犬の散歩

見たこと、聞いたこと、感じたこと、思ったこと

2013年6月25日(火)

2013-06-25 08:04:01 | 日記


 国道の信号が丁度青になっていたので渡る。渡ったらすぐに左に行くのが通常のコースなのだが、犬に引きずられてまっすぐに行って、踏切を渡った。何か月か前に、来たことはある。その前にも、2,3回は来たろう。自分の意志でコースを決めたとばかりに、犬は力強く引っ張る。それが、突然だったり、全くの逆方向だったりして、上半身を全く逆の方に向かされたり、踏鞴を踏ませられたりする。その時、常にあゝとかおゝとか叫ばされる。このうと思う。犬を見ていないからそうなるのだと言われたら、その通りと認めざるを得ないけれども。ある信号の所では、信号が3回変わるまで、同じ所を行ったり来たりさせられた。道路に食べ物になるものが落ちているらしい。路上の物は絶対に食べさせないつもりなのだが、つい油断して、やられることがある。

 川の中に自転車が落ちていた。いや、捨てられていた。別の川にも自転車が投げ捨てられていた。もし、自分らが子供の時分、このように川の中に自転車を見つけたら、これ幸いと縄でもかけて引き揚げて、修理して乗ったものだろう。どうしても修理が出来ないと分かっても、役に立ちそうな部品を取り外しただろう。絶対にそうしただろう。

 絶対が2回続いたが、絶対という言葉は絶対に使わないと思ったことがあるが、絶対というものはなく、すべて世のことは相対的であると観念したことがあったからだ。また、子供の時代のように絶対は絶対あると感じるようになったようである。

 新しくできた大型商業施設群の横を通って、川を渡る。橋の上で、川幅の部分の歩数を数える。20歩。橋の真ん中から数えたので、川幅は40歩の約24m。古墳のある丘の麓から西に向かい、市の施設の敷地を通って、最近、新設された駅の裏に出た。すぐそばのウナギ釣りを見た川を見ると、逆流していた。つまり、下流から上流に水がかなりの勢いで流れていた。潮が満ちているのだ。ここは海岸から1km以上離れているが平らなので、潮の満ち引きの影響を直接受けるのだろう。国道に出て帰る。

2013年6月24日(月)

2013-06-24 07:56:52 | 日記


 暑いのは、気温のためか、体内からの発熱のためか。とにかく、歩き始めるとすぐに汗が出始めた。ティシャツの灰色が汗で首の下から腹にかけて黒くなってくる。顔からも汗が流れ落ちる。大体が、汗かきで、他の人には何でもないことでも、自分だけが汗をかいていて、自分一人だけが仕事をしているような感じになることもあった。

 今、勢いのある植物は、コスモス、サトイモ、オシロイバナ、カンナ、ササだろう。アジサイやビワの実も目立つが、もうこれ以上にはならない。サトイモは成長が速い。親指くらいの葉だったものが、もう手のひら大になっている。コスモスは2,30cm位に育っているが、花をつけているものもある。オシロイバナは強い植物である。カンナも強い。こっちの方が無敵という感じがするが、本当に強いのはオシロイバナの方ではないか。種をばらまけるからである。また、受粉の能力が非常に高いらしい。ササに限らず、竹の仲間はその内、樹木を圧倒するのではないかといわれている。山地が竹におおわれているのを見ることがあるが、その時は、証拠を見せつけられたような気になる。

 今日は朝のいつものコースのヴァリエーションを歩いた。帰りは市の施設の方へは行かず、線路に接近している国道の歩道を歩いた。昔、国道が狭く、線路側から草が生い茂っていた時代、父親に連れられて、夜、虫を捕りに来たことがある。クツワムシやキリギリスなどが鳴いていた。鳥の聞きなしに感心したことはあまりないのであるが、虫の声は歌にもあるように、音表記が可能であるように思う。クツワムシなら本当にガチャガチャと鳴いているし、キリギリスならチョン ギースと鳴くのである。発音組織が機械的で単純だからだろうか。
 歩道が極端に狭くなる部分が100m位ある。そこで通学の高校生の自転車とすれ違うことがある。自分と犬は一列となり立ち止まって通過を待つ。その狭い部分が終わりそうな頃、向こうから高校生の自転車が来るのが見えた。しかし、自転車は向こうで止まってしまった。何だろう。物陰になってはっきりは見えないが、もう一人高校生がいるようだ。その高校生を見て、自転車は止まったようだ。滑って倒れたのを助けるために止まったとも思える。それなら、こちらも急がねば。携帯を持って来ていて良かった。しかし、それを使うことはなかった。彼らは路傍のゴミを素手で拾っていたのだった。一人の高校生が始めて、その友達の高校生が加わったようである。笑顔で拾っていた。一緒に活動していた。その動機については、自分たちの通学路をきれいにしたいというものだろう。そして、それを直ちに実行する。おはようございますと言って通り抜けた。知らない人から挨拶されて、ちょっとおどろいたようにそれぞれ、おはようございますと返してくれた。自転車の後輪の泥除けに学校のスティカーが貼ってあった。関工とあった。

