ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

飯舘村のこと

2011年04月07日 | 東日本大震災
原発事故のおかげで、今や世界中で「フクシマ」の名前を知らない人はいない。
こんなことで有名にはなりたくなかった。
とりわけ最近は、飯舘村が有名になってしまった感がある。
(メディアでは「イイタテ」と言ってるが、地元では「イイダテ」と発音している)

飯舘村は、福島県の東より、阿武隈高地という高原の、まん中より少し北側に位置する。
この村の名前を知らなかった人も、「ダッシュ村」ならご存知であろう。
そう、飯舘村には、あの「ダッシュ村」があったのだ。

  ダッシュ村の場所は下のコメントの通りわたしの大きな勘違いで、正確には浪江町。
   関係者の方々、申し訳ございません。


わたしは、ジャニーズのお兄ちゃんたちは、スマップと昔のジャニーズの方々以外は、
誰が誰だかほとんど区別がつかないのだが、おかげで「TOKIO」はわかるようになった。

飯舘村は高原なので稲作にはあまり適しないのだが、酪農に力を入れていて、
「飯舘牛」というブランドがある。
さらに、飯舘村で産まれた子牛たちが三重県や兵庫県に売られ、そこで育って、
「松阪牛」や「神戸牛」といったブランド牛になるのだそうだ。

大学勤務の頃、南相馬市の市立病院に出張があると、わくわくした。
なんたって、大好きな高原ドライブができるのだ。
たま~に、飯舘村のコープに立ち寄って、福島市内よりは少し安く買える飯舘牛を買って帰った。
(たま~に、ですよ、たま~に。)

阿武隈高地は、学生の頃によくぷらっと出かけた愛知県の山奥、奥三河の山々を思い出させる。
というより、たぶんわたしは、奥三河が阿武隈高地に似ているので、出かけたくなったのだと思う。
今は新城(しんしろ)市に合併された作手(つくで)村とか、茶臼山高原を通って、
長野県の飯田市に抜け、そこから中央道の長い長い恵那山トンネルを通って、
愛知県の自分のアパートに帰ってくる、というのがおきまりのコースだった。

長野の方からコメントいただいたり、恵那市のお母さまからマスクを送っていただいたりしたので、
学生の頃の懐かしい記憶がよみがえった。
ドライブのほとんどは、たったひとりだったけれど、わたしにはそれがしあわせな時間だった。

こちらの大学勤務も、そりゃあ、大学病院だからもちろん忙殺される毎日だったが、
大学だからこその地域関連病院への出張の行き帰りは、それなりに楽しむことができたのだ。
ろくでもないわたしの、たったひとつ、自慢できることは、
「ちいさなことでも、しあわせな気持ちになれる」ことかも知れない。

でも、今回ばかりは、しあわせな気持ちになることに、うしろめたさがある。
飯舘村のニュースを聞くと、あの懐かしい風景が目に浮かぶ。
一瞬、なつかしさに気持ちがなごむ。
でも。
今、その村のひとたちは、先の見通しがないまま、これからの生活をどうしたらいいのか、
それさえも、選ぶことができないでいる。
なつかしい思いは、どうしようもない憤りに変わる。
役場の方に尋ねたところ、まだ150人ぐらいの乳幼児たちがいるのだそうだ。

先日送られてきた手作りマスクは、飯舘村のお子さんたちに送った。

「センセイの顔、みたかったぁ・・・」

2011年04月07日 | 東日本大震災
そう言って診察室に入ってきたお母さんがいた。

震災の日以来、ちょっとでも地震がくると震えて動けなくなって、
家の2階にもひとりで上がれず、トイレにもひとりで行けず、
ご主人に付いてきてと頼んだら一笑に付され、6歳の長女に付いてきてもらってるという。

いつも明るいお母さんだ。
もちろん、お子さんの世話だってしっかりやっている。

 わたし、もともと、怖がりなんです・・・。

そうお母さんは言う。

 地震の時からずっと、センセイの顔みたくて、センセイに会いたかったんだけど、
 こわくて、外にも出られなかったんです・・。
 今も、ちょっとでも揺れると、怖くて怖くて・・・。

そうかぁ、怖かったよねぇ、ほんとに・・・。

わたしも介助の看護師も、大きく頷く。

診察の目的は、1歳の長男の湿疹。お姉ちゃんも付いて来てた。
地震のあとから、だんだん湿疹がひどくなって治らないとのことだった。

3月11日から今日までのことを、たくさんたくさん、お母さんは話した。

 わたし、心配なことや気になることがあると、誰かに言わずにはいられないんです。
 言わないでいると、余計におかしくなってしまって・・・。
 ・・きょうは、ここに来れてよかったです。

いつもの笑顔になって、お母さんは帰った。

話をきくのも、大事な診察だ。

こんなすっぴんのおばさんの顔でよければ、いつでも見に来ていいよ。