東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

『大航海時代叢書 第1期 第1巻 航海の記録』,岩波書店,1965

2007-02-19 00:25:13 | 翻訳史料をよむ
スタニスワフ・レム最後の長編小説『大失敗』が翻訳刊行されたそうだ。
大森望さんによれば、『エデン』『砂漠の惑星』『ソラリス』の系列に属するファースト・コンタクト・テーマのSF(ただし、哲学的、政治的要素が大きい)であるそうだ。

と、あんまり関係ない前フリから『大航海時代叢書』の第1冊目、第1巻を紹介する。
初版発行1965年。レムの『ソラリス』最初の日本語訳と同じ年。(と、ウェブで調べたら、SFマガジン連載は前年か)
わたしは、当時小学6年なので、当然ながらこの叢書の存在など知るすべもない。(『ソラリス』も知らない)

実際に手にとってみたのは、30歳代後半である。
歴史系や哲学・文学系の大学の先生なら、学生たちに「こういうものは、十代のうちに読んでおくように、20歳代になったら、読んでいる暇がないし、30すぎたらおそすぎるぞ!」なんてはっぱをかけているんじゃないだろうか。(今時、そんなきびしいことを言ったら、学生が逃げる?)
おっしゃるとおり、30歳代では遅すぎるだろうが、この叢書を10代、20代の血気盛んな年頃に読むのは、ひじょうに困難ではなかろうか。

内容はむずかしくない。
というより、前提知識を必要としない編集方針、翻訳なので、どんどん読んでいけばいい。
このシリーズを通じて、当時の航海術・身分制度・官僚制度を知ればいいし、ラテン語・ギリシャ哲学・キリスト教といった古典的教養の底なし沼に沈むこともできる。

しかし、かったるい!
なぜか?

一言でいえば、これらの記録の著者たちは、近代人ではないから。

現在、全世界で承認されている、科学的な論述、論証の手続き、方法論が確立されていない時代の文章なのだ。
科学のルールに無頓着である。

この場合の科学のルール、論証の手続きというのは、ダーウィン『種の起源』によって確立された、論述の方法、論文の書き方のルールである。(と、いってよいでしょう)
しかも、ダーウィンの場合、コペルニクスのように数学で論証するのではなく、本人が数学が苦手だったこと、および、当時確率論など進化学に必要な数学が未発達だったことが影響し、言語(自然言語)で考え文章で表現する、という結果になった。
その結果、自然観察や数学がダメな人も、ダーウィンの考えを、理解したり、誤解したり、曲解したり、反論したりすることになる。(別に自分を棚にあげていってるわけではない……)
科学としての厳密性には欠けるが、広範な影響をおよぼすことになった。(そして、うざったい、無知丸出しの反論や、正反対の誤解をうけることになる。)

本叢書全体、そして続編である「17・18世紀大旅行記叢書」は、進化論までの思想的道筋を記録したシリーズともいえる。
(であるからして、ダーウィンの進化論が嫌いな方は、本叢書を読んで、欠陥をみつけて行こう!ヒントはいっぱいあるぞ!)

話をもどす。
本叢書がかったるいことの理由として、もう一つ、18・19世紀に確立した文学のルールにも無頓着であることだ。
近代文学のルール「登場人物の心情・心理を作者が説明してはいけない」という暗黙のルールである。

正体不明の相手(戦闘中の敵、商取引相手、異教徒、などなど)の戦術・命令系統・損得勘定・権威の源、などなどを、推測・推理するのは、軍人・商人・宗教指導者にとって、当然の行為、不可欠の心的要素である。
そうではあるが、そのことと、かってに相手の内面を解釈するのは、別の問題である。
この叢書におさめられた記録の作者たちは、しばしば、「かってに他人の心を断定するオヤジ」になる。
現代のマンガや小説ならばギャグの対象になるような、自己中心的(利己的あるいは打算的という意味ではなく、自己と違う認識をするものを想像できない、という意味の自己中心)なものの見方をする。

このような、自己中心的なものの見方しかできないのが、〈非〉近代人たるところである。
これらの記録の著者は、彼らが遭遇した新世界の人びとと同じ、同時代の非近代人なのだ。(というようなことを『クック 太平洋探検』のレヴューでも書いた。)

つまり、この大航海時代叢書は、非近代人と非近代人が遭遇し、一方の非近代人が近代人に変化していく過程を記録したものだ。(それじゃあ、近代人になれなかったほうの運命はどうなのだ?という疑問・異議も含め、世界の不均一・非対称な構造を記録している。)
こう紹介していくと、レムのファースト・コンタクト・テーマの小説と共通する記録群であるのが理解してもらえるでしょう。(まあ、レムのほうは、もっと深遠で哲学的議論が多いのだろう)

とはいっても、最初に書いたように、かったるい記述が続くのも事実。
小説と違いストーリーはなく、論述文のように結論はない。

というシリーズであります。
わたしもまだごく一部しか読んでいないので、大きいことはいえないが。