渓流下りで知られる保津川下りの終着点「嵐山」付近を大堰川と称し、渡月橋から桂川と呼び名が変わって南に向かってゆったりと流れていく。桂川に架かる桂大橋を西に向かって渡ると、うっそうと茂る森が見える。そこは、源氏物語の「松風」の巻に登場する光源氏の別荘「桂殿」で、藤原道長の山荘「桂家」をモデルにしたものであった。
後水尾天皇を迎えるため智忠親王が造ったというふ2本の太い皮付丸太(・あべまき)を柱にした茅葺屋根の御幸門(家仁親王が再建)をくぐると、そこから王朝絵巻の世界に誘われる。
桂離宮はドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938年)が絶賛し、グロピウスに「限りなき簡素とつりあいの故に最も近代的」と言わせたほど、建築と庭園の調和が優れている。桂川のほとりに、八条宮智仁、智忠親王父子によって元和元年(1615)年より寛文2年(1662)年にかけて数回の増築の末、現在の姿に完成され「桂山荘」と称していたが、明治16年(1883)以降、「桂離宮」と改称された。
桂離宮の創建者・八条宮智仁親王の妃はキリシタン大名の娘であったことからか、西洋建築様式が取り入れられたのではないかと言われている。その特徴的なものとして御輿寄前庭がある。この空間は石庭で名高い「竜安寺」にみるように縦横の比率が黄金分割比となっており、安定感と奥行きを感じる最も美しい構造である。そして御幸門の眺め、土橋を視点とした御幸道、松の枝を引き立たせた亀甲岬、中秋の観月に作られた月見台、計数的に刈り込まれた生垣など、幾何学的な印象を強くうけるのも、西洋知識があったものと考えられている。また、桂離宮が建設された17世紀のヨーローッパでは、遠近法や眺望
を重んじた庭園が流行していたこともその要因と言われている。
敷石を踏みながら苑内に入ると、直角に折れた小道が開けたとき、映画のスクリーンに映し出されるかのように、次々と異なった景観が目に飛込んでくる。利休好みとは異なった市松模様の襖を配する茶室「松琴亭」から日本三景の1つ、天橋立を模した石橋と島が優美に眺望できる。さらに足を進め築山を登ると「賞花亭」(しょうかてい)にたどり着く。山里にぽつりと佇むかのような茶室は、ホットさせてくれる癒しの休み処である。もう一つの茶室「笑意軒」(しょういけん)は、船着場をそなえており、ふと、優雅な舟遊びの光景が脳裏に浮かんだ。
笑意軒から離宮の御殿が居並ぶメインへと歩を運ぶ。「古書院」「中書院」「楽器の間」「新御殿」などが建ち並び、それが雁の群れが飛翔する形に似ているところから雁行形式と称されている。
待合処を出て小橋を渡り御幸道を紅葉山を左手に眺めながら最初に案内されのが「外腰掛」(そとこしかけ)の休処である。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を自然の皮付丸太で支える吹き放しの小屋。片隅に雪隠(=せっちんべんじょ)が備え付けられており、ここで一息ついて茶室松琴亭へと向かう腰掛小屋である。腰掛の前には自然石と切り石を巧みに配し延段が長く延び、両端には二重桝形の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。俗に「行の飛石」と称されている。こんな腰掛小屋でも一部の隙もなく気が配されている。
しばし休息の後、飛び石を踏みながら進むといきなり視界が開け、海をも思わせる「州浜」(すはま)に出る。黒く扁平な石が敷き詰められ、それが池に突き出ており、その先端に灯籠が据えられている。岬の灯台に見立てた見事な演出である。その先の中島と石橋のつながりは、日本三景の一つ「天の橋立」を表現したものと言われている。その州浜に一羽の小鳥、セキレイであろうが、なぜか浜千鳥に見えたのは私の幻覚であろうか。
潮騒にも似た風の音に心地好さを覚えながら歩を進めると「松琴亭」(しょうきんてい)に着く。桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室で、後陽成天皇の宸筆「松琴」の額が掛けられている。銘は拾遺集巻八雑上の「琴の音に峯の松風通ふらし…」の句から採られている。にじり口の内側は三畳台目(だいめ=茶室用の畳)の本格的な茶室で、北側廊下の竈(くど=釜戸)構えと一つの間の床や襖の青と白の一松模様はまことに斬新かつ粋な構造である。
