創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-26

2017-10-03 07:33:45 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P166)---(以下、本文)-------

六割学会員の駅弁教授陣
 しかし、問題は教授スタッフである。たしかに量的にいえば経済学部教授一七名、助教授、講師一四名、法学部教授一六名、助教授、講師一五名、文学部英文学科教授一五名、助教授、講師八名、同社会学科教授一五名、助教授、講師七名、この一〇七名がすべて専任教員であり、このほか非常勤講師が約三〇名に及ぶというデラックス版である。
 これらの教授のことごとくが創価学会会員ではないが「学長の高松教授をはじめ、関順也経済学部長、岩井津一法学部教授、斉藤節教授、川崎寅雄文学部教授、根本誠文学部長、中野三郎教授などが創価学会の会員で、教授の六割が学会員だという」(『週刊読売』四六・一・ニー号)ことである。
 さらに独文学の芳賀檀教授になると創価大学、創価学会へのほれ込みようは大変なもので、「日本のなかに、まだ、これだけ純粋な“民族”がいたのかと驚きました。創価学会の人たちは、とにかくよく勉強はする。責任感は強い、権謀術数などを使って人を裏切らない。やはり、創価学会は、仏教、すなわち日本の精神、民族の精神の凝集体のような気がしました。やたら末香臭くない生きた宗教です。“愛と知と行”とを一致させた世界的な宗教です。それに比べたら、キリスト教は偏狭な宗教ですからね。宗教関係の大学は、学問に干渉することがよくあります。私もキリスト教関係の大学にいたことがありますが、学問の自由なんていうのはどうもいいかげんですね。そのことを創価大学の場合も確かめてから学間の自由を絶対に認めるというんで承諾したわけです。
 いまの日本の大学は学校であって大学じやないです。真理をきわめ、人間をつくるという目的が二つともダメになっていますからね。その意味では創価大学の建学の理念は、人間革命の哲学が土台にありますから、日本で初めての大学らしい大学になる期待がもてるわけです」

 とにかく、芳賀教授にとってはいいことづくめの創価大学である。彼は創価学会の会員にもなり、日蓮正宗、創価学会の本山、富士の大石寺にも参拝してきたという熱心さである(同上)。
 なかにはこんな教授もいるのかというひとつの見本でもあろう。
 それ以外の教授、つまり学会員でない教授は創価大学の建学精神に共鳴して相集い、その理想を実現するために特進しているという。建て前はなるほどそうかもしれないが、それらの教授は学会によるトレー二ングの洗礼を受けているわけではない。そこで学生に対する良き人間教師になるために、教授自身が人間教育をされなければならないとされている。 教師は学生に先立って洗脳されなければならないということだ。つまり、たとえ学会員でなくとも日蓮正宗の信者、ないしは創価教育学体系及び池田会長によって示された教育論の信者にならなくてはつとまらない組織になっているようだ。たしかに創価大学は外見的には一応宗教色ゼロということになっている。しかし、池田が創立者であり、その理念にしたがって教育をすることになり、その理念をまず教師にたたきこむというのであれぱ、少なくとも創価学会人間でなければ教師はつとまらない筈である。池田大作は一方で青年をおだて、他方で教授陣にはかなり厳しい言葉をつかっている。まず青年に関しては、池田大作は次のように言っている。

「育年は純粋である。曇りりのないレンズのように、はっきりと被写体の実相を受けとめるものだ。ゆがみはゆがみとして正直に映し出して容赦しない。潔癖で清らかな青年の心情は、腐爛した偽りの繁栄の中に、“昭和元禄”だの“豊かな社会”だのと、うそぶく大人の図々しさに我慢がならないのであろう。
 現代文明の危機というものも、冷静な英知の眼からみれば、皮肉な戯画の題材になりかねない。頭上に吊り下がっている核兵器のダモクレスの剣や、足もとに押し寄せる戦争の危機、そして、うわべの豊かさに反して、心の中にぽっかりあいた空桐等々…。
 もとより、現代の大人達にも、これらが見えていないわけではない。見えてはいるが、凝視することを忘れているのではないか。
 少なくとも、この社会の矛盾をできるかぎり解決し、正常なものにして、次代に譲るような努力をすることが、大人の義務ではあるまいか。しかるに、そうした青年年たちの不満や憤りを権力で抑圧するなどとは、卑劣とも、愚かともいいようがない。
 私自身、社会の矛盾と不満に対しては、不断の戦いをつづけてきたし、権力の横暴にも真っ向から挑戦してきた一人である。青年たちの憤りと決意が、痛いほど私の生命に共鳴するがゆえに、私は心から同情せずにはいられないのである」(池田論、既掲書一四九~一五〇ぺージによる)

