◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

波多江タマ様のメッセージ(2月の御法要において)

2009年03月01日 | 今泉章利
94歳の波多江タマ様が「やっと来ましたよ」と言われて賢崇寺にご到着されました。忘れないうちに、お話の要点を書き記そうと思います。いろいろなかたに御挨拶などしなければならず、、すべてが聞けたわけでなかったのですが、、又すべてが正確に聞けたとは限りませんので、これは、今春、再度お邪魔して確認しようと思います。以下は、私が理解したタマ様のお話です。

1.当時の貧しさは、今の人にはわからないと思います。昭和5年に自分は東京に出てきて、昭和20年に戻ったけれど、昭和20年でも青森は本当に貧しかった。昭和20年の夏、人々は貧しくて、蚊帳がなくて入口で杉の葉っぱを燃やして煙で部屋の中をいぶしてそれから一斉に入って、藁の敷いてあるところで寝る。男たちはふんどし一丁の裸でねる。まるで家畜のようだった。布団もなかった。農家でご飯を食べると客人の我々には白い米であったが、自分たちはかぼちゃの茎を入れた汁を作り、それを4-5杯すすって食べていた。昭和20年でもそれだったのだから、昭和5年の貧しさは想像してほしい。
2.昭和5年、横浜で奉公していると頃に兄(對馬さん)が会いに来てくれた。しかし、着物に減った下駄、それにマントといういでたちだった。同僚が、まあタマちゃんのお兄さんって陸軍の将校さんと言っていたけど、、と絶句した。憲兵からチェックをうけていたので、軍服では堂々と歩けなかったのだ。
3.兄は、満州事変で多くの部下を失い、自分が生きて帰って本当に申し訳ないと言っていた。安藤さんも給料を部下にあげていたというけれど、部下を本当にかわいがった。明日をも知れぬ命がけの部下たちが、お酒に酔って騒いでいると上官が統制がとれないから規律を厳しくしろと言ったらしいが、兄は、部下たちをそのまま騒がせたという。
4.お金がなかったのは、将校も同じだった。お金を貸し合っていたのはお互いさまだった。以前、香田さんとおかねのやり取りでの礼状を見たことがある。また、岡野さん(龍土軒)が、事件の前、安藤さんがお金を貸してくれと言ってきたとき断ったが、それを本当に後悔していると後でいっていた。みんなお金がなかった。
5.処刑の前日、霊柩車を用意しろということで、手配し、当日、霊柩車が15台も見事なほどに衛戍刑務所にならび、用意されたひとつずつのテントに各家ごとに呼ばれた。自分のところは、安田さんの後であったが、デスマスクを作っているのでということで、ずいぶんと待たされた。
6.テントに兄の遺体が御棺にはいって用意され、ようやく呼ばれた。兄を見ると、眼、鼻、口以外のところは包帯でぐるぐる巻きになっていた。でも、本当に安らかな死に顔だった。まだ殺されてから4-5時間ぐらいだったので暖かかった。
7.火葬場への出発は、各家族がそれぞれ次々と出発した。一番前は、憲兵の車、自分たちの車一台、霊柩車、警察公安の車、、のような順で行った。沿道の人で手を合わせている人いた。
8.お骨を頂き、青森へ帰るとき、お骨は白い立派な袋に入れるのが普通なのに、風呂敷にしろと言われ、お骨を風呂敷に包んで、上野駅に向かった。
9.ホームは人払いがしてあって、誰もおらず、憲兵、公安と列車に乗り込んだ。そして、彼らが我々の家族を取り囲むように座った。そのあと、一般の人たちが乗り込んできた。
10.青森駅に列車は着いたが、私たちは一番最後に降りた。ホームには誰もいなかった。
11.家にお骨と位牌を置いたが、ほとんどの友人たちは、家の手前で警察の訊問にあい、そのまま警察に引っ張られてゆくので、ほとんどの人が来なかった。
12.たまたま、警察たちがいないときがあったらしく、家に到達した人もいた。
13.東京の話だが、その後、分骨のことで栗原(勇)さんが偉かった。分骨を集めて、賢崇寺に合祀してくださった。これは栗原中尉が衛戍刑務所で死刑執行を前に栗原さんに合祀をお願いしたからだったが、、昭和12年の7月12日の法要の時も、憲兵、公安は厳しく、賢崇寺の坂の下で遺族でない人は、みんな取り調べを受け、来れなかった。
14.分骨合祀のとき、藤田俊訓老師が畳に大きなきれを敷き骨を混ぜた。
15.曹洞宗の高階管長が、ご遺族一人ひとりに色紙を下さった。
16.残された遺族のためにミシンを買うことになったのだが、選べるものは限られていて、、それでも買って使った。自分は河野司さんと買いに行った。
17.初めての法要の時の写真があるが、自分はほとんど覚えていない。


