ふぇみにすとの雑感

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アメリカの文系大学院での奨学金やアシスタントシップ

2009-05-02 21:22:00 | 大学関係
Ockham’s Razor for Engineersというブログの「アメリカの理工系大学院のリサーチアシスタント」というエントリで、アメリカの理系大学院の院生のリサーチアシスタントシップについて紹介されていた。私は文系大学院にずるずる何年もいっていたので、文系の院生が大学からもらえるファンディングについてメモっておく。

ほとんどの理系の院生が使う、「リサーチアシスタントシップ(RA-ship)」というのは、文系の場合はほとんど存在しない、と考えた方がよい。理系の大学教員がとれるような、何人も大学院生のRAを雇えるようなグラントがとれることが滅多にないからだ。こういう機会がゼロ、とは言わないが、ひじょうに少ないとは考えておいたほうがいいだろう。

では、どうするか。最近、いわゆるトップレベルといわれる大学院(アイビーリーグとか、それに類するような私立、州立大学)は、院生に入学許可を与える際、「5年のパッケージ」などとよばれるやり方で、5年間は何らかのファンディングを与える、というのを条件にしている場合が多くなっている。そうしないと、よい院生をとるために競合できないからだ。というわけで、こういったパッケージをもらえれば、とりあえず5年(あるいは何年でも、大学が保障する年数)は安泰だ。たいていの場合、授業料全額免除と、生活できる程度のstipend(給料)をもらえ、大学によってはそれに健康保険がついてくることもある。その間にそのお金の条件として何らかのティーチングをさせられる場合もあるかもしれないが、経済的にとりあえず5年は路頭に迷うことはない。(ただ、人文系の場合、5年でPh.D.がとれる、というのは数字多用系分野でない限り、ひじょうに稀だ。)

ただ、この「パッケージ制度」、時と場合によって、外国人はその枠から除外されることもありうる、という現実もある。たとえば私が院にいったミシガン大学の場合、アメリカ人が通常もらえる、とされている制度なのに、なぜか外国人は別枠扱い、ということが時々あった。アメリカ人にとってパッケージ制度があるからといって、必ずしも同じものを外国人がもらえるとも限らないかもしれない、ということはおさえておこう。

では、この「5年パッケージ」的なものがもらえない場合、あるいはその5年間が終ってしまって、まだ学位が終らない場合、または、そもそもパッケージなどない大学院の場合はどうすればいいのか。

一番大きなファンディングのチャンスは、大学院生講師(大学によっては、ティーチングアシスタントともよばれる)をすることだ。ミシガン大学の場合、ティーチングアシスタントを25%以上(週の労働時間40時間の1/4=10時間を費やすという意味)のアャCントメントでとれると、授業料全額免除、大学教員と同じ健康保険(1年以上TAをやれば歯科保険もつく)、リッチではないながらも、生活できるレベルの給料がもらえた。そのほか、ティーチングのトレーニングを受けさせられるときは少しながらも給料(そのぶんの時給、あるいは生活費に相当する額)がもらえたりもした。これがとれれば、生活はとりあえずは安泰だということだ。(25%に満たないアャCントメントでも、授業料部分免除があったりする。)ただ、毎学期毎学期応募するというプロセスを経なければならず、安定的に常に職が得られるというわけでもない。

このミシガン大学の大学院生講師がもらえる給料にしろ、保険などにしろ、おそらく全米の大学院のなかでトップレベルのものだと思う。なぜか?ミシガンには、1970年につくられた、全米でも最長レベルの歴史をもつ大学院生講師組合があるからだ。これより長い歴史をもつ院生の組合はウィスコンシン大学マディソン校にしかないが、最近、かなり組合をもつ大学もふえてきた。

組合があると何が違うか。大学院生をティーチングのために雇うときに、オープンにアプリケーションをつのって、選考しなくてはならないこと(ひそかに誰も知らないうちに応募も募らずコネ選考ができない)、同じ仕事量なのになぜか給与が学部によって違うなどの事態がおきないこと、そして、授業料もたとえ院生講師として働いても部分免除にしかならないような院もあったりする中、労働時間に応じてしっかりスタンダードが決まっていること、健康保険などのベネフィットが保障されること(健康保険、というのはアメリカにおいて本当に大きなものなので、これがあることの重要性ははかりしれない。)そして、謎の理由で雇われない、給料が支払われない、決められた時間数より多く働かされている、解雇されたなど、問題が生じたら、組合を通じて交渉してもらえることなどだ。組合があることの利点は大きいと思うので、大学院生として教えることでなんとか生計をたてたいと思うなら、「組合がある大学/しっかりしている大学」というのを基準に選ぶ、というのもアリだと思う。(組合がどこの大学にあるかについては、CGEU -Coalition of Graduate Employee Unionsのサイトを参照のこと。)同じ仕事をしても、組合も何もないシカゴ大学はティーチングアシスタントとして働いても院生に保険はくれないし、給料もとんでもなく安かった。いづれにせよ、組合の有無をおいておいても、院生講師/TAの給与もベネフィットも、大学によって雲泥の差があるので、文系の院に行きたいと思う人はきちんと調べた方がよいと思う。

