最近、多くの場面で「温度差」という言葉が使われるようになった。
温度というのはもともと、寒暖の度合いを数量で表したものであり、北海道の5月と南九州の5月では、まさに大きな温度の違いがある。
これこそが「温度差」という言葉なのである。
この頃では、実際の寒暖の差だけではなく、幅広い意味に使われている。
「政治家と一般市民の間に大きな温度差がある・・・」とか
「彼女の事は好きなのに、どうやらお互いの気持ちに温度差がありすぎるような・・・」
とか色々。
一つの物事に対しての熱意の差。あるいは、物事に対する関心の度合いや態度の微妙な違い、などに使われる。
特に、自由社会における何でもあり、それぞれに特異な価値を見いだすという今の時代で、何かにつけて温度差を感じるのは当然と言えば当然なのだろう。
まあ早い話が、お互いの主張だけを誇示していては、たとえわずかな温度差ではあってもそれを埋め合わせることは出来ない。
どちらかが、あるいはお互いが理解し合い、歩み寄りを見せることで、温度差をなくすことは出来る。
とどのつまり、本人の価値判断という原点にもどってしまう。
岩国検定試験?? なにそれ? なんでやるの? 何のために? 試験受けてどうなるの?
これらの低い温度に対して、地元の人に、地元のことを、ホンのちょっと掘り下げて、自分の住む岩国を知ってもらう・・・。という少し高い温度がどこまで浸透できるのか、そうして厳然とある市民間の温度差をどうやって縮めていくのか・・・難敵ではある。
ア~ ウラメシヤ オンドサ~~ どこかえ飛んでけ、温度差 !!
確かにそうですね、郷土に愛着を持つことと、検定試験に興味を示すことは異なる意識なのかもしれませんね。
なんとか宣伝効果で、郷土への愛着の度合いを検定試験で試してみる・・という気持ちにつなげるてだてが要りそうですね。
異質なものに心傾け、言葉に耳を貸す・・・。人とつながる・・・。
おっしゃりたいことは十分飲み込んでいるんです。重々承知です。
不器用ですね~。
心まで傾かない自分がいますが、言葉に目も耳も貸してはいるのに・・。
ただ、それ以上は今のところおこがましくて、深く入らないことにしています。
差異などを表現するときなどに使うと、確かにやわらかな意味合いになるようですね。
英語でも似たようなことは言うのですけどね。
人とのつながりの上で「温度差をなくす」、小さくすることは不可能ではないですよね。同じでなくていいのですから。
異質なものにも心を傾け言葉に耳を貸してみる気持ちが、つながり、理解を生んでいくのではないかと思うのですが。この世を生きるって事ですわ~、違うかな…?
検定…
地域活性化のためにという一つの試みとして応援します。
受験者側に立った時は、京都検定に興味がない自分が何を言えましょう。
これは「検定試験」受験そのものに興味がないのであって、個人的に「京都」への関心は大です。
このへんが… 難しいですね。
私みたいな人間を、どうやって「受験」に気持ちを向けさせるか。
なんのかんの言って、熱意も意義も感じて応援しているのでありますよ。
岩国検定、う~んと思ってしまいます。
賢ちゃんの思いは、いつかは何らかの形で必ず市民に伝わる、を、信じて・・・・、