◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

2017年04月11日 | 今泉章利
23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)
末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

前回私は、「実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の1967年(昭和42年)2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の《河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い》という記事であった。こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、もう少し説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書かれた文章なのである。」と書いた。

1995年、折目朋美氏の「雪降リ止マズ」という漫画の出版記念会に、出席したときのことである。
その6年前、高橋正衛氏は、山口富永、末松太平両氏に、「真崎組閣陰謀説は、何の根拠もない私の想像です」と自白したが、それから4年後の、平成5年(1993年)1月、末松先生が亡くなられた、そんな時期時だった。
私が、池田俊彦さんに、高橋正衛が来てますよと、多少非難めいて池田さんに言うと、池田さんは「いろいろあるが、彼は、二・二六事件そのものを日本人に啓蒙した実績はあるのだから、、」といわれた。この出版記念会は、池田さんがアレンジされたものなので、おそらく、池田さんが呼ばれたものと思う。
パーティの席上で、、ちょっと顔色が悪かった高橋氏と国家論についてしばらく話をした後、高橋正衛氏から、「今泉さん、昔、私は皆様のために頑張ったことがあるのですよ。今となっては誰も覚えていないでしょうけれど、、」と言って、28年も前の1967年(昭和42年)の朝日に掲載された有馬頼義事件の話をされた。

新聞記事の翌日の法要の後の直会の席では、多くの参列者が「二・二六事件は強姦、人殺しの類」という有馬の記事に激しく憤っていた。今から、朝日新聞に押しかけていって、抗議をしようじゃないか、声高に語る人が多かった。
当時44歳の、高橋氏は、立ち上がって、みんなに自分は朝日新聞を知っているので、どうかこの場は私に任せてほしいと、一世一代のお願いをした。何とか了解を取り付けて、自分は、賢崇寺からその足で、朝日新聞の担当に会いに行った。
自分から朝日に対するお願いは、有馬頼義の記事に対して同じスペースの反論の記事を書かせてほしいという事だった。朝日文芸部は、内部で検討をした後に、条件として、記事を書く人間は、朝日が記事を書くことを認めたレベル人でなければ認められない。このことは、暗黙の了解なのだが、「高橋正衛が書くならいいよ。」ということであった。しかし、自分の名前で出すわけにはいかない。結局、河野司さんの了解を得て、文章は、高橋正衛が書くが、筆者は「仏心会の河野司」とすることになった。

反論は、前述したように、その約一か月後の昭和42年3月3日に掲載されたのであった。以下は、その掲載文である。
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「昭和42年3月3日  朝日新聞 文化欄」

二・二六事件の意味 河野司

有馬頼義(よりちか)氏への反論
二・二六事件で、いわゆる叛乱(はんらん)軍に襲撃され、そのため死をとげた、ときの内大臣・海軍大将斎藤実の縁戚(えんせき)にあたる有馬頼義氏の二月二十五日本欄「二・二六事件と私」と題する所論を読んだ。

遺族の一人として

私は有馬氏が、この事件の被害者の身内であるのと正反対の、加害者側の一青年将校側の肉親である。しかし、この事件の起きた瞬間は、有馬氏と同じく私も、直接には何らこの事件には関係のない人間である。
 そして現在有馬氏は文筆を業とし、私は一事業家である。このかぎりでは、私個人としては街の一読者として、有馬氏の所論を一人で読み、自ら感ずるところを、ただ一人胸中にとどめておくべきかもしれない。
 この二・二六事件は、もうすまでもなく、昭和史にとって重大な意味をもち、国民の生活に大きく作用した公的な事件である。私達青年将校の遺族としては、あの昭和十一年二月二十六日の明け方に起きた事件そのものは動かし得ない歴史的事実である限り、公的の場で、この事件の持つ意味を如何に論ぜられ、批判されるとも、それを静かに受け入れるであろう。
 この事件を素材とした小説、映画が書かれ、つくられても、それはあくまでも作者の事件への、その人の解釈であり、それに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、その道の専門家におまかせする。したがってここでは「宴」のことは私には関係ない。事実はひとつ、解釈は多様なのであるから。

