Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

So limitless and free

2009-05-09 13:32:37 | 日記
中上健次の“世界”は、暴力的であろうか。

そうである。
この世界が暴力的であるように。

しかし暴力もまた、時代によって、“変化した”であろうか。

あるいは、“暴力の表出”が変化した・変化しつつある、のだろうか。

かつて中上健次と個人的な親交のあった柄谷行人はその中上の死後書いた;

★ 私は現在の日本において、フォークナー的なもの、あるいは中上的なものが可能であるとは思わない。その意味で、中上とともに、日本の近代文学は終わったと思う。しかし、彼がいう「南」は、けっして消滅していない。それは至る所にある。また、現在の世界的分業の再編成の過程は、中心、準周縁、周縁を新たなかたちで生み出すだろう。そこから出てくる文学は、一見して中上的なものと無縁と見えるかもしれないが、実はそうでないと私は考える。
<“中上健次の世界性”>

この文章で注目すべきは、柄谷の“日本の近代文学は終わった”という宣言である。
しかもそれは、“中上とともに”終わったのである。

文学は―“終わった”からには、新しい時代状況の“なかから出てくる”。

《(中上がいう)「南」は、けっして消滅していない。それは至る所にある。また、現在の世界的分業の再編成の過程は、中心、準周縁、周縁を新たなかたちで生み出すだろう。そこから出てくる文学は、一見して中上的なものと無縁と見えるかもしれないが、実はそうでない》

なにが言われているのか。
この世界の“差別=格差”が、グローバリズムによる世界再編による、あらたな“差別”、世界的な布置転換の激動が述べられている。

その“なかから”新しい文学は、現れる。
それは、“近代文学の終わり”を見つめている。

“路地はどこにでもある”

“差別はどこにでもある”

ならば、“暴力はどこにでもある”

しかし短絡してはいけない。
中上健次は自分の故郷での“水の行事件”についてこうも書いていた;

★ 「水の行」の事件は、この土地の誰にでも起こることだ。そう思った。この「水の行」を、例えばこの紀伊半島を経巡る旅の途中で行き会うだろう差別、被差別という言葉に置き換えてみると、この「水の行」の事件は、新宮という土地のみならず、紀伊半島という半島の象徴にもなる気がする。いや、日本という国の象徴でもある。そのKという女性を知っていたからかもしれないが、穢れている、と人を打ちすえる者を差別者とするなら、差別者は美しい、と思う。この日本において、差別とは美意識の事でもあったはずだった。
★ 「水の行」の家は雨を受けてあった。
雨、水、それが新宮の新宮たるところであろう。いや、日本の日本たるところであろう。ここには水が豊かにある。樹木も、人も、この水によって生かしめられている。
<中上健次“新宮”-『紀州-木の国・根の国物語』所収>

このような文章を、“どう読めば”いいのか?
《そのKという女性を知っていたからかもしれないが、穢れている、と人を打ちすえる者を差別者とするなら、差別者は美しい、と思う。この日本において、差別とは美意識の事でもあったはずだった》

ぼくは、“中上は正直だ”と、まず思う。
さらに、彼における“差別-被差別の回路”の屈折を思う。
彼はそれを言語化しようとした、フィクションとして、旅のドキュメントとして。

それは、“言葉”の問題だった。

この暴力としての世界で、言葉を発することの、試みだった。


2007年に刊行された中上健次の評伝=高山文彦 『エレクトラ』(文藝春秋)に、中上が娘に宛てた手紙がある(かつてDoblogで一度引用した)、ここに書かれている中上の言葉は、“だれにも理解しうる”言葉である。

