東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

テッサ・モーリス-スズキ,「まえがき」,2006

2007-03-20 11:09:22 | 20世紀;日本からの人々
『岩波講座 アジア・太平洋戦争3 動員・抵抗・翼賛』,2006 所収

〈だが同時に、戦時動員体制は多くの社会的・文化的な革新の源泉でもあり、長期間に及ぶ、しかも否定的とばかりは言いがたい影響ももたらした。この戦争を主導した国々―連合国と枢軸国―の間の政治体制の大きな違いにもかかわらず、総動員の「生産的な」側面については、双方の側に境界線を越えたある種の共通点がみれれた。(中略)

〈たとえば、保健や福祉に対する新たな関心は、戦前・戦後のアメリカのニューディール政策やイギリスの福祉社会政策にとどまらず、日本の一部の戦時政策にも見てとれる。日本政府は、多くのヨーロッパ諸国に比べて、社会政策の推進には慎重であり続けたが、戦時における、とりわけ兵士とその家族の生活水準を維持するための措置の面では、福祉政策の拡大を図った。〉

〈国民国家間の戦争は次第に、(一方の)豊かで強力な国家同士の連合と、(他方の)貧しく孤立した、「ならず者国家」群との間の著しく非対称な紛争の形をとるようになった。(中略)〉

〈こうした時代にあって、武力紛争はますます予測不能なものとなり、かつてより頻発するようになっている。さらに、「戦争」と「犯罪」の違い、「軍事」行動と「警察」行動の違いも見極めにくくなっている。総力戦のための「国民」の生産的・破壊的エネルギーの大量動員に向けた諸政策は、警備と監視に重点を置く政策にとって替わられるようになり、各個人は次第に、内部の目に見えない敵の脅威に対する監視の役割を担わされるようになっている。(中略)〉

うーむ。テッサ・モーリス-スズキの要点をついた指摘はわかりやすい。
わたしの関心も上記のまとめかたにつきる。
総動員体制の否定的側面(思想統制、奴隷的な動員、隣組など窮屈な世間を強化する政策)ばかりでなく、健全娯楽、スポーツ、男女平等、衛生、母子保健、などなど戦後の世界で肯定的にとらえられる制度の発展としての戦時体制に興味があるのだ。

アメリカの歴史の転換点としてもニューディールに関心がある。

ダム建設、マラリヤ対策などの衛生保健、失業対策、など後々の東アジア・東南アジアに強い影響を持つ政策の基点である。

日本国憲法もニューディールのブレインの影響が大きい。
(かといって、それが悪いとかいいとかいうわけではない。日本国憲法を見直すまえにダム建設を見直してくれよ)

ダイニッポンの北進と南進、ナチス党の国家社会主義、USAのニューディールは、1930年代の状況を打開するための、新しい思潮、新しい政策であったわけだ。

長南実 訳・川田順造 注,「アズララ ギネー発見征服誌 」,1967

2007-03-19 23:44:16 | 翻訳史料をよむ
『大航海時代叢書 第2巻 西アフリカ航海の記録』,岩波書店,1967 所収。

原著者のアズララはポルトガル王室のトーレ・ド・トンボ古文書館の館長。
この記録は、クロニカ、つまり正史、エンリケ親王の功績をたたえるために記された公式の記録である。
コロン(コロンブス)やガマより50年ほど前、ポルトガル王室の生涯独身の親王エンリケによる西アフリカ航路開拓を記す。

と、いうわけだが、この、王室所属の古文書館の年代記作者というのは、王室内の立場でいえば、道化や歌姫のようなものか?
王や王子の御機嫌をうかがい、その事績を顕彰する芸人のようなものじゃないか。

その卑屈すぎる文体が読みにくいうえに、ローマ帝国の賢人や弁論家のことばを引用し、アリストテレスなどギリシャ哲学をなまかじりに披露し、聖書やトマス・アクィナスを引き出して博学ぶりをひけらかす。それが(訳者が苦労して訂正しているように)不正確で間違っている。

