Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

男は(女も?)黙って……;下記ブログ追記

2009-05-06 14:03:45 | 日記
下記ブログを書くとき、ぼくは昨日見た「逃亡地帯」という映画についても書くつもりだったのを、忘れた。

「逃亡地帯」(The Chase 1966)というのは、マーロン・ブランド、ロバート・レッドフォード、ジェーン・フォンダが出ている、古い映画である。
この当時、ぼくは映画を(映画館で)かなり見ていて、映画雑誌も買っていたので、この映画のことは知っていたが、昨日見て、見ていなかったことに気づいた。

つまり、けっこう“映画を見てきた”と思うぼくのようなひとでも、見逃した映画というのがたくさんある、わけである。
ぼくは、“過去の映画”が、もっと系統的に見れる“シネマテーク”的な施設がなければ、“映画について語る”ことは、不可能だとかねてから考えている。

これもまた古い話であるが、トリュフォー、ゴダールらの“ヌーヴェル・ヴァーグ”が、映画史に革新をもたらしたのは、彼らが“シネマテーク”で過去の映画を見、批評することから、実作者として立ち上がった(立ち上がることができた)からである。

こういう“文化継承”と“文化における革命”の具体的な形(方法)が、“時代によって変わる”ことなど、ありえないのだ。
これが、<文化>である。

“日本の伝統文化”について御託を並べる“ナショナリスト”は、ひとつの“シネマテーク”を、日本各地に立ち上げるべきである。

「逃亡地帯」という映画は、さして優れた映画とは思えない。
しかしそこには、現在のハリウッド的“アメリカ映画”がけっして触れない世界が描かれている。
それは“醜いアメリカ人”の“リンチ体質”である。

たとえばこの映画の監督アーサー・ペンというひと(わすれられたひと)の“映画”を時系列を追って見れば、必ず、“映画についての認識”がうまれるであろう。
もちろん、アーサー・ペンだけではない、サム・ペキンパーも。
もちろんアメリカ映画だけではない。

Wikipediaから、アーサー・ペンのフィルモグラフィを貼り付ける、あなたは何本“見た”だろうか?;

· 左ききの拳銃 The Left Handed Gun (1958)
テーマ:ビリー・ザ・キッド 主演:ポール・ニューマン
· 奇跡の人 The Miracle Worker (1962)
· 逃亡地帯 The Chase (1966)
· 俺たちに明日はない Bonnie and Clyde (1967)
· アリスのレストラン ALICE'S RESTAURANT (1969)
· 小さな巨人 Little Big Man (1970)
· 時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日 Visions of Eight (1973)
· ナイトムーブス Night Moves (1975)
· ミズーリ・ブレイク THE MISSOURI BREAKS (1976)
· フォー・フレンズ/4つの青春 FOUR FRIENDS (1981)
· ターゲット TARGET (1985)
· 冬の嵐 DEAD OF WINTER (1987)
· ペン&テラーの 死ぬのはボクらだ!? PENN & TELLER GET KILLED (1989)未公開
· ロー&オーダー LAW & ORDER (1990~)TV作品
· 愛のポートレイト/旅立ちの季節 THE PORTRAIT (1993)TV作品
· キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒 LUMIERE & COMPANY/LUMIERE ET COMPAGNIE (1995)未公開
· INSIDE INSIDE (1996)未公開
(以上引用)

ぼくもたいして見てない、いちばん好きなのは、(もちろん)“Bonnie and Clyde (1967)”である。
「左ききの拳銃」はテレビでしか見ていないが、テレンス・マリックの「バッド・ランズ」とならぶ“アメリカ映画の傑作”だと思う。<注>
このリスト後半にある映画は、まったく見てない(エッいま気づいた;“LAW & ORDER (1990~)TV作品”!!!― 今見てるよ)

ひところよい映画をつくっていたひとが、まったくダメになってしまうことも多い(むしろこれが普通である)
映画が、“監督だけのものではない”傾向もどんどん強まっている。
しかし映画は、缶詰工場で生産される“缶詰”ではない。

