25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい
昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある
◇
二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。
関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである。
◇
この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。
この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。
私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。
末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。
宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい
昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある
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二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。
関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである。
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この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。
この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。
私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。
末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。
宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。