが当たったと、こうである。同じパチが当たるにしても、弟子どもやヒラの会員とは意味が違うのだ。
 戸田は、牧口会長にカネ儲けを教えられたが、牧口のことを「カネ儲けは全くダメだった」と評する。その戸田を、三代目会長になった池田は、「失敗の多かった戸田をカバーしたのは自分だ」といっている(内部的会合の席で)。なにやら、面白い図式ができそうだ。牧口初代がドン・キホーテなら、戸田がサンチヨ・パンサ。二代目戸田は、池田からすればドン・キホーテで、サンチヨ・パンサは池田の役だ。三代目池田には、ドン・キホーテという自覚はない。もはや、サンチヨ・パンサを必要としない全能者、絶対者のつもりなのだ。戸田は小さな儲けを大事にした男で、池田は、戸田先生だったら、いいところ、会館の十軒ぐらい、それも木造平屋の一千万くらいのものだろう」と、軽く片づける。戸田ドン・キホーテの下で育った池田は、牧口初代の理想主義、戸田二代の空想主義を即物主義の野望にふくれあがらせた。
 広宣疣布のためなら木っ端を札束にしてみせるという戸田流が、空想ではなく、今の創価学会ではありのままの姿勢ということになる。
 
 私は宗教家ではないし、専門の宗教研究者でもない。しかし、「宗教とは何か」という点については絶えず考えており、宗教と社会の関係、宗教が及ぼす政治的、社会的影響、その功罪については、一個の人間として勉強もし、考えてもいる一人である。
 日蓮正宗信徒団体として、創価学会がたとえ八百万世帯、一千万世帯にふくれあがろうと、信教の自由の下では、目の力タキとすべきものじやない。批判は大いに行なわれるべきだが、とかくの権力による干渉や政治圧力が加えられてはなるまい。しかし、今や創価学会は肥大化した組織をもて余し、本来の宗教活動から全く逸脱している。南無妙法蓮華経を「幸福製造機」として売りつける無限連鎖商法の破綻を免れるためには、宗教活動では間に合わない。まさに、量から質への転換が起こっているのだ。

 宗教法人の名を藉り、カネの力を過信し、組織の大衆動員力を背景に無軌道なままに突進している。その危険なファッショ的体質はいよいよ露骨であり、既にみてきた創価学会の“犯罪行為”も、その顕証に他ならない。大石寺との争い、宗門内での争いなど、いってみればコップの中の嵐なのだが、これに公明党が一種の〝僧兵〟として動く政治的波動は、もはや看過すベからざる段階にきた。権力による強者の外的誇示のためには、今や宗教者本来の謙虚さなど、ミジンもなくなっている。これを宗教として聖域視する必要があるのか。織田信長なら、こういう胸クソの悪い連中をどう処理したろう……そんな連想すら頭をよぎる。
      ----------(次回に、つづく)---------120

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