とはいうものの、このポルトガルの年代記、読むべき内容も多い。

全体として、ヨーロッパ勢として、はじめてアフリカ西北部に航海し、捕虜をつかまえ、本国にもちかえり、奴隷交易の端緒となる事績が語られる。

むむ、なんて、非人間的な、残虐な、と非難する前にすこし考えてみよう。
まず、これは、ヨーロッパ勢が、やっと奴隷を捕まえられるようになった時代である。少し前まで、いや、この後もヨーロッパ人はずっと奴隷にされる側であったのだ。
そして、このアズララの筆致には、なんのやましさもとりつくろいもない。
強いほうが奴隷を捕まえ、弱いほうが奴隷になる、というのは、あったりまえの常識で、なんら弁解する必要はない。
それどころか、奴隷を所有することは、名誉なことであり、高貴な身分の証しである。

のちに新大陸で問題になるような、虐待・不衛生・疫病の問題はまだ小さい。
(ちなみに、この時代、この西アフリカ方面は2か月程度の航海なので、壊血病はおきない。ポルトガルの船員の消耗も少ない。)

それにもかかわらず、作者アズララは、家族がばらばらに売買される様子には同情している。
そしてさらに、それにもかかわらず、異教徒がキリスト教に改宗したことを、本人たちにとってこの上なく幸福なこととしている。

という、大規模、企業的な奴隷交易の前のプレ・ヒストリーである。

注目してほしいのは、本記録が書かれた年。
1453年だ。

これが、どんな年かというと、コンスタンティノープル陥落の年である。
つまり、これからがオスマン帝国の最盛期であって、まだまだヨーロッパの弱い立場は続くのである。そんな時代だ。
そもそも、このアフリカ大陸西海岸航路開発というのは、オスマン勢力に押さえられた東地中海を迂回するための交易路開発である。
コロンもガマもインドへの道を探っていたのである。

そして、1453年というのは、グーテンベルクによる通称「42行聖書」が印刷された年である。
つまり、本書「ギネー発見征服誌」というのは、まだ大量印刷が想像できない状態の時に書かれたもの。
書物というのが、羊皮紙に手書で記す、という時代なのだ。
当然、人びとのコミュニケイションは、口頭が中心である。
クロニスタであるアズララも、まず、現場を見た人物と会って話を聞くというのが仕事であっただろう。
本書に記された事件、航海、功績、失敗は、すべて、口頭で報告されたもの、と考えられる。

注を担当している川田順造の著作を通じて、われわれは、この記録の舞台となった西アフリカが無文字社会であり、オーラル・コミュニケイションによる文化が発達した地域である、ということを知っている。
しかし、西アフリカと違う意味であり、違うコンテキストであるが、ある意味この時代のヨーロッパ人も書物のない世界に生きていたのだ。
著者アズララがむやみやたらに引用する古典の知識も、書物のない世界だからこそ価値を持ったトンデモ知識だったのだろう。

*****

そして、辺境のマイナーな事件であるが、この1453年というのは、英仏百年戦争が終わった年である。
てことは、この後に、ジャンヌ・ダルクの魔女裁判などがあるわけだ。
魔女や怪物が生きていた時代なのである。

本記録の最初の重大事件、ボハドル岬の先までの航海、というのも、その先は焦熱地獄のような不毛の地で怪物が住むと怖れられた地に到達したからこそ、偉業であったのだ。

あるいは、アズララは探検事業を推進したエンリケ親王を称える理由として、親王の生まれた時の十二宮の位置、惑星の配置をあげている。
つまり、占星術によって、吉兆な生まれだから、エンリケ親王はすばらしい御方である、と言っているのだ。
とりようによっては不敬であるし、当時のカトリック界もそろそろ占星術を異端の術とする傾向があったのだが、それにもかかわらず、占星術に解釈を求める世界観は確固としてあったのだ。

*****

他の巻と同様、本書の場合も、訳者・注担当者・協力者が少ない書物を利用して、解説や注を作っている。
おどろいたのは、この1967年の段階で、エリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』が参考にされているのだ。
ええ、そんなの普通でしょ、と今だったら言えるのだが、この原書は英語圏では、もっとも忌み嫌われ禁書扱いされていた本だ。
フランスのアナール学派が持上げて、世界的に支持されるようになったわけだが、本書の訳者・監修者たちは、独自でこの本を捜しあてたのではないでしょうか。(もし、ちがっていたら、すみません。すでに各方面で注目されていたのか?)