池畔の飛石の回廊をゆるりと歩くと小高い峠の茶屋「賞花亭」(しょうかてい)に着く。苑内で最も高い位置にあり、池からの標高は約7㍍だという。北に向かって建てられた避暑用の小亭で、茅葺切妻屋根に皮付の柱を用いている。南側の竹の連子窓(れんじまど)を通して見る景色は深山幽邃(しんざんゆうすい)の趣をかもし出している。
一息落ち着くと、神輿造の持仏堂「園林堂」(おんりんどう)を横手に見ながら小橋を渡ると紅梅の香りが漂っている。2月も初旬だが、暖冬のためか梅の花も早々と咲き水面にその色香を映していた。その先の左に折れると、切り石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した田舎屋風の茶室「笑意軒」(しょういけん)がある。先ず目に飛込んだのが腰高障子の上に横並びに6つ配置されている竹作りの丸窓、良く見るとその1つひとつの作りが異なっており、説明を聞くと、四季折々の月の変化を表しているという。なんとも優雅で心憎い趣向である。「笑意軒」の篇額は曼殊院良恕法親王(まんじゅいんりょうじょしんのう)の筆だという。内部は襖で仕切られているのだが、天井は1つのつながりを持っていた。池のほとりには船着場があり三光灯籠が置かれてある。
次に古書院、中書院、楽器の間、新御殿の建物を見ながら最後の見物先、「月波楼」(げっぱろう)に向かう。書院四建造物は拝観できず、古書院には池に面して月見台が設けられている。四棟とも高床式で造られており、これは近くに流れる桂川の洪水から護るためだという。新御殿には、棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた違い棚があり、修学院離宮の「霞棚」、三宝院の「醍醐棚」とともに天下の三棚と称されいる。
「月波楼」は、正面中央を広い土間にした開放的な空間とし、月を眺めるに格好の茶室である。右手の窓が広く開かれ、池を前景にして「松琴亭」、天の橋立が深遠に見え、黄金分割を取り入れた見事な遠近構造美である。そして面白いのが化粧屋根裏の竹の垂木が舟底のような形に組んである。舟から月見という趣向なのであろうか。
早春の梅の香りが漂う回遊式庭園をゆっくりと1時間ほど見聞し、門を出ると不思議な余韻が身体中を包みこんでいた。それはまるでモーツァルトの名曲の調べに酔いしれた感情に似て、気品と優雅なハーモニーの魔術にかけられたかのようでもあった・・・。
所在地:京都市西京区桂御園町
交通:JR京都駅より市バス33系統で40分、桂離宮前より徒歩7分、又は
阪急京都線桂駅より徒歩20分。
後水尾天皇を迎えるため智忠親王が造ったというふ2本の太い皮付丸太(・あべまき)を柱にした茅葺屋根の御幸門(家仁親王が再建)をくぐると、そこから王朝絵巻の世界に誘われる。
桂離宮はドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938年)が絶賛し、グロピウスに「限りなき簡素とつりあいの故に最も近代的」と言わせたほど、建築と庭園の調和が優れている。桂川のほとりに、八条宮智仁、智忠親王父子によって元和元年(1615)年より寛文2年(1662)年にかけて数回の増築の末、現在の姿に完成され「桂山荘」と称していたが、明治16年(1883)以降、「桂離宮」と改称された。
桂離宮の創建者・八条宮智仁親王の妃はキリシタン大名の娘であったことからか、西洋建築様式が取り入れられたのではないかと言われている。その特徴的なものとして御輿寄前庭がある。この空間は石庭で名高い「竜安寺」にみるように縦横の比率が黄金分割比となっており、安定感と奥行きを感じる最も美しい構造である。そして御幸門の眺め、土橋を視点とした御幸道、松の枝を引き立たせた亀甲岬、中秋の観月に作られた月見台、計数的に刈り込まれた生垣など、幾何学的な印象を強くうけるのも、西洋知識があったものと考えられている。また、桂離宮が建設された17世紀のヨーローッパでは、遠近法や眺望
を重んじた庭園が流行していたこともその要因と言われている。
敷石を踏みながら苑内に入ると、直角に折れた小道が開けたとき、映画のスクリーンに映し出されるかのように、次々と異なった景観が目に飛込んでくる。利休好みとは異なった市松模様の襖を配する茶室「松琴亭」から日本三景の1つ、天橋立を模した石橋と島が優美に眺望できる。さらに足を進め築山を登ると「賞花亭」(しょうかてい)にたどり着く。山里にぽつりと佇むかのような茶室は、ホットさせてくれる癒しの休み処である。もう一つの茶室「笑意軒」(しょういけん)は、船着場をそなえており、ふと、優雅な舟遊びの光景が脳裏に浮かんだ。
