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“自分の召しを尊んで大いなるものとする”  その4(かきかけ)

2016-04-12 07:42:26 | 福音と教会

前回 その3   2014-07-01 07:25:31 |   

これまで英語の掲示板とか見てて、思ったことなんですが、

まぁ、簡単に言いますと、職・召しに召されて、そして(賛成の)支持されることと、その召しを尊び大いなるものとすることとはイコールではないということなんです。

当たり前といえば当たり前ですが、本当に、予言者たる人が、そのようにすれば、例外なく、旧約の予言者とかのように、いわば地獄の軍勢の激怒を買って、迫害を招き、殺され殉教となるんだろうと。

で、そのようなケースは神と顔と顔を合わせてまみえ、直接召されるような人たちなんだろうと。例えばジョセフ・スミス。

一般には、召されても選ばれるところまでに至るには(ヨハネ黙示録17:14、第2ペテロ1:10)尊び大いなるものとする過程があるわけでしょうし、その過程は一人一人顔も素性も違うように皆それぞれ異なるんだと・・・

教会幹部とか教会の高い召しだと100%御旨にそって大いなるものとしているとヒラ会員は受け取るんでしょうが、やはり幹部にも人それぞれ個性があるんでしょうと・・・

どのように裁かれるのか、たまWEB関知するところではありませんが、モルモン書からひとつ言えてそうと思えるのは、ニーファイの弟ヤコブの例で、“03 わたしの弟のヤコブもまた、わたしが贖い主にまみえたと同じように、すでに贖い主にまみえている。”(第2ニーファイ11)というのが、ひとつの基準といいましょうか、そういった経験からすれば、尊んで大いなるものとする底力が常人とは違ってくるのかなぁと。

ま、普通、支持する側は、信義というかベストを尽くしてやってもらってるんだろうと、そういう感じでは・・
それ以上のことは、同じ定員会同士とか縁者でもない限り内輪のことはわからなくても関知しなくともいいんだと・・・

 

そういった神と顔を合わせて語り合ったような予言者の大いなる特質、常人との違いとなりますれば、

彼らは大きなピュアな慈愛を持ってるんでしょうね、慈愛なしは価値無しと(モロナイ7:44)、”憐れみは憐れみに同情を寄せて自らの権利を主張し”(88:40)とも。

愛は愛を呼び覚ますんでしょうか、愛には愛で答えようとするみたいな。
そういうのが基本にあって正しい道を説くみたいな、悪に対し妥協を許さないみたいな、かつ神の恐るべき正義をも十分理解してるんでしょうね。

それでこそ力の限り働き、大いなるものとするんであろうと・・・

 

あのとてつもない試練・逆境という極限状況的最中にあっても、モロナイはどうして金版にそういった福音の教えを記せたりしたんだろう??!!託された使命を果たし得たんだろう??そういった使命を託され得たんだろう??!!

「39 またそのとき、あなたがたはわたしがイエスにまみえたことと、イエスが顔と顔を合わせてわたしと話をされたことと、人が人に語るようにまったく謙遜に、イエスがわたしの言語でわたしにこれらのことについて話されたことを知るであろう。
」(エテル12章)

ま、ジョセフのとか読んでの受け売り理解ですがな。


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