スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(天孫降臨 謎が解けた)

2020-11-15 08:48:45 | 日記
11月15日(日)
 自分の孫が統治する国だと言って召し上げておきながら、出雲と全く関係ない日向へ降臨するとは、理解不能な話である。色々な人に聞いたりネットを調べたりしたが、いずれも判然とする答えを見いだせなかった。ずっと謎だったがやっと分った。それは読み方が違っていたのである。
 現代文は起承転結を旨とする。しかし古代文は違うのだ。その事を書くことが重要なのだ。言霊との言葉があるが、話の起承転結よりも、その言葉を書くこと、言霊による「事実」の創造に、重要性を置いているのだ。出雲の国譲りは古代人の誰もが知っている出来事だ。神武天皇が日向出身なのも事実だ。そして神武天皇を国譲りを迫った勢力の子孫とする為に、天孫降臨との話を(現代人からすると全く出来の悪い創作で)でっち上げた、しかし古代人の感覚からすると、その話を書いたイコール、その話は書かれた言葉(言霊)によって、事実だとなるのだ。
 天孫に統治させる為に苦労して奪い取った、しかし天孫は別の場所に行く、おかしいではないか、これは話に内在する論理を追った現代的読み方である。これに反して出雲を召し上げた勢力の子孫が神武天皇だ、書紀に書いてある、これが古代人の感覚なのだ。言霊の威力で「事実」を創造してしまうのである。
 ここの理解に至るのに二つの事柄が作用した。一つは絵画の遠近法である。現代人は絵画とは遠近法を使ったものだと前提しているから、中世ヨーロッパの絵を見ると、奥行きも動きもない小学生が描いた絵のように見えてしまう。しかし遠くにある物が小さく見えたとしても、近くに寄れば実寸大に見える。人間の表情だって笑う時と怒る時と寝ている時では、全く違うではないか。だから中世ヨーロッパ人は、物体は見える通りのものではないと考えて、絵を描いたのだ。
 もう一つは歌舞伎である。歌舞伎の筋は天孫降臨に似た荒唐無稽なものである。だから誰も筋など追わない。一つの場面が人生の一つの局面を表していると見、そこに置かれた人間の、苦悩とか喜びを、独特の歌舞伎的表現で味わうのだ。現代人なら恋人に振られた男が嘆いているとして、その嘆きの深さは彼がどれだけ彼女を愛していたかの事実を列挙することで、理解させようとするだろう。しかし歌舞伎ではその嘆きの深さを、大げさな身振りで取り乱した様をどれだけ繰り広げるかという、所作で表現するのだ。だから普通の演劇を期待すると歌舞伎は味わえない。
 このように昔の人は現代人とは感覚が違うのだという事に気づいたのだ。ならば日本書紀の時代の人の感覚も、現代人とは違うだろう。書物に「天孫降臨」との言葉を書けば、それが事実に化して誰も疑わない、そういうものなのだろうと考えたのだ。
 ただこの古代的な考え方が現代にも残っていたら、大いに問題である。どうもそんな気がするのだが、それはまた。