ほぼ週二 横浜の山の中通信

人と異なる視点から見る

「おしん」と「寅さん」と東京大空襲

2013年01月03日 | うんちく・小ネタ

 

私の母方のおばあさんは既に亡くなっていますが、名前は「しん」です。つまり「おしん」です。

私の母によると、おばあさんはTVの「おしん」を見るのが嫌だったようです。おばあさんが言うには、昔はみんなTVの「おしん」のような境遇だったので、思い出すのが嫌だったそうです。

おばあさんは、新潟平野の真ん中、信濃川分流の中之口川近くの生まれで、戦前は東京上野でおじいさんと商売をしていました。しかし、おじいさんが病気で亡くなり、家が空襲で焼けたので、戦後は商売をたたんで新潟市内に住んでいました。

母から空襲で焼け出されたと聞いていましたが、数年前にこの空襲は昭和20310日の東京大空襲ということが、ヒョンなことからわかりました。

この東京大空襲の話は母から良く聞かされており、母の勤務先の同僚で同い年だった佐藤さんは全身火傷で病院に収容されたそうです。おにぎりを持って病院へ見舞いに行くと、目と口と鼻以外は包帯を巻かれていて、おにぎりをあげようとすると「食べさせて」と言っていたそうです。病院の床には東京大空襲で火傷を負った患者が多数寝かされており、「水が欲しい」と手を伸ばしてくるのをよけつつ看護婦さんが患者の間を飛び回っていたそうです。佐藤さんは、その後亡くなられました。


母の一家は、防空壕に大事な物を放り込み、着の身着のまま逃げて無事でした。数十mほど行くと幅の広い清洲橋通りだったので,逃げやすかったということです。清洲橋通りの向う側は焼けず、現在でも古い家屋が一部に残っています。この防空壕(家の前の道路に掘った穴に蓋をしたもの)に放り込んだ物は焼けませんでしたが、隣家の防空壕の中は焼けてしまったそうです。

 

ついでに、この「おしん」おばあさんは、映画「男はつらいよ」も見なかったそうです。なぜなら、田舎に住んでいた若い頃、身の回りに「寅さん」のような人がごく普通にいたので、「寅さん」をあえて見に行く価値が無かったのだそうです。

 

 

2013.01.03

 

 

2013.01.18 誤りを訂正しました

 

2013.02.14 その後聞いた内容を追加し、誤りを訂正しました。


2013.04.27 「昭和通り」を一つ東の「清洲橋通り」に訂正しました。




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