東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

デーヴィッド・アーウィン著,鈴木杜幾子 訳,『岩波 世界の美術 新古典主義』,2001.

2006-05-20 23:25:10 | フィクション・ファンタジー
美術に興味がない人には、新古典主義なんて、曖昧模糊としたもので、ぴんとこないだろう。
美術に興味がある人には、新古典主義なんてもんは、まじめに語るに値しない、二流の傾向、過去の遺物という見方があるようだ。

それではいったい、この「新古典主義」というのは、なんなのだ?
作品としては、ダヴィッドの「皇帝夫妻の戴冠」、フラックスマン「提督ホレイショ・ネルソン子爵墓碑」、建築では「サント=ジュヌヴィエーヴ聖堂」(パリのパンテオンのこと)、あの種のものである。
観光地でハトの糞にまみれている彫像、サイズがでかい歴史の教科書の図版に使われるような絵画、絵はがきに載るような建築、やっぱりB級品ではないか……。

本書はこんなわたしのような無知な読者のため、まず、グランドツアーから話をすすめる。
ゲーテの『イタリア紀行』に描かれている、南国への旅、地中海世界への旅である。
本城 靖久,『グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行』,中公文庫 (中公新書 1983で読んだけど、同じ内容なのかな?)で描かれる、英国のジェントルマン階級、フランス貴族、ドイツなど北方の国の文人の旅行である。

イタリア、シチリア、ギリシャなどの見聞を通じ、アルプスの北側の人間に共通の憧れ、幻想が生まれる。
古代ギリシャ・ローマの文明をヨーロッパ人(あるいは人類全般?)の理想ととらえ、さらにエジプト・東洋のイメージをごちゃまぜにし、建築・彫刻から、絵画・デザインまで包括する傾向が生まれる。これが新古典主義である。
そうだったのか!

まず、建築。
ロバート・アダムのエディンバラ都市計画に代表されるような、古代風の建築。はやい話が大英博物館、さらにサンクトペテルブルクの建築群、ワシントンのホワイトハウス、あれが新古典主義である。
建物の外観ばかりでなく、内部の意匠、家具、壁紙、装飾品をみるともっとよくわかる。
ロバート・アダム作「ソールトラム・ハウスのダイニング・ルーム」なんかみると、ようするにヨーロッパ風だなあ、と感じる天井・窓・絨毯・椅子・テーブル・食器・壷や燭台、これが新古典主義なのだ(写真をみてもらわないとよくわからないなあ。)

次に歴史画。
ギリシャやローマの神話を題材にしたものから聖書の場面まで、いかにも劇的におおげさに写実的に描いた絵画、これがこの当時の様式である。

ここまでは、そんなもんかと思うが、次に庭園・風景画、そして大量生産品(といっても高価)のデザインが紹介される。

「ピクチャレスク」という語であらわされる古代の田園風景、荒れ果てた遺跡、嵐や火山の噴火、あれが「ピクチャレスク」である。
画家としては、ヴァランシエンヌ、クロード・ロラン、ターナーなど。
(実はこの「ピクチャレスク」という言葉、しばしば誤訳されるのだが、その話はおいておこう。)
そして、ギリシャ・ローマ・エジプトをごちゃまぜにし、さらに東洋風をまぜた庭園や邸宅建築が流行する。
庭園の代表はルソーの墓碑があるエルムノンヴィル。

発掘されたエトルリアの壷の複製(実はエトルリア製というのもまちがい)、田園や美神を描いた陶器がデザインされる。
ウェッジウッドやセーブルの工房でつくられたのが、この種のモチーフを描いた陶器である。
日常(といってもジェントルマンや貴族たちの)の家具・食器が新古典主義様式でつくられ、庭園や邸が古代の風景を再現するかのように設計される。
こうしたなかで、当時の人々は暮らしていたのである。