 家に帰って、ティシャツを着替える。散歩の後はいつでもである。ある時は外からの雨のため、また、ある時は内からの汗のため。

2013年6月23日(日)

2013-06-23 07:59:09 | 日記


 犬の散歩をするようになって気が付いたことがある。

 道路で十字路やT字路になっている所の敷地は角を落としている。法律や条例で決まっているのだろう。道路法とか建築基本法とか道路条例とか建築条例などで。
 なぜ、そうなったかについては、やはり、交通事故の防止が大きな理由であろう。曲がり角での飛び出しの交通事故が多発して、その原因を探るに見通しが悪いということになり、少しでも防止につながるのならということで、角を落とすようにしたのだろう。実験も繰り返したかもしれない。

 まだまだ気が付いたことがあるのだが、二つ目は電柱には一本一本、名前が付いているということだ。どの柱が電力会社のものなのか、NTTのものなのか、区別がつかなかったが、よく見ると表示がしてあることにも気づいた、共用のものもあるようだ。ある知り合いの庭に携帯電話のアンテナを設置する依頼があり、承諾したそうだ。その敷地料はなかなかバカにできない金額だそうだ。我々の通話料の一部がそちらに流れている。携帯電話会社は勢いがあるのだ。
 一方、電力会社の電柱が敷地に設置された別の知人は、敷地料は年額で1500円と明かしてくれた。占める面積が僅かだし、なにより公用性が高いから抑えられているのだろうと説明してくれたが、諦めつつも、完全に納得している風はなかった。
 電柱の名前は、主に地名、数字、アルファベットで記されている。漢字で書かれた名には地名ではないものもある。近所では海水浴というのがある。その近くには海水浴中通というのもある。一体、いつ付いたものであろう。海水浴場として、近くの都市から海水浴客が殺到していた頃のことだろうか。昭和20年代とか30年代とか。

 国道を北上して川に到着した。駅の傍のガードの下の手前で釣りをしている人がいた。対岸である。4人のグループらしい。そこにはささやかな花壇があり、手入れをしている人がいた。その人が、まだ、釣りを見ているところから推察すると、糸を垂らして間もないようだ。小さな鈴の音がした。糸を巻いている。そして、姿が見えたのだろう、大きいと小さな声で仲間に言った。こちらも、何が釣れたのだろうと興味が湧いてきた。水位はそこそこある。水は濁っている。仲間が車の所に走って行き、大きなたもを持って来た。マグロでも入りそうな大きな網だった。間に合え。おそらく鮒だろう。以前、ここにクサフグやボラが上って来ていたことがあった。河口から1km余り。大きな鯉もいるが、いるのは少し上流である。吉見の川と同様に人が放流したのだ。この川には、魚ではないが、鳥もたくさん来る。ある時季にはカワセミを連日見た。一羽のこともあったし、二羽のこともあった。カワセミを見にこの散歩コースを選んだようなものだ。但し、最近は、もう見ない。網が川に入り、キャッチした。そして水面に上がったのは7,80cmはあろうかというウナギであった。かなり太い。ポイントを知っている人たちなのだ。網の中でウネウネしているウナギを見て犬がウーンとないた。生き物だと分かるらしい。
 ウナギは絶滅品種だとか、南洋の海で産卵現場が確認されたとか、ウナギについてはニュースが続いている。ウナギはどの川にもいたものだが。私が子供の頃、実際にとったのは、イトウナギという5,6cmのものだったのだが。
 通りかかった婦人が私に尋ねた。蛇かね。気味悪そうな表情をして。いや、ウナギでしょう。蛇だったら、もっと細いからと親指と人差し指で輪を作って解説すると素直に納得してくれた。

