創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-38

2018-09-17 06:37:29 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.239)---(以下、本文)-------

佐藤 潤一、玄二、森田 修平、石川 信子
       いつもハラハラドキドキ、池田主治医の四人組
 学会員の医者で組織されるグループにドク夕ー部というのがある。その中でも特に有名な四人について取りあげる。
 佐藤潤一は、最近、副会長になった、ドク夕ー部長。妻の嘉代は、第一庶務出身で、池田とのスキャンダルがウワサされた人。佐藤の父は、東京・柳橋で開業医を経営。親子ともに耳鼻咽喉科。
 佐藤玄二は潤一の弟。元学会ドク夕ー部長。やはり耳鼻咽喉科。
 森田修平。副会長、前ドクター部長。元学術部長。横浜日赤病院の外科部長であり、池田の主治医でもある。
 石川信子。学会副ドク夕ー部長。東京・大塚に新生クリニック(通称・石川病院)を経営。
 産婦人科医。池田の下半身スキャンダル隠蔽に大きく貢献。石川の名前が有名になったのは、池田の次男・城久が胃穿孔で石川病院に入院、手遅れで、死に至らしめたことから。石川は、産婦人科医であるにもかかわらず、城久をはじめ、かっては原島宏治といった学会に深く関わる人たちの最期を看取っている。
 ドクター部の代表四人で分かるように、池田の主治医には耳鼻咽喉科だの産婦人科だのといった、本来、主治医にふさわしくない医者が多い。
 昭和天皇亡き後、今日本で一番数多くの医者を侍らせることができるのは池田である。ただ、このメンバーではなんとも情けない。頼
りない。なぜ、池田のような権力者にしてこのザマなのか?
 まず、池田が周りに医者を侍らせる際に重視することは、自らの秘密の保持に大きなウェイトを置くという点だ。学会員に優秀な内科医、外科医がいないわけではない。ただ池田は、秘密を守れる医者、安心できる医者を選び、自分のそばに置く。産婦人科の石川信子は、池田の数多くの下身スキャンダルを常に隠し続けてきた。渡部通子も、よく石川の病院に通ったものである。このように池田のみっともない秘密を隠し続けられる神経をもった医者は、そうざらにいるわけではない。世間に知られては困るトラブルの処理に、石川をはじめとする口の堅い医者を当ててきたわけだ。森田修平もそういった意味での貢献度は高い。第一庶務室長でありながら部下の女子職員と不倫を起こした持永利之と古川敬子が中絶のため出向いたのも、森田のところだった。
                      ☆
 下ネ夕の他にも、池田が人目を忍んで医者を侍らせる理由がある。「病気になるのは信心がないから」と池田がおかしな指導をし続け、「病いは信心不足から」と自分がいっている以上、まさかその本人が病気がちで薬漬けだと世間に知られては、恥をかく。池田は体の強い方ではない。しょっちゅう、学会本部四階の池田専用室に医者を呼んで注射をさせる。池田は注射が大好きである。ただ、池田の血管は大変細く、また贅肉が部厚いため、なかなか針が血管に入らない。医者が汗だくになった池田の腕に針を剌そうとする。池田はいい気なもので「早くしろ、早く!」と急き立てる。また、池田はしょっちゅう目の痛みを訴える。耳鼻咽喉科の佐藤を呼びつけるのだが、目の痛みに耳鼻科の医者とは、はてさて? 明らかに、病気を世間に知られたくないためといわざるをえない。
 信仰をもっていようといまいと、人間、病気にはかかるもの。信仰心があれば病気にならないのなら、とっくの昔に世界中の人々が学会員になっているはず。池田を崇拝する学会中枢幹部にも現在病気中、あるいは病気で死んだ人が多い。
 平塚一雄(元大田区長、植物人間になり死去)、田中正一(元曰本図書輸送社長、失明中)、八矢英世(創造社社長、糖尿病が悪化)、八矢洋一(脳梗塞)、野崎勲(胃癌)、山川義一(肝不全で死去)、秋山富哉(肝臓癌で死去)、北条浩(心筋梗塞で死去)などと挙げたらきりがない。池田は、こういった人たちが病気にかはかっていることをひた隠しに隠したがる。
                      ☆
 ところで、池田の今の健康状態は、一体、どうなっているのか。池田は、決して頑健なタイプではない。そして、ブクブク太ったあの体。健康に対する自己管理はおろか、自分の欲望に対するコント口ールもできないことを、池田の体躯そのものが物語っている。脂ぎった食事を好むせいで、身体までがジトジ卜と汗ばみ、脂ぎる。池田が机などに手を触れると、ジットリと脂べッタリの手の跡がつく。六十歳を過ぎても、枯れた感じは少しもない。
 池田は、温度差に弱い。とりわけ厳冬期には、池田が出かける先の部屋という部屋は、普通の人なら耐えられないほどの暑さに保たれる。また、地方の会館に出かけると、「温度係」が部屋の温度を池田の好みに保つべく、それだけに専従してピリピリと神経を使う。
 去年の大橋代議士決起以来、池田自身参っていることは間違いない。体調が良くないことも確かだろう。
 池田は、会合などでもよく水を飲む。言葉がとぎれとぎれになる。ハーハーいいながら喋る。
 池田には、名医と呼ばれる医者が一人もついていない。二年前、岡山で池田が狭心症の軽い発作で倒れた時も、ドクター部では処置し切れず、東京女子医大に入院した。糖尿病が進み、目や心臓に余病の併発症状が見られる。狭心症の発作にいつ襲われても不思議ではない。 お付きの幹部が先導する際などに「ここから階段になります」と声をかけることからみても、目の悪化は相当に進んでいるようだ。
 本来は引退して、健康回復に努めればよさそうなものだが、権力欲や猜疑心が旺盛で、自らの生命を縮めてもポストにしがみつく。
 普通、宗教団体はある程度の規模に達すると、病院を開設し、一般社会との接点をもつように心掛ける。キリスト教系の病院・産院は世界各地にあるし、新興宗教の大手、立正佼成会やPL教団、霊友会などは、いずれも一般市民にも開放された病院を開設済みである。
 大手の教団では、学会だけが独自の病院をもたない。病気そのものを信心不足と罪悪視したり、儲け仕事にばかり熱心で、赤字経営になる公算が大きい病院開設は検討さえされなかった。
 今にして悔やまれるところだろうが、時すでに遅し。全国に百を越す豪華そのものの池田専用施設をもって無駄に遊ばせておきながら、病院内に特別室をもちたいと願っても、もはや叶わぬ夢である。