中村保,『深い浸食の国』,山と渓谷社,2000

2007-03-19 10:25:33 | 書誌データのみメモ
『ヒマラヤの東 雲南・四川、東南チベット、ミャンマー北部の山と谷 』1996が第一作。
『チベットのアルプス』2005が第三作、
本書は著者の東チベット・南西中国、つまり長江、メコン、サルウィン、イラワジ、ブラマプトラ―源流域踏査シリーズの第2作。
正確な地図、正確な記録。

豊島与志雄,渡辺一夫,佐藤正彰,岡部正孝 訳,『千夜一夜物語』

2007-03-18 11:13:52 | フィクション・ファンタジー
敬語のことで思い出したのがこれ。
フランス語のマルドリュス版の完訳。

もちろん、わたしは、一部分しか読んでいないが、現代日本語の敬語の勉強になるぞ。やっぱり、スレイヴ&マスターの会話として、敬語を勉強しないとね。

当然ながら、アラビア語からの訳である、
前嶋信次・池田修 訳,『アラビアン・ナイト』,平凡社東洋文庫
のほうが、訳注も話も豊かである。
そうではあるが、原典訳の東洋文庫、老眼の年寄りにはツライ。
なんとか、改版して、平凡社ライブラリーあたりで出してもらえないだろうか。

ちなみに、前嶋信次は個人的にはイブン・バットゥータの旅行記のほうを翻訳したかったらしい。
もし、前嶋信次が、バットゥータを訳していたら、『アラビアン・ナイト』の完訳はなかったのだろうか……。
あるいは、家島彦一が担当することなく、『大旅行記』が未完成になってしまったりして……。

ええと、マルドリュス版の話にもどる。
こっちは、アラビア世界、インド洋世界の物語としてよりも、フランス人の憧れを盛り込んだ文学として、評価され、批判されています。
前嶋信次なども、原典研究を真摯に行ったガランは評価するものの、マルドリュスについては、否定的な見解である。

でもまあ、その点を無視し(乱暴か?)フランス文学の日本語訳としてたのしめば、読みやすいものがたりである。
ぎくしゃくした会話文の原典訳にくらべ、こっちが優雅でおくゆかしい。
しかし、高校生くらいの、頭の中がアレのことばっかり、という年代だと、この内容の透明感に肩透かしをくらうんではなかろうか?
エロティックな物語なんていわれるが、どこがエロティックかよ!とイライラして、途中で投げ捨てることになると思う。
あまりそっちの方面に期待しないで、美しい日本語を勉強するつもりで読みなさい。
なんて、わかいもんには無理だよな。

高木卓,『安南ものがたり』,1945

2007-03-10 22:53:50 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
少年小説とジェンダー問題第3弾。飽きてきたので、これでおわりにする。
根本正義 編,『少年小説大系 10 戦時下少年小説集』,三一書房,1990.収録

作者に関しては後で。まず内容。

寛永期の海禁令の前に安南(作品発表当時の仏領インドシナ、現在のベトナム中部)に渡った日本人商人、角屋七郎兵衛のものがたり。
小説ではあるが、史実のわくをがっちりはめており、作者の創作はおもに会話部分とかんがえてよいだろう。

そこで伝えられる作者のメッセージとは……
(以下、正確な引用ではなく、わたしの要約です。)

〈異国に渡ったならば、日本人は多くの外国人の中のひとつだ。まわりと協調し、新参者の不利な立場は、じっと耐えていかねばならない。〉
〈故郷に錦を飾るなどという考えは捨てるべきだ。外国にでかけてそこで商売をするのならば、その土地に骨をうずめようではないか〉
〈士農工商などと武士がえばっているのが、どこでも通用するものではない。商人こそ日本人としての誇りをもって外国に模範を示そうではないか。〉
〈日本人同士で争うのは狭い了見だ。日本人が協力し、異国の地で生きていこうではないか。〉
〈家庭のなかでは夫婦平等、男が上などというのは唐風の悪習であり、女が上というのも南蛮風の陋習である。〉

まるで、敗戦を予期し、戦後の生きかたを提案するような内容である。
1945年4月発行、(と、いっても実際の発行月かどうか不明、さらにどの程度印刷されたのだろう?)、日本の主要都市は空襲で崩壊し、ベルリン陥落直前の時期に発行された、こども向けの図書(書き下ろし)である。