さらに、この様式は政治的イヴェント、国家的モニュメントにも用いられる。
博覧会・遊園地が盛況をきわめるのは、この時代より後だが、このころから、舞踏会・凱旋パレード・花火大会・博覧会の建築・装飾が新古典主義様式でつくられる。
ナポレオン、ネルソンなど国家的英雄の肖像画・彫像がつくられる。
こうして、新古典主義というのは、たいていの美術愛好家から嫌われる趣味の悪いおおげさなものとなった。

ヨーロッパでこの様式が支配的だったのは1750年から1830年と著者は規定しているが、その後も生きのびる。
「ワシントンからシドニーまで」新古典主義は広まってゆく。
というより、ヨーロッパ以外の新大陸、アジアの植民地のほうに、この様式は生きのびる道をみつけた。
新古典主義建築を見物するにはアジアでもOKだ。
カルカッタ政庁がこの代表であるそうだ。
本書のなかで唯一日本のものが紹介されているのが、なんと、横浜正金銀行神戸支店!現在、神戸市立博物館になっている。
そして(欧米の人たちにとって)呪いであるナチスのお墨付きになり、数々のくだらない美術品が生まれ、20世紀の美術が迫害される。こんな点も新古典主義が嫌われる要素であるようだ。

こう紹介しても、まだぴんとこない読者がいるだろう。

1750年から1830年というのは、ヨーロッパ史上の大事件が起きた時代である。なにが大事件なのか、いまいち理解できないが、とにかく大事件として扱われるフランス革命、アメリカ合衆国の独立、自由・平等の啓蒙思想、自由貿易論争、産業革命など、とにかく語句だけはよく知っていることが起きた時代である。

新古典主義というのは、この時代の思潮、国民国家の誕生と歩みをともにし、ヨーロッパがヨーロッパとして一体感を持つことができた時代の様式なのだ。
それは、もちろん、どこにもない、過去をつぎはぎした、幻想の風景である。
だいたい、この時代、ギリシャはオスマン帝国の一部であり、ほんとに保存状態のよい遺跡は現在のトルコ共和国やシリアにあったのだ。
そして、ギリシャ・ローマと聖書の世界をミックスしたような歴史画、現代を舞台に神話の英雄を描いたような戦争画や彫像というのも、幻想である。

ほかの芸術分野と重ねあわせてみると、この新古典主義の時代というのは、音楽でいえばロマン派、小説でいえばゴシック文学の時代とシンクロする。
つまり、ベートーベンの時代であり、『オトラント城奇譚』『ヴァテック』『フランケンシュタイン』の時代である。
大雑把にいえば、ヨーロッパらしきものを完成させようとしたのがこの時代であり、これ以後は、この完成したものに異議申し立てをし、破壊しようという時代になるわけだ。
といっても、著者の主張によれば、新古典主義的なものは19世紀20世紀を通じて生きのび、神話的モチーフ、古代的意匠は再生をくりかえしている。

最終章でハイラム・パワーズ作「ギリシャの女奴隷」(題名がすごい!)という大理石像が紹介されるている。
1844年作のこの彫像は、ヴァティカンのコレクションのウェヌスをモデルにしてつくられたものだそうだが、著者によれば、この作品は「ギリシャ独立戦争中にトルコ人に捕らえられ、奴隷市場に裸身を曝さざるをいなくなったキリスト教徒であるという物語を示唆するいくつかの細部を加えている」のだそうだ!!
脱ぎ捨てられた衣裳のあいだに十字架がみえ、鎖でつながれている。
彫刻家がアメリカ人であるという理由で民主主義の寓意であるとさえ考えられていた?!

すごいですね。
たんなるおねえちゃんのエッチなはだかにもったいぶった理屈をつけて見物し、背後にトルコ人の物語を暗示するとは!