 小雨が時々天から降っていた。濡れるほどではなかった。

2013年6月22日(土)

2013-06-22 08:02:34 | 日記


 散歩の始めに久し振りと思える青空と白く輝く雲を見た。青空は空全体のごく一部であった。しかし、散歩の終わりには、空は雲にすっかりおおわれた。

 川岸に合歓の木が生えていて、それに花がついているのを見た。風に揺れて涼しげである。花は木の上についている。だから、色は淡くても目立つ。花は下が白で上がピンク。扇を広げたような形をしている。葉はかなり大振りなのだが、花が繊細で小さいので目を引く。比較が出来ることを人は喜ぶ。伝えやすいからである。

 道端にヤマモモやイヌビワの実がかたまって落ちている。いずれも食用になる。庭から伸びた枝から落ちているのだ。桑の実も見た。子供のころ食べたので舌が味を覚えている。花が終われば、実や種になる。

 昨日、一昨日と急激に気温が下がり、体調良からず、何を見ても、何を聞いても心、動かず。

2013年6月21日(金)

2013-06-21 08:05:36 | 日記


 朝、小雨が降っていた。これは行けるなと思う。少し嬉しくなる。犬が喜ぶからである。こうしてみると、人は他者に良くしてやることによってお金には代えがたい大きな報酬、生きる糧を得ることができると思う。宗教やボランティア活動はこのような理由で始まったのではないだろうか。 

 しかし、丘陵に差し掛かった頃から、雨が少し本気に降り出した。これはまずい。空は一様にねずみ色である。風も出てきた。一緒に濡れて行こうとしばらく歩くが、もし自分が風邪でも引いたら散歩に連れていけなくなると考え直して、持ってきた傘を差した。犬の背中から滝のように水が玉となって流れ落ちる。傘から犬までは1m以上あるので、傘の恩恵は及ばない。こちらもずぶ濡れとなり、家に帰ったら下着から着替えなければならなかった。鍋の蓋のような今の傘は真上から鉛直的に降る雨だけに有効である。しかし、そういう雨は稀である。まず、ない。前線や低気圧が理由で雨が降る。その前線も低気圧も風を巻き起こす。だから、雨は風を伴うといってよいだろう。とすると、雨の日に差す傘はドーム型、釣鐘型、半鐘型のいずれかにすべきだろう。つまりレインコートの内側に空気を入れて膨らませたような物にしないと雨を防ぐことは出来ない。寡聞にして、この手の傘が販売されているとか、販売されていたということを聞いたことがない。
  
 こちらが気になっているのは靴である。衝撃緩和などの機能性重視のせいか、構造的に弱くなっているようだ。全速で走ったり、急にブレイキをかけたり、長時間走ったりするわけではないのに、持っているスポーツシューズはみな靴底から水が浸み込んで、靴下がびっしょりになる。思い切って、新しい靴を買うかとも思うが、まだ履けるしと今に買わないでいる。思い切ってという言葉をぼろ靴を捨てて、新しい靴を買うことに使うとは思いもよらなかった。気分一新という気分になかなかなれない。考えてみれば、靴は皆、かなり昔に買ったものだ。犬は靴も靴下も履かない。

 犬の肉球に魚の細い骨が刺さっていたことがあった。犬が後ろ足、右だったか左だったか忘れてしまうほど、以前のことなのだが、骨の刺さった足を浮かせて歩いていた。どうしたんか。その足を見た。犬はウーウと唸った。痛み、不快の原因が訴える対象、つまり、そこにいる私にあるかのように。病気や災害の理由の分からない大昔の人類の神頼みも、原因結果、因果を考える点においては文化的に大進歩だったように思う。

 雨がかなり本格的になった。かなり前に新設された駅には通勤、通学客がごった返しているように見えた。下りのヂーゼルのはずが上りが入って来た。雨のせいで5,6分遅れているようだ。風雨で止まったり、遅れたりが普通になって来た。

 犬の背がかなり濡れてきた。早く家に帰りたくなる。所が、昨日同様、道草を食いたがる。しかもかなり頑固である。頑固ならこっちだって負けてはいられない。ぐいぐい引っ張って帰る。布でしっかり拭いてやる。