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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(4)陸軍士官学校(予科・本科)卒業◎

2023年03月13日 | 年表●末松太平
   
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《「年表・末松太平」1925(大正14)年。/末松太平=19~20歳。》
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◎1925(大正14)年3月、陸軍士官学校・予科卒業。
※「卒業記念写真帳」掲載の集合写真から。末松太平(左写真・中央)、渋川善助(右写真・後列中央)。
・・・末松の「集合写真」には 市吉中隊長・今関区隊長・田尾曹長・根本曹長+卒業生23名。
・・・渋川の「集合写真」には 今村中隊長・長第一区隊長・田中歩兵曹長・上田砲兵曹長+卒業生30名。
・・・集合写真は合計12枚。末松と一緒の写真には(第五連隊での同僚)草地貞吾と森本赳夫も写っている。



◎1925(大正14)年4月、歩兵第五連隊「士官候補生」として、初めて青森の土を踏む。
★初公開資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/原稿の下書き(掲載予定先は不明)が残されたノート。》
「私が青森を故郷のように恋うようになった因縁は 大正14年に遡る。が 青森が私に与えた初印象は甚だ悪いものだった。/私は青森の第五連隊を任地として志願したわけではなかった。九州人の私には 縁も所縁もない第五連隊のことなど意識のひとかけらもなかった。瀬戸内海の海の色が好きだった私は(親友の森本と一緒に)広島と姫路の連隊を志願した。/そして 森本は姫路の連隊に決まった。が 私は飛ばされて青森の連隊にやられた。飛ばされるというのは 士官学校生徒間の俗語で『希望もしない辺鄙な連隊にやられる』ことでわる。私は 青森に連隊があることさえ知らなかった。/第五連隊に配属が決ると 雪中遭難のあった連隊とか 軍神橘中佐の連隊とか教えてくれる者もいた。しかし 青森がどんな所であるかという知識はなかった。/私の初印象が甚だ悪かったというのは 青森駅頭に着くところからだった。駅頭には誰も出迎えに来ていなかった。先輩からは『士官候補生が赴任するときは 連隊の将校が駅に迎えに来る』と聞かされていた。/着いたのは4月14日だった。雪切りは終わっていたが 駅前の家と家の間には汚れた雪が積み上げてあった。当てにした出迎えはいなかった。連隊はどの方向にあるのか見当もつかない。当時はまだ駅前タクシーなどはなく 人力車夫が屯していた。/人力車は かなりの距離を走っても 連隊らしきものに行き当たらなかった。人力車は とうとう町並みを外れた。寒々とした一本道がどこまでも続いた。青森の第五連隊は『青森市内』にはなかった。筒井村にあった。」
「衛兵所では 星ひとつもついていない肩章の新入兵の扱いに戸惑った。衛兵司令が あちこち電話をかけ問合せていた。そのうち中尉が一人来て 私の身柄を引き取った。温かく迎えるというようなものではなかった。私は この連隊から この青森から逃れることを考えた。/私を引き取った結城中尉は(これから6ヶ月続く)隊付候補生生活の『担当教官』であった。/こうして私は『上等兵の階級の士官候補生』になった。」

◎1925(大正14)年5月、陸士4期先輩の大岸頼好(当時少尉)と出会う。
・・・これが「青年将校運動」に足を踏み入れるきっかけである。
・・・大岸頼好少尉(当時)は、弘前歩兵第31連隊から第5連隊へ転属してきた。
★資料★・・・・・・・・・・
《「少殿殿と士官候補生」末松太平/記念誌「追想・大岸頼好」1996(昭和41)年3月発行・掲載》。
「私が士官候補生で上等兵の階級だったころ、大岸さんは二年目の少尉だった。『候補生』と呼ばれれば『ハイ』といって、不動の姿勢をとらねばならない上官だった。が 五連隊では私の方が少し先輩だった。/大岸少尉は五連隊にくると独身将校の巣、合同宿舎に住みついた。/大岸少尉が週番士官になると、私はひとりで毎晩のように、週番士官室を訪ねた。/・・・軍縮は師団廃止にとどまらず幼年学校も、東京だけを残して、あとの五校は全部廃校になることが決まっていた。/さほど未練のある広島幼年学校ではなかったが、私は意地になって『廃校反対』を全国出身先輩に呼びかけるため印刷配布する文を持って 週番士官室の大岸少尉を訪ねた。/大岸少尉は『そんなことより、もっと大事なことはないかな』と言った。その後、その大事なことの話が始まった。革命のことだった。その時以来、講師一人、聴講生一人の革命講座が開かれることになった。/・・・革命講座には 日本軍隊の分析も含まれた。日本軍隊の構造改革論である。テキストのひとつが『兵農分離亡国論』だった。ガリ版刷りで、かなり部厚に綴じてあったが、活字で刷れば薄っぺらなものだったと思う・・・。」

