東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

大谷正彦 訳,『ハッタ回想録』,めこん,1993 その2

2006-08-17 22:51:51 | コスモポリス
中盤、スカルノと非協力主義をめぐる論争など、1930年代の闘争経緯ちょっと退屈。(状況を知っている関係者に対し、著者が死ぬ前に言っておきたい事情もあったのだろう。)

タナ・メラへの流刑あたりから再びおもしろくなる。
この流刑がじつにのんびりとした平和な日々で、政治犯の流刑というのはこんなものだったのか!?
流刑地でも実直なハッタは教育活動、執筆を続けている(これでは流刑の意味がないのではないか?)
タナ・メラ~バンダ・ネイラ~スカブミと移送され、日本軍が上陸。ハッタは他の民族主義者とともに釈放される。

この日本軍時代、意外と内容が少ない。
君子危うきに近づかずの精神か、後に日本協力者と揶揄攻撃されたためか、日本側との接触は、最小限のことしか描かれていない。
日本軍の動向、経済混乱についての記述もほとんどなし。
やはりこの部分、何かに遠慮して書いているのか?

さて、1947年オランダは反撃を開始する。
反撃というより、耄碌した女王のいうことをきけない土人の子を懲らしめるという感じか。(←ハッタ氏は、こんな下品な表現をしません。)敗戦国オランダの女王様は人間宣言をしなかったようだ。

この混乱した時期、共和国政府(つまり本書のハッタやスカルノ側)とインドネシア連邦勢力(オランダを中心として連邦制にし、インドネシア共和国もその一部とする、せいぜい自治領程度とする)、そのほか共産主義者がいて、元の植民地官僚派がいるという混乱した状態。
UKの戦後処理部隊がいて、日本軍が武装解除されてたり、されてなかったり、民間人捕虜が解放されていたり、されていなかったり、という状態。(ここいらへんの混乱は本書では書ききれないくらい複雑。)
こうした混乱が一応おさまると、オランダが軍備を整えてやってくるわけだ。(ナチスも、もっと完全に叩いてくれればよかったのに、なにをやっていたのだ!)

この時期、幸か不幸か、イニシアティブを握っていたのはアメリカ合衆国である。
悔しいけれど独立勢力各派でもないし、オランダでもないし、まして日本軍の影響でもないし、世界各地の戦後処理でいそがしいUKでもない。
そしてこの時、インドネシア各地・各層の勢力をまとめ、海外のパワーの協力・支援を工作したのが、本書の著者ハッタなのだ(と、本人の主張ばかり信用するまとめかたになってしまうが、大筋では、こういうことです)。

ハッタのスマトラ遊説(第一次武力衝突の前の1947年5月から)、ネルーとガンジーとの秘密会談は、国内・国外の根回しだった、というわけですね。
この部分と、第二次武力衝突の間のスマトラでの調停、オランダによる拘束、オランダの屈服の部分がおもしろい。
地図がのってないのでわかりずらいが、まあ、わたしの場合はでっかい縮尺のスマトラ地図があるので、ムアラ・シポンギ(西スマトラ州と北スマトラ州の境の村)とかムントク(バンカ島の西海岸近くの村)ぐらいは位置をたしかめられる。
各地をとびまわり、説得し、演説し、歓談する民族主義者がハッタである。
第二次武力衝突では、西スマトラの臨時政府へ共和国政府の権力を委譲して、ジョグジャ陥落という事態まですすんだんですね。

以上の大略を知るため
web草思 - http://web.soshisha.com/ の近藤紀子『オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立』を参考にしました。
草思社のサイトは太っ腹で、こんな文を無料で提供しています。