《お父さんの名前は、健次という。おじいちゃんか、おばあちゃんが、つけてくれた。第2次世界大戦、つまりアメリカやイギリスという民主主義の国相手に、日本が引き起こした無謀な戦争、その戦争の敗北の後に、お父さんは生まれた。
だからなのだろう。健次の健は健康という意味、次は2番目という意味。二番目の健康な息子である。健康に育ってほしい。そんな両親の意味がこもった名前だ。戦争に苦しみ、次々と無意味な死を迎えた人々を見たら、天に祈るような気持ちで子供を名づけるのは、よく分かる。
菜穂という名はお父さんが名づけた。温暖な日本は瑞穂(みずほ)の国と言われる。みずみずしく稲が実る国という意味。その稲の実る稲穂という意味。菜穂の菜とは野菜の菜。稲穂と野菜。私たちが日常に食するものだが、二つ並べると豊かなイメージが浮かび上がる。
が、この地上に、今、何万、何十万、何百万の人々が飢えているのを知っているだろうか。
お父さんは、お前の名前を菜穂と名づけるとき、この子と、この子の生きる世界に、稲穂と野菜があまねく行き渡りますように、天にいのって、名づけた。
お父さんの祈りは天に通じているだろうか?
菜穂は飢えてはいない。ではどうして、他から飢えた子供の泣き声が聞こえるのか。菜穂はその矛盾を考えてほしい。問題があるなら、それを解いてほしい。もし不正義があり、そのためだというのなら不正義と戦ってほしい。
しかし戦いは、暴力を振うことだろうか?違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。そのためには、英知が要る。豊かな感受性が要る。菜穂が、この学校で学ぼうとしていたことは、不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法だったのだ。頑張れ。心から愛を込めて、声援を送る》


この『エレクトラ』からひとつのエピソードを引用しよう、これを読んでぼくは柄谷行人というひとを“みなおした”のである(‘かすみ’は中上健次夫人である);

★ 柄谷行人に電話して夫の状態を伝えると、すぐ彼はやってきた(略)しかし健次の意識は遠のいていて、はっきり友人の顔を認識できたがどうかわからない。柄谷はベッドのわきに腰掛けて、いつまでも黙って健次の手を握っていた。
それからかすみとふたりで屋上に出て、なにもかも焼き尽くすような日の光の下でしばらく佇んでいた。自分の父親をガンで亡くしている柄谷は、その時の経験から、あれこれといままでの治療についてたずねた。
(……)
あくる日、かすみは柄谷を駅まで送っていった。ここでいいと言う柄谷を駅前で下し、自分は駐車場に車を停めて、急いで土産を買ってホームの階段をのぼっていったら、ベンチがあるのに彼はそこに腰掛けず、惚けたような顔でホームにしゃがみ込んでいた。声をかけるのが憚られるほど、落ち込みようは痛々しかった。
(引用)

こういう“現実の光景”。
この光景が“感動的”だとしたら、それは、中上健次や柄谷行人という“有名人”のエピソードだからではない。

それは、ぼく自身が、夢の中で“体験する”光景である。


Can you picture what will be
So limitless and free
君は思いえがけるか
限界なく自由であるということを
<Jim Morrison;“THE END”>


無知と無恥

2009-05-09 11:40:38 | 日記
今日の天声人語と読売・編集手帳は、またしても同じ“話題”である。
“きのう亡くなった囲碁の藤沢秀行さん”である。

ぼくは無知ゆえに、あるいは“囲碁”にぜんぜん無関心なため、このかたの“名”すら、存じ上げない。

亡くなったかたには恐縮だが、このように“2大新聞”が、持ち上げると、“えっ、そんなに偉い人だったの?”と思わざるをえない。

このふたつの“言説”を読むと、この亡くなられたかたは、“めちゃくちゃだが、囲碁が強かった”ということらしい。


編集手帳(読売)から引用する;

◆型破りは賭け事にとどまらない。将棋の米長邦雄永世棋聖がまだ若いころ、米長夫人が藤沢夫人を訪ね、「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが…」と相談したという。藤沢夫人の答えていわく、「うちは3年、帰りませんでした」と、これは藤沢、米長両氏の対談集「勝負の極北」(クレスト)にある◆事業に失敗して借金の山を築いた。並ぶ者なき棋聖戦6連覇の偉業は高利貸しに追われ、自宅を競売にかけられる修羅のなかで成し遂げられている。「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った◆きのう、訃報に接した。享年83。誰よりもめちゃくちゃで、誰からも愛されて、誰よりも強かった。こういう人はもう現れないだろう。(2009年5月9日01時34分 読売新聞)