池田 城久
    可哀相に、親父に翻弄された短い一生
 昭和五十九年十月三日、東京豊島区にある癌研付属病院で、“石川信一”を名乗る二十九歳の青年が、親にも看取られずに死亡した。石川信一は仮名で本名は池田城久、つまり、大作の次男であった。
 城久の入院、そして死去はミステリーに満ちていた。彼の死を報じる『聖教新聞』の記事には「九月中旬に胃痛を訴え検査したところ胃かいようとの診断で、九月二十五日から治療していたが、十月三日午後容体が急変して癌研付属病院に緊急入院し手術したが、北血のため逝去した、とある。
 しかし、城久が九月中旬に最初に運び込まれたのは創価大学。その後、自宅から遠く離れた豊島区の新生クリニック(前述の石川病院)にこっそりと転送された。城久は産婦人科医の石川信子(内科も併設)の診断を受けた後、処置遅れのまま、癌研病院にかつぎこまれ、死去した。死因は胃穿孔。今日の医学で胃穿孔で死ぬのは、手遅れの場合に限られる。
 また、胃穿孔そのものは、極度の恐怖、ストレス、ノイローゼによって起こるとされる。
                      ☆
 偽名での入院。産婦人科医の診察。胃穿孔の病状。それを隠す『聖教新聞』の記事。これらの異常な事実をどう解釈したらいいか。原島嵩の父・原島宏治も、その最期は石川病院だった。
 しかし、原島嵩が回想するように「私の父は心筋梗塞で死んだ。石川病院ではとうとう、最後まで一回も心電図を取らなかった」のである。池田も常々、石川をヤブ医者と罵り、軽視した。
 その一方で、池田は、城久のことを「大鵬」と誇らしげに語っていた。城久こそ、池田の最も自慢する子供。また、学会の後継者の最有カ者であった。そんな可愛い息子を池田はなぜ、ヤブ医者である石川のところに入院させたのか。そこに池田の秘密主義がある。池田は、自分の家の不幸を秘密にしなければならなかったのだ。
 「病気をする人は信心がない」と会員を指導していたのは、当の池田だったから。その当人の子供が二十九歳の若さで病いに倒れるのはおかしいじやないか、そういう非難を池田は恐れた。
                      ☆
 それにもう一つ、城久とその妻であるみさ子(旧姓・熊沢)との結婚ミステリーがある。一部週刊誌などには、城久がみさ子にぞっこんで卒業後すぐ結婚などと流された。実は、城久本人とみさ子は婚前に殆ど接点がなく、むしろ接点があったのは親の大作とだった。創価大学の八階にある池田の専用施設には学生、職員、教員の誰もが入室を許されないが、みさ子はこの部屋にフリーパスで入れる唯一の学生だった。池田はみさ子を「熊公、熊公」と呼び、可愛がった。大学卒業後はすぐに自分の世話係として、第一庶務に配属させた。はたして、池田は可愛い我が子にまで「御下げ渡し」の娘を結婚相手として選んだのだろうか。城久の死因である胃穿孔という病状の根拠がそこにある。少なくとも、そう思われて仕方ない。“親子どんぶり”以上に汚れた、普通ではありえない、戦慄すべきことである。
 そして、この城久の死が、“大作御本仏”神話の崩壊の端緒となった。池田は自ら墓穴を掘ったわけだ。深くて、自らはとても這いあがれない大きな墓穴を--。
  -----(245P)----つづく--
                  --目次一覧は、本項第2回<H30・8・12>に登載--

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