続・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
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◆ 小児病的“デマ”の流布
さらに学会・公明党がその内部の混乱を防ごうとして放ったデマは、まことにデタラメで、卑劣で、およそ信仰を口にするものとはいえない劣悪なものであった。それはとくに共産党よび私個人に関するデマにおいて顕著であった。
例えば、学会内部では--
「共産党は、たんと卑劣なことをやる党だ。けさ、全戸に配られたチラシをみましたか。“言論出版に圧力と妨害を加える公明党”という大見出しで、ウチの悪口をさんざん書いている。 なんとかいうインチキ学者の本を引用してサ。こっちも反論しないでよいものだろうか」とか、
「あの学者は来年(四十五年)二月、M大学をクビになるという話だ。それまでのカネもうけにあんな本を出版したんだろう。いまにご本尊さまのバチがあたるさ」とか、論じ合ったのである。(「サンケイ新聞」四四・一二・二四)
こうしたデマは、上から意図的に流されたものであることは疑いない。学会・公明党の幹部は、自己の言論、出版の自由への抑圧には口を閉ざし、一方では自己の歴史の書替えをはかりながら、他方では、一般会員に共産党や私の批判を“デマ・中傷”と受取らせ、さらに学会内部にデマをばらまくという二重の悪質な罪をあえておかしたわけである。このやり方は、ヒットラーのユダヤ人攻擎などで示した手口と実によく似ている。
さらに総選挙(四十四年十二月施行)を前にして、学会内部では--
「会長先生は見苦しい選挙をして勝つよりは、堂々と戦つて負けたほうがよいとおつしゃつたではありませんか。このおことばをもう一度かみしめて、きたないケンカは買うのはよそう。それよりこちらは正々堂々の改策を訴えていきましよう」「大勝利をおさめて池田会長先生に御報告致しましょう」(同上)など、宗教団体だか政党かわからない、まさに“政教一致”を地でゆく運動方針、絶対的権威者,池田大作会長の言のみを判断基準とする盲信的運動が、学会幹部のデマに踊らされて進められたわけである。
言論出版抑圧問題を一般会員がいたずらに「きたないケン力」と受取る認識それ自体の中に学会幹部のデマの流布の仕方がありありとうかがわれるといえよう。
◆ 池田“猛省”講演の詭弁
こうしたさまざまの準備をした後で、創価学会・公明党にとっては歴史的な池田“猛省”講演が行なわれたワケである。ところがこの池田講演なるものは、当人自身本当に反省をしているかどうか甚だしく疑問のシ口モノなのである。そこで彼は次のように述べているのだ。
言論出版問題は「言論妨害というような陰険な意図は全くなかった」が、結果として、言論妨害と受取られたのはまったく残念である。国立戒壇とは民衆立ということであり、「国立戌壇イコール国教化ということは最初から否定して」きたが、「国立」という言葉からくるイメージが「誤解」を招いたのも止むを得ないかもしれない。だから「国立戒壇」という表現は使わないことにしよう。学会ははっきりと政教分離を目ざしていたが、学会と公明党とは「一体不二」という言葉を使ったので「誤解した受け取り方」をした向きがあったし、学会と公明党は「母と子の関係」にあるとみられても止むを得なかった。会長だけが終身制というのでは「カリスマス的支配」といわれても止むを得ない等々……
実にインチキな論理を展開しているのだ。
この池田講演は、私にいわせれば、外部からの批判はすべて『誤解』であるというふうに内外ともに印象づけ、そういう『誤解』を与えるような用語や言動は、われわれは今後心して使わないようにしょうではないかといっているにすぎないのだ。つまり、弁明し時には謝罪しているようなもっともらしい体裁を取りながら、学会には何も悪いところはないし、あとにもさきにも悪いことをしたこともその憶えもないと、逆に開き直っているのである。
こうした開き直った発言をするいっぽうで、池田会長は「私は会長を辞めたい」、「猛省している」などと涙を流し、学会員の単純素朴な感情、心情をゆさぶり、そのまま会長のボストに居座ったのだ。池田会長はかって「創価学会を離れて公明党はありえない」と述べたことがある。
そうであるならば、学会は政教分離をはっきりと目指していたが、学会と公明党は「一体不二」であるという言葉をつかったので、誤解した受取り方をした向きがあるなどといった言葉はどこを押せば出てくるのであろうか。会長はやわらかい言葉と涙で、学会員をたぶらかし、外部に対して反省しているというボーズを示したに過ぎないのである。
---------(35P)-------つづく--