確信犯だった彼ら

私たちは、わが身内、肉親の三十年前の激派の行動を全面的に肯定し、これを生涯かたくなに固持して、二・二六事件への批判をすべて拒否するものではないのである。
 しかしながら有馬氏の所論については、私は、この心がまえを破って、ここにいくつかの疑問を提示したい。
 この事件の首謀者の一人、磯部浅一の新しく発見された「獄中遺書」に次の如き一節がある。
 「吾人の行為が国賊的叛徒の行為ならば、その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ。認めてはならぬものだ。吾人を打ち殺さねばならぬものだ。直ちに大臣は、全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しにすべきだ。大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか。間髪を入れず打つ可きではないか」
 御承知の通り、叛乱軍部隊は”間髪を入れず”討たれることなく四日間経過した。
 ところで叛乱将校を裁いた軍法会議では、二十六日の明け方」の殺人・放火の事実にのみ犯罪事実を想定して反乱軍将校を断罪している。それは有馬氏のいう”ただの人殺し”と断定したのと同じ態度である。
 二・二六事件は”ただの人殺しか”、つまり破廉恥罪か、それとも政治事件、確信犯罪かは重大な一点である。そして有馬氏が「革命ではなく人殺し」といっているのをみれば有馬氏の答えは明瞭(めいりょう)である。
 では、殺人罪とすれば、犯人は犯行後の現場にずっととどまっていたのである。何故”間髪を入れず討た”なかったのか。この事件は政治事件、確信犯の所業だから討てなかったのである。

国防国策の争い

さらに有馬氏はいう。「かれらをクーデターにかり立てたのは、陸軍部内の派閥抗争であり、第一師団の満州追放がきまったことについての反抗である」と。「地区軍部内の派閥闘争」とはおそらく皇道派と統制派の争いを指すものであろう。
 この争いは普通考えられる争いよりも、より根源的に国防国策をめぐる争いであった。だから高橋正衛氏の「二・二六事件」(中央公論社)は、全ページどこにも皇道派、統制派の文字がない。それでも二・二六事件は書きうるのである。まして、陸軍部内の派閥闘争がクーデターをかりたてたのなら、何故、軍の派閥に無関係の近衛文麿は、あのときこの叛乱軍将校の恩赦、特赦を画策したのか。この解答を有馬氏から聞きたい。
「第一師団の満州追放」という表現も杜撰(ずさん)?きわまる。戦時でない平常時の師団の海外駐留の手続き、国防方針の決定はほぼ二年はかかるのである。この点は。その衝に当った旧軍人にたしかめられたい。
 最後に重要なこと。「私は、二・二六事件は革命などというようなものでなく、ただの人殺しか強盗・強姦のたぐいだと思っている」という表現。「たぐい」というのは有馬氏が、この事件をとらえる抽象的意味として使用したと思う。しかし私は、すでに悪魔の意味をもつこのような言葉使用しなくては自分の悲憤と願望を表現できない文筆家を軽蔑(けいべつ)する。
まして、二・二六事件は、絶対にたとえ抽象的にせよ、このような言葉を浴びせられる事件ではない。テロリズムは「思想の争い」を直接暴力で解決せんとするから当然批判されるのである。しかし「思想」が前提であるその一点を、肉親への悲劇という表現からとりさるべきではなかろう。

革命の敗者と見る

襲撃のひどいやり方も斎藤実に関しては、有馬氏の目撃した事実を認めよう。しかし高橋是清については当時の流言以外、私としてはわからぬ。有馬氏に確証があればうけたまわりたい。しかし青年将校は今日生きている我々がどう解釈しようとも”革命”を実行しようとして決起したのである(計画の不徹底、幼稚さといわれることは別として)。有馬氏はこのことはあくまで認めないのであろうか、、、、、、、。
有馬氏の所論ののった同じ二十五日の読売新聞の夕刊に中野好夫氏は書いている。
「フランス革命の末期、、、ひどいときには一日五十人以上の大量処刑を行なった日さえあるという。厳たるこれは革命の事実である。だが今日ゴロリと血染めの生首写真(かりにあるとしてだが)だけをぬき出して「どうみるか」と問う酔狂者はまさかいまい。これも事実、しかもおそるべき異常事態にちがいないが、フランス革命そのものの歴史的意味はもっと奥のところにあることはだれでも知っているからであろう」
もちろん、二・二六事件とフランス革命は世界史的価値において全然ちがう。ただ革命という一瞬は美化すると、おとしめるとにかかわらず血染めの生首だけぬき出して「どう見るか」とは言えないのである。
二・二六事件の青年将校は死をもってあがなった革命の敗者であったのである。

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筆者は仏心会(二・二六事件処刑者遺族の会)会長。湯河原の旅館に牧野伸顕氏を襲撃し、十一年三月六日自決した事件首謀者の一人、河野寿元大尉の実兄。



写真はちょっとみにくいが、右が2月25日の有馬氏の記事、左が3月3日の反論。いずれも黄色の枠で囲ってある。

(備考)なお、高橋正衛氏は、1994年(平成6年)、中公新書「二・二六事件 増補改訂版」を出された。真崎大将の件はそのままだが、増補に二つの問題提起がある。一つは、軍隊のける命令の問題で、
もう一つは、大臣告示は、ただ単に紙切れであったのか、ということである。また、竹山道夫氏の「昭和の精神史」についても触れられている。「昭和の精神史」は、物静かだった父が、几帳面に何本も赤線をひいていた本である。
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