一気に話続けられた。  聞いている人がいようがいまいが、一気に話をされていった。どうしても伝えたかったのであろう。私は、このような話をお伺いするのは初めてである。過去二回お目にかかった時は別の御話であった。今日はその詳細説明のような感じがした。
今春、私は、この大切なお話の続きを聞きに、弘前へお邪魔しようとおもう。。田舎舘にも行く。青森県の資料館にも行こうと思う。また、弘前連隊の資料館の閲覧許可を得て訪問したいと考えている。
御話を聞き、感謝のお気持ち一杯で、タクシーでお送りした。小雨がふっていた。賢崇寺の梅は五分咲きであった。

(今泉章利)

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コメント

渋川明雄様からのメールです。亀川日記です。

2009年03月01日 | 今泉章利
コメント欄では小さいかもしれませんので、それを以下のようにコピーいたします。渋川様ありがとうございました。
以下は渋川様のコメントです。

満川亀太郎は拓殖大学教授。大川周明、北一輝等と猶存社を設立。西田税は、士官学校時代に満川に傾倒し接触した。そして、北一輝を紹介される。満川、西田は「大学寮」の講師をつとめる。
満川亀太郎日記
昭和3年9月23日・・午後、伊東六十次郎(東大生)、加藤春海(東大生)、渋川善助(明大生)の三人が満川亀太郎宅を訪問する。・・(この三人は、西田税の「天剣党」「志林荘」の同志リストに名を連ねる)
昭和5年5月10日・・午後5時から伊東六十次郎、加藤春海、渋川善助、平田九郎、雨谷菊夫を集めて記念会を開く。・・(平田九郎は拓大生。加藤、渋川と昭和4年に「学生興国連盟」を設立。雨谷菊夫は、弘道学会幹事、文学士。この年満川は「興亜学塾」を11月3日に開塾する。雨谷は東洋政治学の講師。渋川は塾生となる)
同年10月17日・・渋川は満川宅を訪ね、金昌俊、石川龍星を紹介される。・・(この二名は不詳)
昭和6年1月24日・・渋川と小島某は、満州教学問題に付き渡満する、と。・・(石原莞爾日記では、1月28日夜、渋川氏来訪、教学問題ニツキ論題シ一泊シテ帰ル、1月30日朝、渋川帰京ノ挨拶ニ来ル・・とある)
同年7月20日・・拓大生を率いて東北遊説に行く。同行者、小林正夫、石山正夫、吉田武男、吉田豊隆、花田武夫・・(昭和7年5月吉田豊隆、石山正夫は、水上源一(日大生)と「救国学生同盟」を結成。同年9月、遊説に同行した5人は、「皇国青年芳流会」を結成。昭和8年の「埼玉挺身隊事件」で吉田豊隆起訴。石山正夫、小林正夫、水上源一、渋川善助検挙される。
同年9月2日・・気仙沼に遊説に行く。翌3日気仙沼で渋川善助合流する。
以上、水上源一さんと善助さんは拓大生と深く関わっていることが解ります。水上さんと満川亀太郎を中心とする拓大生との関係、特に吉田豊隆が糸口になるのかもしれません。

(以上は、渋川様のコメントでした。)

今泉章利  

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二・二六事件74回忌法要の報告

2009年03月01日 | 今泉章利
二月二十六日の報告をします。

朝、8時半、渋谷の慰霊像の清掃を行い、お花をあげ、香を焚き、般若心経と十句観音経をあげました。お花は、ずいぶんたくさんあって、花入れに入らないものは、二つのバケツに水をはり、きれいにあげました。
それから、青山の白井さんのお墓にお参りして、賢崇寺にいきました。

今回から遺族席や事件関係者席はなくし、同じ席になりました。法要の本来の意義を思い、初心にかえろうという仏心会世話人の安田様の御発案であります。

雨が降り、あいにくの天気でしたが、日本全国からずいぶんと沢山の方が来られました。藤田俊孝老師の招霊の名前の途中から、存じ上げている方たちの名前が続き最後に昨年逝去された北島様のお名前が読まれました。

湯河原・光風荘の山本寅太郎様の御挨拶があり、二万人の方が来られたとのことでした。

安田様が、栗原勇さまの書かれた「悲しい思い出」という本のお話をされました。

また、弘前から、94歳の波多江タマ様がお見えになりました。このお話は、次回以降に致しますが、本当に、胸の熱くなるお話でした。一生懸命に私たちに伝えようと話してくださったのでした。

そして、最後に、日も暮れてしまったのですが、白金台の池田さんのお墓をお参りいたしました。

(今泉章利)

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