笑意軒から離宮の御殿が居並ぶメインへと歩を運ぶ。「古書院」「中書院」「楽器の間」「新御殿」などが建ち並び、それが雁の群れが飛翔する形に似ているところから雁行形式と称されている。
待合処を出て小橋を渡り御幸道を紅葉山を左手に眺めながら最初に案内されのが「外腰掛」(そとこしかけ)の休処である。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を自然の皮付丸太で支える吹き放しの小屋。片隅に雪隠(=せっちんべんじょ)が備え付けられており、ここで一息ついて茶室松琴亭へと向かう腰掛小屋である。腰掛の前には自然石と切り石を巧みに配し延段が長く延び、両端には二重桝形の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。俗に「行の飛石」と称されている。こんな腰掛小屋でも一部の隙もなく気が配されている。
しばし休息の後、飛び石を踏みながら進むといきなり視界が開け、海をも思わせる「州浜」(すはま)に出る。黒く扁平な石が敷き詰められ、それが池に突き出ており、その先端に灯籠が据えられている。岬の灯台に見立てた見事な演出である。その先の中島と石橋のつながりは、日本三景の一つ「天の橋立」を表現したものと言われている。その州浜に一羽の小鳥、セキレイであろうが、なぜか浜千鳥に見えたのは私の幻覚であろうか。
潮騒にも似た風の音に心地好さを覚えながら歩を進めると「松琴亭」(しょうきんてい)に着く。桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室で、後陽成天皇の宸筆「松琴」の額が掛けられている。銘は拾遺集巻八雑上の「琴の音に峯の松風通ふらし…」の句から採られている。にじり口の内側は三畳台目(だいめ=茶室用の畳)の本格的な茶室で、北側廊下の竈(くど=釜戸)構えと一つの間の床や襖の青と白の一松模様はまことに斬新かつ粋な構造である。
池畔の飛石の回廊をゆるりと歩くと小高い峠の茶屋「賞花亭」(しょうかてい)に着く。苑内で最も高い位置にあり、池からの標高は約7㍍だという。北に向かって建てられた避暑用の小亭で、茅葺切妻屋根に皮付の柱を用いている。南側の竹の連子窓(れんじまど)を通して見る景色は深山幽邃(しんざんゆうすい)の趣をかもし出している。
一息落ち着くと、神輿造の持仏堂「園林堂」(おんりんどう)を横手に見ながら小橋を渡ると紅梅の香りが漂っている。2月も初旬だが、暖冬のためか梅の花も早々と咲き水面にその色香を映していた。その先の左に折れると、切り石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した田舎屋風の茶室「笑意軒」(しょういけん)がある。先ず目に飛込んだのが腰高障子の上に横並びに6つ配置されている竹作りの丸窓、良く見るとその1つひとつの作りが異なっており、説明を聞くと、四季折々の月の変化を表しているという。なんとも優雅で心憎い趣向である。「笑意軒」の篇額は曼殊院良恕法親王(まんじゅいんりょうじょしんのう)の筆だという。内部は襖で仕切られているのだが、天井は1つのつながりを持っていた。池のほとりには船着場があり三光灯籠が置かれてある。
次に古書院、中書院、楽器の間、新御殿の建物を見ながら最後の見物先、「月波楼」(げっぱろう)に向かう。書院四建造物は拝観できず、古書院には池に面して月見台が設けられている。四棟とも高床式で造られており、これは近くに流れる桂川の洪水から護るためだという。新御殿には、棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた違い棚があり、修学院離宮の「霞棚」、三宝院の「醍醐棚」とともに天下の三棚と称されいる。
「月波楼」は、正面中央を広い土間にした開放的な空間とし、月を眺めるに格好の茶室である。右手の窓が広く開かれ、池を前景にして「松琴亭」、天の橋立が深遠に見え、黄金分割を取り入れた見事な遠近構造美である。そして面白いのが化粧屋根裏の竹の垂木が舟底のような形に組んである。舟から月見という趣向なのであろうか。
早春の梅の香りが漂う回遊式庭園をゆっくりと1時間ほど見聞し、門を出ると不思議な余韻が身体中を包みこんでいた。それはまるでモーツァルトの名曲の調べに酔いしれた感情に似て、気品と優雅なハーモニーの魔術にかけられたかのようでもあった・・・。
所在地:京都市西京区桂御園町
交通:JR京都駅より市バス33系統で40分、桂離宮前より徒歩7分、又は
阪急京都線桂駅より徒歩20分。