 青年は純粋である。社会の矛盾を、曇りのないレンズのように見つめ、そのゆがみを容赦しない。青年は潔癖である。腐敗した社会に対し、あるいは政治権力の横暴に対し、立ち向かうのは当然である…。と言った調子で青年をおだてあげているが、これもまた戦前の右翼のリーダーが、青年達を煽動した言葉とどこか共通性があるとはいえないだろうか。
 全共闘系の極左の過激な学生と、右翼のラジカルな青年達とは、ある種の体質的な同質性をもっている。池田にもそうした面があり、現代社会や大学を告発する学生に共感を示している。
「お前らの気持はわかる、決して悪いようにはせん」と青年将校にいった戦前の将官たちのように、池田は一見したところ、極左的な運動を支援するかのようである。しかし、それは同時に場合によっては一八〇度の転換をして、学生をファシズム運動へとかりたてることにもつながりはしないか。彼は告発する学生達を抑圧する国家権力、それに同調する多数の大学教授を烈しく批判し、学生と同じ口調で大学革命、学問革命を主張する。そしてその「革命」を実現するために、まず大学のスタッフの人間革命をし、そして創価学会をになうエリートたちをここで養成しょうとするワケである。

 それではこの大学にどのようなスタッフが集まったか。その一覧表は前頁(省略)にかかげてある通りであるが、学長高松和男は前東北大学教授であり、公明党の福祉経済改策はほとんど彼の手によってまとめられたといわれる。そのほか有名無名の学者連中で構成されているが、後世の学問に貢献するような業績をあげているものはまず皆無に近い。
 ところで池田会長の謳う大学の建学精神は三つのモットーからなっており、それは--
 ①人間教育の最高学府たれ
 ②新しき大文化建設の揺籃たれ
 ③人類の平和を守るフォートレスたれ、というものである。
 人間教育の最高学府たれということは、日蓮正宗や牧ロ常三郎の創価教育学体系のいう全体的人間、創造的人間の育成を目指した教育をなすところたれということで、つまり創価学会的人間をつくりだす本山たれということである。
 大文化建設の揺籃たれとは、はからずもこの新しき大文化なるものが、つまり日蓮正宗の教義、創価学会の池田大作のいう文化であって、しかもそれを建設するということであり、思想的にこの日本を、学会イズムによっておおうという野望をいいあらわしたものといえよう。

 人類の平和を守るフォートレスたれ、つまり平和を守る砦たれということは、言葉だけなら何ら問題はないかもしれないが、しかし、すべての人が日蓮正宗の信者、創価学会の会員とならないかぎり平和を守れないという理念に裏打ちされている以上、大きな問題が伏在しているといわなければならない。
 池田会長は、この創価学園、ことに創価大学に大きな期待をよせており、宗教団体である創価学会を中心に、右は改治的には公明党、左は思想的には創価大学と、この創価学会なる政治的宗教団体を中心に、左右に政治と教育をたずさえて、そしてこの両面から創価学会の進展をはかろうとしているわけである。
 だが、言論出版抑圧問題で公明党が傷ついたいま、彼に残された大きな望みは、まさに創価大学にあるといえるかもしれない。世俗的に功成り名を遂げたくだらない政治家や財界人が、一定のポストを得たり金をためたあと手を出す事業はしばしば事業としての教育である。そして教育に投資することで、一方で何らかの罪ほろぼしをしたような気になり、他面において、次代の青年を育てるということで自己満足しているが、池田もどうやらその心境になってきたようにも思われる。創価大学によっていかなる人物ができあがってゆくか、まだ発足間もないこととて、必ずしも明確な予測はできないが、ともあれ学会の文化祭で示されたような思想的柔軟性を欠く馬車馬のような人間ができるであろうことだけは確かなようである。
       ---------(172P)-------つづく--
  

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