◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

2017年04月05日 | 今泉章利
22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)
末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

慰霊像が建立されてから二年後の1967年(昭和42年)2月25日、「朝日新聞」「文化」欄に、「二・二六事件と私」と題して、”事件は「革命ではなくて人殺し」”という記事が掲載された。筆者は、斎藤実内大臣の親戚、1954年(昭和29年)に直木賞を受賞、久留米藩主家の第16代当主である有馬頼義(ありまよりちか)氏。氏は、事件は「人殺し、強盗、強姦のたぐい」と決めつけたのである。
有馬氏はさらに週刊新潮に「二・二六暗殺の目撃者」を連載し、1970年(昭和45年)に、一冊の「二・二六暗殺の目撃者」として出版した。

週刊新潮の連載が終わるころ、末松太平さんは、長文の反論を有馬氏に送っている。有馬氏に送った手紙そのものは見ていないが、71年3月の「情況3」にのった「二・二六は革命だったか」には、その内容が書かれていると思われる。その内容は、1980年に発行された「軍隊と戦後の中で」「私の昭和史」拾遺 のなかでも見ることができる。

有馬氏の”勉強した歴史”には多くの間違いがあり、それを、末松さんはひとつづつ、ぐさりぐさりと指摘し、さすがの直木賞作家もうんざりしたとみえるが、なるほど、批判をすることというのは、このように書くのだなあとと今でも感銘深く思っている。
なお、以前に書いたと思うが、昭和41年の三島由紀夫の「二・二六事件と私」にも、末松さんはコメントを与え、軍隊を知らない三島は、文中、「末松さんの指摘に基づき小説を修正した。」と書いている。


さて、有馬氏は「二・二六暗殺のの目撃者」のあとがきで、「末松太平氏から長文の反論を受けた。末松太平氏の反論は、主として、二・二六事件が、人殺しでなく革命であったという趣旨のものである。ここでもまた「暗殺」とか「目撃者」とかいう言葉が、問題にされているが、これは週刊新潮のつけた題名で、はからずしも、私は、利根川君と同じ運命に立たされ、受けずもがなの攻撃を受ける結果となった。」と釈明付き文章を書いている。

実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の昭和42年2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。
こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、次回説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書いた文
章なのである。そのいきさつも含めて。

 



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