いったい“うちは3年、帰りませんでした”ひととか、“事業に失敗して借金の山を築いた”ひととか、“自宅を競売にかけられる修羅のなかで成し遂げる”ひとが、偉い人なんだろうか。
“「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」”という言葉は、参考になるだろうか。
“こういう人はもう現れないだろう”というほどこのひとは、尊敬に値するのだろうか(笑)

そうであっても、かまわない。
ぼくが知らないだけで、この人は魅力的な人だったのだろう。

ぼくが不可解なのは、この亡くなったひとのような生き方は、この編集手帳の書き手のような人々の生き方の対極にある(だろう)ということである。

“自分の生き方の対極にあるひと”に“あこがれて”いてよいのだろうか。
これが、ぼくの疑問である。


天声人語も引用する;

▼ 囲碁にうといわが耳にも、その天才と、破天荒な人となりは聞こえていた。石も置けぬほど酔っぱらって対局したこともある。「飲む以上は、わけが分からなくなるまで飲む」。好きな漢詩の“教え”を守ったまでと、自著『勝負と芸』(岩波新書)に書いている▼囲碁への精進も一通りではなかった。歩きながら考えに考え、塀や電柱にぶつかるのは毎度のこと。ホームの端に気づかず線路に落ちたこともあると、これは親交のあった作家の故・中野孝次さんが書き残している▼そんな藤沢さんを、中野さんは、自分の人生そのものを落語にしてしまった昭和の名人、古今亭志ん生に重ねていた。八方破れな生き方と芸の溶けあった「宇宙」が、どちらにもあった。一時代が去ったと感慨深い向きが、囲碁好きには多いことだろう▼碁と将棋の違いの一つは、石と駒にある。駒は一枚ずつ性格がはっきりしているが、石はどれも無性格だ。囲碁好きによれば、それゆえの深さと、果てしなさが盤上にあるのだという▼がんを乗り越えて66歳で輝いた「王座」のタイトルを翌年防衛し、最高齢記録を残した。「棋士は死す迄(まで)遠く果てしない曠野(こうや)をさ迷える者」。好んだ詩文どおりに歩み、いままた雲上で碁敵(ごがたき)を探しているだろうか(引用)

不可解な文章である(笑)

《碁と将棋の違いの一つは、石と駒にある。駒は一枚ずつ性格がはっきりしているが、石はどれも無性格だ。囲碁好きによれば、それゆえの深さと、果てしなさが盤上にあるのだという》

という文章は、なにを“意味している”のか。
“無性格なゆえの深さ”とは、何を意味しているのか。

《「棋士は死す迄(まで)遠く果てしない曠野(こうや)をさ迷える者」》

という詩文に、“棋士”が自分をたくすのは、結構である。
かっこいいのである(笑)

しかし、その“棋士”の生涯に、どうして、この天声人語の書き手が自分を重ねることが、できるであろうか。

《八方破れな生き方と芸の溶けあった「宇宙」が、どちらにもあった》

しかし、この天声人語の書き手は、“八歩破れな生き方”を自ら実践していないだけでなく、ほんとうは、そのような生き方を認めていないだろう。

きょうもまた、朝から、“お笑い”を読んだ。

ぼくはこういうひとたち(編集手帳や天声人語の書き手だ)の“感性”を、“俗物”と呼んだ。

俗物とは、“平凡”であることではない。

“非凡な者”と、自分の凡庸さを、勘ちがいするものである。

つまり、味噌と糞の見分けができないひとだ。


闇の国

2009-05-09 10:03:51 | 日記
けれどもぼくは中上健次をたまらなく読みたい時がある。
その世界が近代であるか現代であるか、時空を超えているかをしらない。

