◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
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●作られた偽りの筋書き
『破滅』は、内部告発者.島原高(原島嵩)について、次のような筋書きを作り上げました。
島原は、池島(池田)会長の後継者という夢を抱き、聖道学会(創価学会)に尽くしてきたが、池島にうとんじられ、池島が会長を辞任して名誉会長になった次の第四代会長に理事長の南条(北条浩)が指名され、自分は副会長にもなれないでいるのを恨み、池島に対して反逆心を抱きます。一方、悪徳弁護士・山形正昭(山崎正友)は信仰心がなく、お金を何よりも大事にする男で、お金と女をえさにして島原を堕落させ、島原を会長にして、その背後から聖道学会を思うように支配しようと企てます。ところが、山形は恐喝罪で警察に逮捕され、島原も山形以外に一人の同志もなく孤立して、頭破七分の症状を現じ、死ぬことを示唆して『破滅』は終わります。
この原島・山崎に対する人格攻撃を専らとする学会側の姿勢は、その後も一貫して変わらずに続けられました。もっとも、池田会長の度重なる教義の誤り・逸脱・学会・公明党の反社会的言動が事実であるからには、学会側としては反論の場を人格攻撃のレベルにまで引き下げざるを得なかったのです。
平成二十年七月六日、弟(嵩)の死去の当日に発刊された学会怪文書『フェイク』は、相変わらず次のように口汚なく弟を攻撃しています。
「不知恩の退転,反逆者である原島嵩が六日午前六時前、入院先の立川の病院で死んだ。(中略)学会の教学部長でありながら、金に目が眩んで、師や同志を裏切り、極悪べテン師・山崎正友の手先に成り下がって資料を盗み出し、正信会に移って学会批判を繰り返すなか、厳しい罰の連続で体調を崩していった」
と。この文章にはただ激しい憎悪の念があるばかりで、仏教徒としての死者に対する一片の慈悲・哀悼の情もありません。
なお、「(聖教新聞社の極秘)資料を盗み出し」とありますが、これらの資料には、いわば池田創価学会の恥部というべき、御宗門や一般社会に絶対に知られたくない情報がたくさん盛り込まれていたのです。だから、それらが公開されるきっかけとなった弟の資料持ち出しによって、学会ひいては公明党の二面性、本音と建て前の使い分けが白日のもとにさらされることになりました。
『破滅』も、「島原が聖道学会を裏切る腹を決めて家を出たのは五十五年六月十八日、大量のコピー資料を持ち出してから約九ヶ月後のことだった」とあり、島原が大量の秘密資料をコピーして、それを新聞社の外に持ち出し、山形に手渡す情景から描写を始めています。
『破滅』では、島原が資料を「盗み出した」と述べており、実際にも、学会側は原島が資料を「盗み出した」といって、昭和五十六年二月、資料の持ち出しと公表により損害を受けたとして、四千万円の支払いを求める訴訟を東京地裁に提起しました。しかし、三年後の昭和五十九年七月、この裁判は学会側の完敗に終わり、今後二度と同様の請求を求める訴訟を起こさないことを確約して落着しました。
弟は後に、山崎氏との対談で、「私は当時、聖教新聞の主幹だったのです。つまり、自分で資料を確認するために、コピーして持ち帰ることのできる立場にあったのですよ。だから、盗んだのでも何でもない」(『今はじめて語る“あの頃”の真実史』慧妙編集室編)と笑っています。
弟の死後もなお「資料を盗み出した」などと罵倒する学会の見苦しさ・恐ろしさを、私は改めて痛感する次第です。
●辻副会長の変貌
ノンフィクション・ノベル(実話小説)『破滅』が、創価学会の中枢から提供された資料を使って書かれたことを確信したのは、この作品の終わりに近いところで、次のような記述があったからです。聖道学会機関誌局(つまり創価学会機関誌部門所属の職員)の山下幸雄に、フリーのルポライターの小宮が一方的に話しかける場面で、小宮は、「去年(昭和五十五年)、内山国雄(毎日新聞記者の内藤国夫氏のこと)が、雑誌『近代』(『現代』のこと)や週刊誌に根も葉もないスキャンダルを書いた。そのあと島原(原島嵩のこと)は兄に『あんなことをしてしまった。土下座して先生に謝れば許してもらえるだろうか』と言ったそうです。島原という男はすぐ謝るんですってね。謝ればなんでも許してもらえると思っているらしい。よく知っているでしよう。私たちもいろいろ取材しているんですよ」( )内は原島昭の注〕と言いました。
この「土下座して先生に謝れば……」という言葉は、本当に弟の嵩が私に語ったもので、昭和五十六年秋のことでした。
当時、弟は、東京地方裁判所から、『月刊ペン』事件の証人として出廷するように要請されており、とても苦悩していました。その第一の理由は、もし出廷して池田名誉会長の女性スキャンダルを暴けば、自分はどうなろうとかまわないにしても、母親と兄(昭)は本部の嘱託、弟と妹の夫は本部職員でしたので、私たち親族が弾圧されることは必至、と見ていたからです。
それ故、嵩は内部告発の初めから、できるだけ女性スキャンダルには触れないように用心していたのてすが、裁判所からの出廷の要請と同時に、このまま池田の乱脈極まりない私生活を見過ごしてよいものか、煩悶の数日が続いていたのです。そのあげく、上記の「土下座して先生に謝れば……」の言葉になったわけで、嵩も、いまさら謝ったところで許されないことは、百も承知していたのです。
そして私は、この嵩の言葉を、何とか嵩の出廷をやめさせようと、圧力をかけに私の家まで訪ねてきた辻副会長に伝えました。
前にも述べましたが、嵩が内部告発に立ち上がった後のことについて、嵩とあらかじめ約束がありました。それは、親族に対する学会側の圧力を少しでも緩めるために、差し障りのない程度に、私が嵩の不利になるようなことを言ってもよい、ということで、私はこれを実行したのです。ただし、私はこの言葉を辻氏以外の誰にも語ったことがありませんでしたので、これとまったく同じ言葉が『破滅』に載るとは、私は驚きと共に、かって私の父の盟友であり、また池田の大先輩でもあった辻武寿氏が、池田の手先になって、私たちに圧力をかける姿に、暗澹たる気持を抑えようがありませんでした。
この『月刊ペン』裁判によって、私自身の生活にも若干の影響をこうむりましたので、この件は後に少々述べたいと思います。
----------------改頁------224-つづく--
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