ある“監督”を時系列で見る(考える)ことは、必要である。

テレビの“シネフィル(映画愛好家)”による、くだらないおしゃべり、はウンザリだ。

だまって、映画を見よう。



<注>

”だから”、こういう”アメリカ映画”(さらにジョン・フォードの「荒野の決闘」の”ような”映画に対して、スピルバーグやイーストウッド等が、どのように”新しい”のかを、ぼくに説明してほしい。



*写真はルネ・クレマン監督(フランスだよ!)の「狼は天使の匂い(ウサギは野を駆ける)」のテレビ画面撮り。


”愛する人よ
 私たちは年老いた子供
 休息するのも不安で
 休めもしない”   ―ルイス・キャロル

<ルネ・クレマン”狼は天使の匂い”エンディングより>



笑うな!

2009-05-06 12:34:24 | 日記

さて恒例の?“テレビで鑑賞映画”について書くブログである。

昨日は「病院へ行こう」(1990)を見た。
真田広之と薬師丸ひろ子主演、監督は先日「おくりびと」で有名になった滝田洋二郎である。

あっさり言ってしまえば、ぼくは“喜劇映画”が嫌いである。
映画だけではないかもしれない。

ぼくの人生は、“お笑い”で誤魔化せるほど“ヤワ”ではないからである。
“毒舌”も“ナンセンス”も“おちゃらけ”も“ドタバタ”も、“ヒューマン笑い”も“シニック笑い”も御免である。

かといってぼくの“家庭”(わずか2名)の“日常”に、“笑がない”わけではないのである。
妻に聞いてほしいが、ぼくの家庭は、いつも“笑顔に満ちている”のである(にっこり)
ぼく自身が、エンターテナーである。

ぼくは“日本的な”喜劇が嫌いなだけではなく、ちゃんと“公平に”ウディ・アレンも嫌いである。
ぼくは“あの顔”が嫌いなのだ。
この連休中、ぼくのささやかな娯楽である“シネフィル・イマジカ”は、この顔ばかりをうつしているので役に立たない。
ぼくの“偏見”は徹底しているので、ウディ・アレンの映画は、ほとんど見たことがない。
それにしてもこういうひとに限り、いつまでもじゃんじゃん映画をつくれるのである。

しかしよく考えてみれば(いま書いていて考えたのだが)、“ウディ・アレンの顔”より、スピルバーグやイーストウッドの顔の方が快適であるということも、ないなー。
ジュリア・ロバーツやアンジェリーナ・ナントカとか、トム・ハンクスとか(笑)
ニコール・キッドマンも、もうよいなー。

なに、話がそれておる?

そうか「病院へ行こう」の話だった。
ぼくはこの映画を、大分前にテレビで見て、けっこう好きだったのだ。
しつこいが、ぼくは“寅さん”だって好きじゃない。

この映画が、好きだったのは、なんでかなー?

やっぱ、“薬師丸ひろ子”なんじゃないだろうか。
喜劇映画がきらいなぼくは、“喜劇系”の役者の名も知らないんだが、この映画の“大地康雄”(調べた)というひとは、いいね。

だが、ぼくがこの映画を気に入ったのは、薬師丸ひろ子の“注射の下手な医者”という設定(とそれに応えた薬師丸の演技)であった。

つまり薬師丸というひとは典型的な“かわいこちゃんアイドル”だったからこそ、彼女の“演技”が輝いたのだ。

この映画の白眉は、薬師丸の女医が下手な注射の“練習”をするために、“男を誘う”場面である;
“あのー、今夜いいかしら?”(薬師丸)
“ダメ、きみは下手だから”(誘われた男医者)

この後、ひとのよい患者?真田広之が、病院の屋上で、“注射の練習”に応じるのだが、そこでひょんなことから、車椅子の真田と薬師丸女医は“もつれて”抱き合ってしまう。
その後のセリフもよい;