近藤紀子さんによれば、国連の安全保障理事会にあげられた最初の案件が、このインドネシア共和国とオランダ軍の武力衝突だったそうです。(オランダ側は当然、これは国内問題で、国連の関与外の問題だと主張した。やれやれ……)
しかし、結局、問題を解決したのは、アメリカ合衆国のマーシャル・プラン援助条件であるようだ。
援助を受けているオランダが、これ以上トラブルを増やすな、というアメリカの外交方針である。
戦後の混乱の中で共産勢力がどんどん勢力を延ばしていた時代である。
共産勢力阻止のため、ヨーロッパへの援助があったのだが、蒙昧なオランダの意地のために、太平洋地域での共産圏の拡大になってはいかん、というのが、ヘゲモニーを掌握するアメリカの外交方針となった。
もはや、敗戦国オランダが極東・東南アジアででかい態度をとれる時代ではなくなった、というわけである。

1947年3月25日 リンガジャティ協定調印、ジャカルタのガンビル宮殿にて。
1948年1月17日 レンヴィル協定調印、アメリカ合衆国のレンヴィル号艦上にて。調印したのは、アミール・シャリフディン首相(インドネシア共和国)とR.アブドゥルカディル・ウィジョヨアトモジョ(オランダ代表)。
1949年8月23日から10月29日までハーグで円卓会議
1949年10月29日、インドネシア連邦共和国憲法がシェフェニンゲンで仮調印
1949年12月15日、中央インドネシア国民委員会は総会で円卓会議の成果を承認
1949年12月17日 アムステルダムでインドネシア連邦共和国に対し、オランダ王国の主権委譲儀式。
同日、ガンビル宮殿でオランダ王室高等弁務官ロフィンクから、スルタン・ハメンク・ブオノが代表するインドネシア連邦共和国政府にオランダ王国の主権委譲。

なお、Googleで、リンガジャティのスペルをしらべ検索してみたら、いきなりLinggadjati じゃない?といわれてしまった。
Linggajati と Linggadjati の二種類が流通しているようだ。
ローマ字検索でもそれほどヒットしない(600から700)が、インドネシア史年表は、以下のサイトがよいようだ。(とにかく日本語のサイトは信用するな、偏見はともかく、基本的事実や名称のまちがいが多い。英語のサイトも偏見いっぱいだけれども。)
まったく、こんな基本的な情報も日本語サイトではダメなのかよお。

www.gimonca.com/sejarah/
こまかい年月日とスペルが得られる。

アムステルダムにあるInternational Institute of Social History のサイト
www.iisg.nl/
膨大なサイト、まだよく見てないが使えますよ(大部分英語)。

大谷正彦 訳,『ハッタ回想録』,めこん,1993

2006-08-17 00:04:05 | コスモポリス
インドネシアばかりでなく、東南アジア全体をみわたしても、このハッタという人物ほど、冷静で謹厳な政治家は少ないようだ。
その生涯もあまりおもしろくなさそうで、まして80歳近くになって執筆した(原書1982年,インドネシア語)回想録であるから、こまかい事実は貴重かもしれないが、退屈な記述ばかりではないだろうかと読みはじめたのだが……。

意外とおもしろい。
というより、ロッテルダム留学までの十代が抜群におもしろい。

恵まれた裕福な環境に生まれた人物だ。
西スマトラ、ミナンカバウの中心地ブキティンギで1902年に生まれる。
父親は0歳のとき死亡。
しかし父なし子の悲哀や貧困はまったくない。
ミナンカバウでは母の兄弟姉妹がひとつの屋敷地に住み、母の再婚相手(つまりハッタ少年にとって義父)はパダンで別居している。
母方のオジ・オバ、実の父のオジ、義父、そしてそれぞれの配偶者、祖父、祖母がハッタ少年をあらゆる面で援助する。
実の姉のほか、異父妹が4人生まれる。姉妹もその配偶者もさまざまな面で援助する。

先日このブログで感想を書いたジョージ・オーウェルより1年前に生まれたハッタであるが、オーウェルのような屈辱感、どろどろした思い出は、いっさい書かれていない。(まあ、80歳ちかくで、引退した英雄ですから、あまりネガティブな思い出は省いたんだろうけれど)

