ジェンダーとメディア・ブログにて、斉藤正美さんが伊田広行氏の新刊、『続・はじめて学ぶジェンダー論』について、鋭い批判を展開している。自らを「ジェンダーから離脱した人」として捉える著者は、その当然の帰結として男性としての権力性に無自覚であること、そして、意識改革を主に女性と想定されている読者に呼びかけていることが指摘されている。
私はこの本は読んでいないが、シリーズの一つ前にあたる『はじめて学ぶジェンダー論』は持っている。そちらを見ても、斉藤さんの指摘には同感だ。
この本の特色のひとつに、<考えてみよう>コーナーがあり、質問が提示された後に読者が書き込む欄がある。この書き込み欄は、本に直接書くことを想定してのものなのではないかと思われるが、この欄が狭いのだ。例えばp.77
という質問に対する答えの空欄は、一行。一行で何が書けるというのだろうか。
「アラブ世界は民主主義が根付いていない」とは思っていませんか?という質問への空欄は、たった約2センチである。「はい」か「いいえ」しか答えようがない。
それとも、この書き込み欄は実際には使用せず、ノートに書き込むべきものなのだろうか。だったら、本に、書き込み欄を作らずにページ数を減らして、価格を安く設定するという選択肢もあったはずでは!?と、ケチで貧乏な私は思ってしまうのだった。。
また、上記の質問項目は、多様性について学ぶという目的から出てきているようだが、この本を読む読者が「在日外国人とか、同性愛者だとか、トランスジェンダー」であるという想定は、この質問からは見えて来ない。という事で、斉藤さんの「女性読者相手」という論考にちょっとつけたせば、この本は、「国籍が日本人で、民族的マイノリティや留学生ではない、異性愛者の女性」を読者に想定しているのだろうと思われる。読者を「多様」として捉えているとは思えない。
授業でこの本が使われる際、在日でトランスジェンダーの学生がいたとしたら、この項目にどうやって答えたらいいのだろうか。アラブ社会から留学してきた学生がいたとしたら、どう答えるべきなのだろうか。例えばアメリカで私がジェンダー論の授業をとったとして「自分がステキだなと思った人が、外国人だったらどう思いますか?」なる質問がテキストにでてきたら・・自分が外国人である私は、どうやって答えればいいのかわからなくなると思うし、自分の存在がこの授業から無視されているようにも感じる。「多様」な読者の存在が見えなくなっていることこそが、「マジョリティ」の権力の発動であるともいえるのではないか。
私はこの本は読んでいないが、シリーズの一つ前にあたる『はじめて学ぶジェンダー論』は持っている。そちらを見ても、斉藤さんの指摘には同感だ。
この本の特色のひとつに、<考えてみよう>コーナーがあり、質問が提示された後に読者が書き込む欄がある。この書き込み欄は、本に直接書くことを想定してのものなのではないかと思われるが、この欄が狭いのだ。例えばp.77
「自分の中の、非多様性なところを見つけてみましょう。たとえば、自分がステキだなと思った人が在日外国人とか、同性愛者だとか、トランスジェンダーだとわかったときにどう感じますか。きれいごとではなく、本音で考えてみましょう」
という質問に対する答えの空欄は、一行。一行で何が書けるというのだろうか。
「アラブ世界は民主主義が根付いていない」とは思っていませんか?という質問への空欄は、たった約2センチである。「はい」か「いいえ」しか答えようがない。
それとも、この書き込み欄は実際には使用せず、ノートに書き込むべきものなのだろうか。だったら、本に、書き込み欄を作らずにページ数を減らして、価格を安く設定するという選択肢もあったはずでは!?と、ケチで貧乏な私は思ってしまうのだった。。
また、上記の質問項目は、多様性について学ぶという目的から出てきているようだが、この本を読む読者が「在日外国人とか、同性愛者だとか、トランスジェンダー」であるという想定は、この質問からは見えて来ない。という事で、斉藤さんの「女性読者相手」という論考にちょっとつけたせば、この本は、「国籍が日本人で、民族的マイノリティや留学生ではない、異性愛者の女性」を読者に想定しているのだろうと思われる。読者を「多様」として捉えているとは思えない。
授業でこの本が使われる際、在日でトランスジェンダーの学生がいたとしたら、この項目にどうやって答えたらいいのだろうか。アラブ社会から留学してきた学生がいたとしたら、どう答えるべきなのだろうか。例えばアメリカで私がジェンダー論の授業をとったとして「自分がステキだなと思った人が、外国人だったらどう思いますか?」なる質問がテキストにでてきたら・・自分が外国人である私は、どうやって答えればいいのかわからなくなると思うし、自分の存在がこの授業から無視されているようにも感じる。「多様」な読者の存在が見えなくなっていることこそが、「マジョリティ」の権力の発動であるともいえるのではないか。