ミシガンの場合は、"10-term rule"という制度があり、10学期間をこえて(春夏学期のぞく)院生として教えることはできない。(少なくとも私がいた時代はそうだった。)だから、5年以上院生として在籍する場合、永遠にティーチングをやり続けるというのも不可能だ。

英語ネイティブではない外国人の場合、ティーチングのャWションをとるにも壁がある。ミシガンの場合、英語の試験を受けさせられ、それに落ちると何度も繰り返し受けさせられ、受かるまでティーチングのャWションがもらえなかった。この試験が純粋に「客観的」に英語力をはかる試験であればいいのだが、試験官の主観で「ジェスチャーがヘン」とかわけのわからない理由をつけられて落とされたりする場合もありえ、英語もそんなに問題ないのに何度も落とされて苦労していた人たちもけっこういた。そんな背景もあり、アメリカ人よりはティーチングのャWションをとるにも大変な面がある。

もうひとつの手は、日本語ネイティブという強みを生かし、日本語のティーチングアシスタントをすることだ。言語学や日本文学専攻なら、この手でいくのがベストなのだろう。ただ、同じ大学内に強い言語学や日本語、日本文学の学部があったりする場合、その院生たちが優先されるわけで、別の分野の人たちの場合は選考はされづらくなるかもしれない。

ただ、どの大学でもティーチングの機会がたくさんあるわけではない。ミシガンのような、巨大な学部を抱えている大学の場合は、学部生を教えるという仕事の大部分を大学院生が実は担っていることもあり、ティーチングのャWションじたいはたくさんあった。多くの大規模州立大学、大規模私立大学(学部生がたくさんいるところ)などは、似たような状況だと思う。ただ、私がャXドク時代にいたシカゴ大学の場合、院が大きく、学部は少数精鋭型の大学だった。こうなると、学部生の絶対数が少な過ぎるので、当然ながらティーチングのャWションもすくなく、常にティーチングができるという状況ではなかった。

ティーチングではなく、フェローシップのようなものをもらうという手もいちおうはある。アメリカの機関からでる外部フェローシップ、グラントの大部分は(すべてではないが)、外国人は応募もできないので、その場合大学内からでるものを狙う。たまに外国人にしぼった対象のフェローシップがあったりするかもしれず、そういうのは通常のものよりもらいやすいと思う。それと、ミシガン大学の場合、デトロイト近郊にある日本人補修校で、大学からのフェローシップという扱いで土曜日に働くことで給料がもらえた。生活費のたしには十分なるくらいの給料だった。(ミシガン州立大学でもやっていたと思う。)これがミシガンだけなのか、ほかの地域の補修校でやっているところがあるのかわからないが、、

外国人はビザの関係上、キャンパス内でしか働けないので、すべての上記の手段がダメとなると、図書館だとかカフェテリアで地道に働くということにならざるをえないのだが、これではバカ高い授業料など捻出できず辛いだろう。アドバイザーなどの教員に、遠慮せず常に自分の貧乏状況をアピールしておくことが重要だろう。とくに日本人の場合は、勝手に「金持ちに違いない」と思い込まれているケースも多いからだ。そして、なんだかんだいって、院生のファンディングは教員たちのさじ加減で決まってしまう面もあるからだ。

最後にもう一点。ミシガン大学の場合は、Ph.D. Candidateになると支払う必要なる授業料額がかなり減り、授業料を払わなくても書類を提出すれば在籍できるDetached Studyというシステムもあった。私も博論執筆時には盛大に利用したものだ。ただ、Detached Studyについてはいろいろうるさくなっていたようだから(とくに外国人に関しては、9≠P1以降いろいろうるさくなった)、今も同じかどうかはわからない。

以上は私の院生時代の体験に基づいた話だが、今働いている大学(基本的に理系大学)の文系大学院生たちは、ファンディングなんかあるんだろうか状態だ。いわゆるその分野のトップ大学院ではない場合、必死に院生をリクルートする必要もない、というか、してもたぶんこないし、結局地元民でこの地域を何らかの事情で離れたくない院生たちが文系の院にははいってくる感じだ。学費がリーズナブルだから、それでも学生は来るという面もある。教育学系をやっている院生は、毎学期のように教えさせられるが、給料は低いしベネフィットもない、とぼやいていた。そして、前回エントリでも書いたけれど、修士だけのプログラムの場合はどの大学院でもファンディングをもらえる機会はがくっと減ってしまうだろう。


(追記:院生講師がもらえる給与について、別エントリで書きました。)


アメリカ大学院のデトロイト化?