真田;お願い
薬師丸;おねがい(ヤメテ)
真田;お願い
薬師丸;おねがい(ヤメテ)
真田;お願い
薬師丸;おねがい(ヤメテ)
真田;お願い
薬師丸;おねがい
……


愉楽の小部屋

2009-05-06 10:38:48 | 日記

今日の読売・編集手帳はよい。

テーマが“便所”だからである。

ぼくたちの生活の“基礎”(根底)について、語られることは、よいことである。

全文を引用する;

その国では便所ではなく「便上」と表記する。農作物の育ての親に感謝をこめての当て字らしい。神さまもおられて、天神さまならぬ「便神さま」という◆井上ひさしさんの長編「吉里吉里人」に描かれた東北地方の独立国、吉里吉里国である。その国の住人ならずとも、脂汗を額に浮かべ、膝と膝をよじり合わせるようにして悲願の小部屋にたどり着いたときは、誰しも“便神さま”に合掌するだろう◆以前はテレビのニュースに大型連休で渋滞した道路が映るたび、正岡子規の一首を愛唱した。〈人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは〉と。ここ数年、羨望よりも「トイレは大丈夫かしら…」と余計な心配が先に立つのは、脂汗に親しむ年齢のせいかも知れない◆Uターンラッシュのきのうは「1000円料金制」も影響し、高速道は大渋滞となった。便神さまに祈った方もおられたに違いない。「ともあれ、お疲れさまでした」と画面につぶやく◆わが家の小部屋にまさる愉悦の場所はない。多くの人が明日からまた、忙しい日常に戻る。特等席でしばし、旅の思い出に浸るのもよろしかろう。
(以上引用)


“わが家の小部屋にまさる愉悦の場所はない”
ははははははっは。

この愉楽の小部屋で読書するひともいるらしい。
ぼくはそれほど“長期滞在”しないので、新聞をとっていた頃は、“朝日新聞”ぐらいしか読まなかったが。

しかしこの小部屋が、“苦痛の場”でしかないこともあるのであって、ひとはいつもスムースに排泄できるとは限らない。

大新聞社でコラムを書くような“タイプ”の方々は、よく食べて、“快食快便”であって、健やかに太っていくタイプではないかと、想像する。

それにしてもこういう大新聞コラムの書き手というのは、どうしてこうも、“わたしはフツーのひとなんです”と宣伝したがるのだろうか。
“連休も仕事で、なのに、たいして稼ぎもないんです”と、“羨望”したり、“余計な心配”をしたり、“「ともあれ、お疲れさまでした」と画面につぶやく”のである。

しかし大新聞社でコラムを書くひとの給料が、“普通のサラリーマン”より安いはずはないのである。

つまりこの書き手は、たんなる“嘘つき”である。

いつもいつも“小市民的俗物”を装い、その“視点”からしか語らない。
つまり自分より貧乏だったり、低学歴だったりする“読者の視点”におもねることによって、新聞売上げ(言説売上げ)を伸ばそうとしかしていない。

しかしそういう“稼業”を毎日続けていれば、その“自己欺瞞”にも気づかなくなる。
まるで“俗物=小市民”が、“良識”であるかのように感じられてくるらしい。

まさに“脳内メタボ”、“メタボ的人格”の形成である。

こういう“人格”になった人々は、けっして、“新しい認識”を語らない。
彼らが語るのは、とっくの昔に読んだ“歌の文句”ばかりである。

退屈で惰性にまみれた“小唄”をうなり続ける人々。
きみたちは、まさに、“保守主義者”である。

きみたちの“感動”は、いつも“昔はやった歌”である。
きみたちの“趣味”はいつも同じである。
きみたちは、ぜったいに、自分の生き方(way of life)を変えない。


忘れらない歌が もう一度流行る
やっと恨みも嘘も うすれた頃

愛してる愛してる 今は誰のため?