ひょっとして、敗戦になれば、外地にいる兵隊や民間人は、その地で拘束され、日本内地に帰還できない、と予想されたのだろうか?
いずれにしろ、軍事力の後ろ盾なしに生きてゆかなければならない日本人の姿を予想したような内容である。

うがったみかたをすると、戦後体制へ向けたエクスキューズとも読みとれる。が、この段階で、(将来の民主主義体制にとりいるために)いかにも平和的なものがたりを執筆した、という可能性はほとんど無いと思う。
そうではなく、作者の正直な世界観であり、さらに重要なことに、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の理想に、字句上は、忠実なのである。

本作品のなかで、おそらく、もっとも創作の度合いが大きいのは、七郎兵衛のベトナムでの家族だろう。
グエン氏の王女を娶り、息子をひとり授かったという設定になっている。
しかし、一夫一婦制、嫡男相続という設定は、この時代、この世界での慣習とは思われない。

外国にあっても日本の美風を失わず、子孫に日本人男子の血を伝える、というフィクションは、大東亜共栄圏思想から戦後の民法、出入国管理法まで貫くイデオロギーだろう。

あと、気になる点は、息子のなまえを安南風にしたという設定(史料上、七郎兵衛の息子のなまえは安南風になっている。)。
まるで、朝鮮人に対する改名を正当化するような話であるが、作者にそんな深い意図はなかったと思う。
史料との統合性を維持しただけか。
あるいは、外国で暮らすのなら、なまえも外国風にしようじゃないか、という単純な「郷にはいらば郷にしたがえ」だろうか?

作者をウェブでしらべると同姓同名が多く混乱する。
本書の作者略歴によれば、芥川賞を辞退したのがこの人、幸田露伴の甥がこの人、ドイツ文学者でワーグナーやベートーベンに関する著作もこの人物である。
こどもむけの歴史物語、伝記を戦後多数出版している。

岩波文庫のワーグナー『さすらひのオランダ人』を訳しているのも、この高木卓ですね。
(このオペラのストーリーは、奴隷商人の女性観を賞賛したもので、女性に対する貞節を強要するという、めちゃくちゃな設定の話であるが、本作品『安南ものがたり』も、未亡人となった元妻は尼寺にはいる、という設定なんですね。史料に即した設定なのか?)

押川春浪(しゅんろう),『海底軍艦』,1900

2007-03-08 23:30:14 | フィクション・ファンタジー
伊藤秀雄 編,『少年小説大系 第2巻 押川春浪集』,三一書房,1987.所収を読む。
初版書名『海島冒険奇譚 海底軍艦』

作者の処女作で、書きたいことをありったけぶちこんだ作品になっている。

豪華客船の旅、インド洋の海賊、漂流、猛獣の襲来、謎の日本海軍部隊、新兵器、密林移動戦車、水素気球、野球、琵琶、ナショナリズム、などなど作者の好きなことを脈絡なく取り入れたかんじ。
しかし、読ませる。
美文調というか講談調というべきか、声に出して読みたいような文体で、後のまのびした小国民文学や児童文学とは違うリズムがある。

中心となる新兵器、海底軍艦であるが、後に映画化されたようなイメージではない。潜水震度100フィートなんていうレベルである。(ちなみに、なんでフィートだのヤードだのを使うのだ!作者はこんな単位に慣れていたのか?)
鋭利な尖頭で敵艦の装甲をぶちやぶる、なんてのが新兵器の攻撃方法なのである。のんきな時代である。

ナショナリズムにしても、正々堂々、弱小国家が既存の列強に向かうという意気込みであって、暗い屈折した感情はぜんぜんない。

ちなみに、このシリーズは全6作だそうで、この第1作では、まだフィリピン独立運動には関係していない。(映画化で登場するムー大陸なんかは、小説で登場するのだろうか?)