◎1925(大正14)年10月1日。陸軍士官学校・本科(市ヶ谷)に入学。
・・・「本科」の集合写真。題して「赤い糸」。この日 渋川善助氏は欠席したのだろうか。

◎入学直後。「大学寮」に西田税(陸士34期)を訪ねる。 
★資料★・・・・・・・・・・
《須山幸雄著「西田税/二・二六事件への軌跡」1979年・芙蓉書房刊》
・・・グラビア「西田税をめぐる人々」。16人の写真が紹介されている。
・・・秩父宮、北一輝、大川周明、井上日召、磯部浅一、安藤輝三、末松太平、他。
 
《「年表・末松太平」追補改訂版》・・・・・・・・・・
《末松太平「悲哀の浪人革命家/西田税」・雑誌「人物往来」1966(昭和41)年2月号》
「私が西田税に会ったのは大正十四年の十月だが、この年の六月、西田は軍職を退き、上京している。私が会ったのは、西田が東京での浪人生活を、やっと始めた時期だったわけである。/西田税は会うやいきなり『このままでは日本は亡びますよ』といった。私の一年と十ヶ月の士官学校本科在学中にでも、革命を起こしそうな語調だった。もし西田税ら行地社の人々が革命を起こしたら、直ちにこれに参加するため、今から覚悟を決めておかなければなるまいと私は思った。/浪人とはいえ、この頃の西田は予備役少尉、すなわち軍人に違いなかった。完全な浪人になったのは、大正十五年、宮内庁恐喝事件で有罪となり、上告棄却で懲役五ヶ月の判決が確定して失官した昭和五年十月三十日だった。十月事件の一年前である」

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《「年表・末松太平」1926(大正15・昭和1)年。末松太平=20歳~21歳》
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◎陸軍士官学校本科在学中。西田税に伴われて、北一輝を訪問。
★資料★・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫・8巻/頁300》
「末松太平は、大正15年頃、初めて西田税に伴われて北一輝を訪問した時『軍人は軍人勅諭を読み誤り腐敗政治に染まらなかった。いまの日本を救えるのは腐敗していない軍人、しまも若いあなたがたです』と言われたときの感銘は、クラーク博士における『ボーイズビーアンビシャス』だった、と書いている・・・」
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《「年表・末松太平」1927(昭和2)年。/末松太平=21歳~22歳。》
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◎1927年夏。陸軍士官学校(第39期)卒業式。(★写真参照★)
・・・航空兵科への転科を考えていたが(大岸頼好の影響もあって)結局は青森に戻る。
★資料★・・・・・・・・・・
(松沢哲成・鈴木正節「二・二六事件と青年将校」三一書房・1974年5月刊)
「陸士39期生の中に『革新』思想との出会いを持ち込んだのは末松である。/末松が同期の森本赳夫や草地貞吾などを、西田、北に会わせた。森本が『ひどく熱をあげた』こともあって、末松はいつのまにか『革新党の首領株』になったという。/西田による『天剣党・同志録』には、現役軍人47名のうち、39期生は18名にのぼっている」(・・・これらは「1972年12月9日の末松談話による」とのこと。)

◎原隊復帰。歩兵第五連隊付「見習士官」となる。写真には「昭和2年連隊幹部」と記してある。
・・・青森に戻ってみると、大岸頼好は既に仙台に転属しており、失望する。
◎「天剣党事件」
・・・西田税が作成した「天剣党趣意書」に同志として「末松太平」の名前も列記される。 
★資料★・・・・・・・・・・
《中公文庫「日本の歴史・24(ファシズムへの道)」大内力/P・209》
「昭和2年7月には天剣党事件がおこった。これは西田税が中心になり、陸海軍と民間の右翼を集めて国家改造団体を組織しようとしたものであったが、まもなく憲兵隊に摘発されて失敗に終わった。ここに名を連ねたのは、海軍少尉藤井斉・陸軍見 習士官末松太平・陸軍少尉村中孝次・民間の渋川善助らであったが、これは本人の承諾なしに西田が名を書いたものという。」  
★資料★・・・・・・・・・・
《土門周平「二・二六事件の全貌」中央公論/歴史と人物・1981年2月号》
「昭和2年7月、西田は北の指導下に陸海軍現場将校を中心とする同志を集めて 天剣党を組織した。参加者の中に、菅波三郎、大岸頼好、村中孝次、末松太平、野田文雄、渋川善助、海軍の藤井斉などがいた。」「これを偵知した憲兵隊は、ただちに西田を留置取調べ、天剣党も創立そうそうに解散した」
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※ 原隊復帰以降、1931(昭和6)年の夏までの約4年間、末松は西田と会っていない。
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