2009-05-02 09:05:00 | 大学関係
前回エントリで話題となっていた渡辺千賀さんの「海外で勉強して働こう」というブログエントリについて言及した。その流れから、同ブログで「国や組織はどういう時に良くなるか」というエントリが新しくアップされていたので読んでみた。

そして、細かいことではあるが、このエントリ内で渡辺さんがNY Timesの Op-Edに掲載されたコロンビア大学教授による文章に言及していたのが気になったのでこれについてちょっと書いてみる。渡辺さんが言及していたこともあるが、このOp-Ed、実は私の職場(=アメリカの大学)でも話題になっていたという背景もあったりする。

渡辺さんは、この記事について、「アメリカの大学院でも、人文系では、「大学院は学問のデトロイト」と自ら語る教授もいるくらいなので気をつけてくださいませね。」と書いているが、「学問のデトロイト」ではなく、正確には「高等教育(higher education)のデトロイト」。そして、確かにこの文章を書いた教授は、コロンビアの宗教学部の学部長ではあるが、この人はとくに「人文系」に限った話をしているわけではない。もちろん、彼の背景から人文系のほうをより考慮しているとはいえるだろうが、今のアメリカの大学ーとくに大学院ーの危機的状況は、人文系に限定されるわけではない。

この記事で指摘されている、現在起きている、アメリカの大学における雇用凍結や解雇の流れは、人文系に限ったことではない。州立の場合は州からの予算が、私立の場合は(州立もところによっては)企業などからの膨大な寄付が不況によって減って、たいていの大学はこの影響に苦しんでいる。そして、雇用凍結を導入している大学は、大学規模で導入しているケースがかなり多いはずだ。要するに、ここ数年間は誰が引退しようが辞めようが、新たなテニュアトラック、およびテニュアをもつ教員を雇わないということである。そして、同時に非常勤カットも行われているのだ。これは、理系も文系も関係ないと思う。かえって、理系のほうが新たな教員を雇うときに、ラボを設立したりという必要が生じたりしてお金がかかるわけで、そこを凍結しないと大学経営的にはそう意味がない、ということにもなりそうだ。

この雇用凍結、解雇の流れの帰結はどうなるか。もちろん、クラスサイズの増大につながる。クラスサイズが大きくなれば、行き届いた指導などは不可能になる。マスプロ教育になり、教育の質の低下につながるだろう。

そして、このニューヨークタイムズの記事の主な主張は、アメリカの大学院システム批判だ。大学院で学ぶことが、どんどん専門化、細分化され、狭い専門の中にいる人たちしか読まないような論文を生産するための教育がなされ、教員たちは自分たちのまるでクローンのような学生を作ろうとしているようなものになっている。アメリカの大学教育というのは、安い給料で働かされる大学院生講師(ティーチングアシスタント)がいないと機能しない現状であり、その安い労働力確保のためにも、大学は大学院生を増やしたがる。テニュアシステムも硬直化を招いている面がある、、などなど。そういった現状を指摘して、どうやったらこの状況が変革できるかの提案をしているという文章である。この人の提案にすべて同意するわけではないけれど、「アメリカの高等教育ーとくに大学院教育が危機的状況に陥っている」という指摘は、たしかにもっともな面があると思う。

どの大学でも、大学院プログラムをつくることで、大学がお金を稼ぎ、安い労働力も得て、生き残りをはかろうとしているという面がすごくあるのだ。そして、大学院が乱立し、学位をもった卒業生も増え、でも仕事はない。しかも雇用凍結、という状態になっている。日本の大学院乱立をめぐる状況と、そう大きく変わらない現状がある。

もちろん、卒業して仕事がない可能性は一般的には理系より文系のほうが高いので、文系のほうがより厳しい状況ではあるのだが、それでも理系の博士号をとって、フルタイムの仕事がすぐにあるわけではなく、ャXドクをずーっとやらざるをえない人たちだってたくさんいるわけだし、この不況の影響は理系にだっていっていると思う。企業からの寄付や助成金が大きかった分野ならなおさらだろう。企業への就職についても、この不況だから、そうバラ色な状況であるはずもない。

博士課程はそうだが、では修士は?ということになるかもしれないが、いわゆる有名大学で、博士号までとれるようなプログラムの場合、修士課程というのはまさに、授業料を学生からとることで、大学がお金をもうけるためのものになっている場合も多い。修士論文の指導、という点に関して言えば、もちろん教員次第でもあるので、きちんと指導してくれる人もいるとは思うけれど、修士ということでまともに見てくれない教員もたくさんいると思う。修論指導に関しては、もしかしたら日本のほうがしっかりしているのではないかと思うくらいだ。そして、修士だけの学生たちにファンディングをだしてくれるケースは少ないだろう。大学がもうけるためのプログラムなのだから、学生自身が授業料払ってくれるのが当然、という考え方のところはかなり多いのではないか。博士課程があるプログラムでの修士の学生の立場は本当に弱いものだ。(修士主体のプロフェッショナルスクール系ーたとえばローやビジネスーになるとまたちょっと状況は違ってくるだろうが。)

アメリカの大学院教育というもの、そんなに夢のような世界ではないし、世界的にとくに抜きん出て優れているとも言いきれない面のではないか。実はかなりどんづまりになっていて、高等教育のお荷物になってしまっているのではないか、、という危機感は、かなりの教員に共有されているのではないか、と少なくとも私の経験では感じるものがある。しかしながら、なぜか世間一般でも、ブログ界隈でも、アメリカ大学および大学院教育が過度に理想化されがちなのが気になってしまうのだった。