前々回に紹介した南洋一郎は、克己苦学タイプで、自分の意志でクリスチャンになった人物。
一方、この押川春浪は、日本キリスト教の草分け、元老の家庭に生まれ、キリスト教的なものに反抗してバンカラ風・豪傑風の生きかたに憧れた人物であるようだ。
とはいうものの、野球・スポーツ・狩猟など西洋文化に憧れ、素直にナショナリズムを信奉するあたり、クリスチャン的素養十分な人物である。

それで、もっとも気になる点。
中心となる少年、日出男であるが、事件の進行、物語の流れにほとんど関与しない。
清楚でりりしく、髪が房々とし、色が白い、セーラー服の美少年。
おまけにしゃべる言葉がおんなことばなのである。

これは、近代日本語の歴史に詳しい方にとっては常識なんだろうか?
「ごぞんじありません?近代的ジェンダーが確立するまえの会話体って、こんなものよ。」といわれそうだ。
それとも、凛々しい男の子の会話体が、女子の話し言葉に取り入れられ、それがさらに文章における女子の会話体になったのだろうか?

う~む。
武侠の世界、豪傑の生きかたを描いた、押川春浪の男子とは、こんなことばでしゃべっていたのか??
少年小説を論じると、ジェンダー論になってしまうが、わたしはとくにこの方面に興味があるわけでもないし、もちろんフェミニストでもありませんので。念の為。

南洋一郎,『緑の無人島』,1937

2007-03-07 16:05:24 | フィクション・ファンタジー
二上洋一 編,『少年小説大系 第6巻 南洋一郎・池田宣政集』,三一書房,1988.収録を読む。
この少年小説大系は、不適切な語句を変更し、かな遣い・漢字を新字・新かなに改めている。(この点、いろいろ論議をよんでいるようだが、今はこだわらない。)

内容。

無人島漂流、サバイバル、海賊の隠した宝、野蛮人との交友、日本国の領有(!)と、なんでもありの冒険小説。
超有名作なので、あらすじ、バックグラウンド、書誌事項は各自検索してください。
1937年というのは『少年倶楽部』連載の年。

とても良心的に調べてある。
西オーストラリア州・ブルームからシンガポールへ向かう途中のフローレス海の火山島という設定。
ココヤシ、ラタン、バビルーサ、コモドドラゴン(もちろん、凶暴な肉食竜という設定はフィクション)、サトウヤシ、パンノミ、キナノキ、カワセミ、ツカツクリ、シャマング(テナガザル)、など動植物の描写・説明がある。キナノキが南米原産である、という知識も紹介される。(パンノミも南太平洋原産だったよね。)

ウォーレスの『マレー諸島』を参考にしているようで、内田嘉吉 訳『南洋』が1931年に刊行されているから、参照可能だったろう。(もっとも研究熱心な南洋一郎は、英語版で読んでいたかもしれない、そういう詮索は研究者にまかせる。)

竹釘を打って椰子の木に登る方法、トビガエルをつかまえ、吸盤で崖下のものをぺったりくっつけて持上げるというアイディア、地上根がからみあって空洞ができ、中に人が隠れることができるというアイディア、ここいらへんは、みんな『マレー諸島』をヒントにしている、と思われる。

こまかいつっこみをいれれば、物語の設定の3月から9月は、乾季であって雨は少ないはずであるが、まあ、そこまでこだわることはないでしょう。

少年向け冒険小説として、こどもが銃器や弓矢の扱いを知っていること、英語を話し、多言語の環境で生活していることなど、基本的設定に無理がない。
こんな設定が可能になったのが、当時の日本人の海外雄飛の成果でしょう。(一家は真珠採取の町ブルームで日本人ダイバー相手の商売をしていた、という設定)

しかし、現代の読者にとってキツイのは、あまりにも濃厚な家族の描写ではないでしょうか。
6人家族の母と妹が、あまりにも弱弱しいのも、フェミニストでなくともしらける。
もっと強い母、強い娘が登場してもよさそうなもんである。

というように、自然描写、設定、ストーリーともみごとであるが、家族の心情がじゃまでうるさい。
戦後少年向けの物語が衰退したのも、このへんが大きな理由ではないか。

ええと、野蛮人の描き方、白人の描き方、マレー人雇い人の描き方、日本の領土にするという仰天の設定(いくらなんでもここいらは、蘭領東インドではないでしょうか!)に関しては、今は、こだわらないことにしよう。というより、特にひどい点もないし、今日的な平等の視点もない。

それよりも気になるのは、神に祈るという行為である。
作者、南洋一郎はクリスチャンで、神というのもキリスト教的な神であるはずだが、物語では「日本の神」に祈る、という表現になっている。毎朝日本に向かって遥拝する習慣もある!
当時の一般的な表現で気にすることはないのか……?