美しいブキティンギ、にぎやかな市場、祖父や祖母の事業、やさしいオジ・オバが描かれる。
どんな旅行ガイドよりも鮮やかにブキティンギの様子が伝わってくる。(ええと、ブキティンギはスマトラ旅行の中心地で、アウトドア派にとっても、名所旧跡派にとっても、のんびり貧乏旅行派にとっても、スマトラの中心地である。日本の旅行ガイドではほとんど無視されていますが)

家族の支えの例として、

祖父は5歳のハッタを私立オランダ学校に入れた(国民学校は腕の長さで入学資格があるかどうか判断される)。叔父が勉強をたすける。

同時にイスラム塾でコーランの勉強をする。祖父のメッカ巡礼に同行するはずだったが、母や叔父が幼すぎると反対して、学校の勉強を続ける。

6歳から国民学校へ姉とともに入学。姉が遅れていた算数を教えてくれる(中東やヨーロッパでは、姉(女)が弟に算数を教えるなんて、めったにないことですよ!)。

11歳でパダンの第一オランダ人学校へ入学。(祖父の第二夫人のもとで生活!)

こうして例をあげていくと、教育ばっかりじゃないか、と思ってしまう。じっさい、教育熱心な土地である。
しかし、同時に商人気質の土地であり、ハッタの家族は、とくに商売と事業を各方面に展開している家だった。
祖父の事業は、馬を育て、郵便馬車の請負をする商売である。オジたちも商売をしている。

バタヴィアの商業科のある学校(大学進学資格が得られる、授業はもちろんオランダ語。ハッタはすでにフランス語や英語を習っている。)に入学。
バタヴィアでは、胡椒先物取引でもうけている叔父が世話してくれる。
この叔父が、ハッタにすすめるのがベラミーのユートピア小説『2000年』(邦訳題名『顧みれば』)と社会主義思想の歴史を扱ったH.P.Quackの本。先物取引なんて投機的商売をやっていて、空想的社会主義の書物をすすめるとは!

ハッタ自身の記述も生活費、学業費用、交通費など、こまかい金額が記されている。
パダンでサッカーチームをつくり、会計係をつとめるなんてのは、後の才能を予感させる。
ハッタが特別早熟だったのか、それとも当時の平均なのかしらないが、このころから、給与のいい郵便局員になろうとしたり、卒業後高給の船員職に魅かれたりと、金銭に関する話題が多い。

家族のすすめと協力もあり、ロッテルダムの商科大学に進学することになる。
ところが、前述の叔父が先物取引で失敗、学費の援助ができなくなる。ハッタは奨学金で学業を続けるが、この奨学金は後に利子をつけて返済している。

という具合に、派手さのない、きっちり金勘定をしながらの生活で、それでもヨーロッパ人の生活を身近に経験することになる。
第一次大戦後のドイツ、つまり賠償とインフレに苦しむドイツの生活も見る。
ドイツマルクのインフレで、オランダギルダーを持つハッタは、大量の書物を購入する。
後に日本にも短期間旅行するが、このドイツと日本の実生活をみることができたのも、後の革命家として収穫だったろう。
なんとなれば、ドイツと日本に簡単にやられたのがオランダであるわけだ。
(このほか、観光旅行みたいなものだが、オーストリア、フランス、北欧三国などを旅行している。)

本書には、オランダに対する屈辱感や恨みはまったくない。
その種の話題を避けたのか、もともとコンプレックスがないのか、学業優秀でこまかい悩みがなかったのか、どうだかわからないが、バイリンガルの屈折感や植民地住民の劣等感がまったくない。
オランダに対する闘いも冷静沈着で、やくたたずの過去の遺産は必ず消滅するという自信にあふれた態度である。(まあ、外向きの回顧録であるから、そのぶん差し引いて読まなければならないけれども)

そういう意味で、冷静沈着な政治家であるハッタよりも、派手好きなスカルノや、植民地下にある人間のこころの問題をあつかったプラムディヤ・アナンタ・トゥールや、パンキッシュなコミュニストであるタン・マラカのほうが、思想家として論じられることが多いのであろう。