巻末の年表がいい。(1750年から1830年まで)
ここだけでも図書館で立ち読みしてみよう。
七年戦争(1756~63)の時代からはじまる。この戦争中、カナダのフランス側にいたのがブーガンヴィル、ブリテン側にいたのがジェイムズ・クック。
アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオンの帝政、ウィーン会議と大項目の事件がいっぱいあるわけだが、その最中にセーブル製陶所がマリー・アントワネットのために食器セットを作り、ダヴィッドが「レカミエ夫人の肖像」を描き、エルギン卿が大理石コレクションを大英博物館に売却し、ミロのヴィーナスが発見されフランスが購入……そういう時代だったのです。

年表の末尾1830年にあったことは……
グランド・ツアーはしたけど、美術より火山や地質に興味があったチャールズ・ライエルが『地質学原理』出版。ダーウィンがビーグル号航海に持っていく書物ですね。
ギリシャ独立正式承認。
ギリシャに駐留したイングランド軍人とギリシャ女の間にこどもが生まれるなんてこともこの後のことですね。(ラフカディオ・ハーンとかね)

いつとは知らぬ過去に人間の理想をもとめ、桃源郷をイメージするという思潮を「古典主義」「新古典主義」と名づけるならば、19世紀にも20世紀にも脈々とうけつがれている。
ヨーロッパ人、アメリカ人は、この後も(おせっかいなことに)、日本列島に「日本アルプス」を発見し、桂離宮を発見してくれる。
あるいはインドシナの奥地でアンコール・ワットを発見するなどといった行為も同じような精神である。
一方で、東アジアや東南アジアの人々も、モニュメントをつくり、議事堂や銀行を建て、テーブルや椅子を家の中に配置し、ディナー用食器をあつらえ、ダンス・パーティをするようになる……というわけだ。
(そういえば、本書では、思潮や文学との関連は述べられているが、ファッションのことは言及されていないな。)

なお、作品や建築物を、いかにも以前から知っているように書きましたが、本書で初めて知ったものが大半です。実物はもちろんひとつも見たことありません。

あと、どうでもいいことだけど、本書の印刷はシンガポール。文字のインクが薄いグレイで読みにくいんですが……。

野坂勇作 文・絵,「海をこえてやってきた」,1999.

2006-05-20 00:15:24 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
野坂勇作 文・絵,「海をこえてやってきた」,『たくさんのふしぎ』1999年12月号(第177号),福音館書店.

作者は島根県松江市生まれで米子市在住。「たこのえ いかのえ」など、不透明アクリルの絵本あり。

ヌートリア、クローバー、ムラサキガイ、アオマツムシ、セイヨウタンポポについて日本にやってきた経緯、定着した原因を作者がしらべる。
つまり外来生物が日本に帰化した理由、どういうふうに日本にたどりついて、ひろまったかを書いた絵本。

たとえば、クローバー。
和名はシロツメクサという。
これはオランダ国が薩摩藩にギヤマンのつぼを献上したとき、つぼがこわれないように、箱に干し草をつめた。そのつめられた干し草の種をまいてた白い花がさいたので、シロツメクサという名前になったそうだ。
といっても、この時代のシロツメクサが日本中にひろまったわけではない。

シロツメクサは1875年、千葉県成田市三里塚の近くの牧場の牧草として輸入されたものがひろまったらしい。
では、なぜ、江戸時代の薩摩藩のシロツメクサはひろまらず、三里塚のクローバーはひろまったのか?
それは、クローバーが荒れた土地にひろがる植物であり、道路工事などで土が崩されたところに適応できる植物だったからだ。
江戸時代には帰化できなかったクローバーは、道路工事、土木工事でむきだしになった土地に適応してひろまったのだ。

そういえば、成田空港建設反対闘争は、最初は御料牧場を閉場するという不敬な政策に対する反対闘争だったんだっけ。
その御料牧場で輸入したのがクローバーだったのだ。(三里塚御料牧場でgoogleといろんなサイトがでます。)

ちょっと話がずれたけど、この絵本は、船のバラスト(船底の水)、飼育用の動物、野菜、園芸用の樹木とともに日本い移住・帰化した生物のことが描かれている。

いいとか、わるいとか判断せず、まず、どんなふうに日本にやってきたのか、そのおもしろい理由を読んでみよう。