それが“リアル”であるかもしらない。
だが、空気が薄く感じられるとき、すべてがあやふやな陽炎のように感じられるとき、このときこそ、中上が読みたい。

★光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。

★血が流れていた。だが、黒い水と血は、夜目には判別がつかなかった。秋幸の眼の前に、水かさが増した川の水に浮遊した花が見えた。
徹が秋幸の体を後から羽交じめにした。一瞬の事だった。「こいつが、こいつが」と秋幸は言い、立ちあがった。人が走り寄ってくるのがみえた。薄暗い川原だった。風は吹かなかった。秀雄は波打ち際に頭をむけ、顔を両手でおおって、体をびくびくとふるわせていた。
竹原の一族も、フサもその川原にいた。その男浜村龍造もいた。息が荒かった。秋幸の体が空になっていた。殺してやった、と秋幸は思った。
「わあ、大変や」と言う声がし、徹が秋幸の体を突き、「逃げやんか」とどなった。足がそぎ落ちている気がして動けなかった。「おまえの子供を、石で打ち倒した」薄闇の中で秋幸はそう言った。
秀雄の血かそれとも川の水なのか判別がつかないものが、石と石の隙間でひたひたと波打っていた。それは黒く、海まで続いていた。はるか海は有馬をも、この土地をも、枯木灘をもおおっていた。

★風が吹いた。山が一斉に鳴った。
川の向こうの山が暗かった。日はその山の向こう側を照らしているはずだった。日は海の側にあった。山を越えた向こう側に有馬があり、川を下りたところにその土地があった。蝉が鳴いていた。悲嘆の声だった。しばらくその声に耳を澄ました。自分の体が鳴っていた。人が見ると秋幸を木と見まがいかねなかった。蝉の声が自分の体の中で鳴り、秋幸は自分が木だと思った。木は日を受け、内実だけが露出する。梢の葉が揺れ、日にろうのように溶けた緑をばらまく。いきれが汗のにおいのようにある。

★浜村孫一終焉の地の石碑を建てたその男は、秋幸がさと子との秘密を言うと、「かまん、かまん」と言った。「アホができてもかまん」秀雄が秋幸に殺されたと知って、男はどう言うだろう。秋幸は男が怒り狂い、秋幸を産ませ、さと子を孕ませ、秀雄を産ませた自分の性器を断ち切る姿を想像した。有馬の地に建てた遠つ祖浜村孫一の石碑を打ち壊す。息が苦しかった。蝉が耳をつんざくように鳴った。梢の葉一枚一枚が白い葉裏を見せて震えた。
秋幸は大地にひれふし、許しを乞うてもよかった。
日の当たるところに出たかった。日を受け、日に染まり、秋幸は溶ける。樹木になり、石になり、空になる。秋幸は立ったまま草の葉のように震えた。

<以上すべて引用-中上健次『枯木灘』>

(更新日時:2007/05/16 22:36 )


★雨が激しくなる。潅木の緑が濡れている。私は雨と渓流の音をききながら、立ちつくし、また思いついて向こう側へ渡る方法をさがして歩きまわる。草は草である。そう思い、草の本質は、物ではなく、草という名づけられた言葉ではないか、と思う。言葉がここに在る。言葉が雨という言葉を受けて濡れ、私の眼に緑のエロスとしか言いようのない暗い輝きを分泌していると見える。言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括(シンタクス)、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。
<中上健次“伊勢”―『紀州』所収>

★ <吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。
<中上健次“吉野”―『紀州』所収>

★ その差別、被差別の回路を持って私は、紀伊半島を旅し、その始めに紀州とは鬼州であり、喜州でもあると言ったが、いまも私にはこの紀伊半島そのものが輝くほどに明るい闇に在るという認識がある。ここは闇の国家である。日本国の裏に、名づけられていない闇の国として紀伊半島がある。日本を統(すめら)ぐには空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。
<中上健次『紀州』―終章“闇の国家”>


★ われわれの身体とは、自ら動くもの、言い換えれば、世界の眺望から切り離せないもの、いや実は実現されたこの眺望そのものであるが、こうしたものであるかぎりでの身体こそ、たんに幾何学的綜合だけではなしにあらゆる表現の働きの、文化的世界を構成するあらゆる獲得物の、可能性の条件である。思考とは自発的なものであると言われているが、それは思考が自分自身と合体するという意味ではなく、反対に、思考は自らをのり越えてゆくという意味であって、発語はまさしく、思考が真理へと自分を永遠化してゆく運動にほかならない。
<メルロー=ポンティ 『知覚の現象学』>

★ 哲学がもし、考えること自体について考える批判的な作業でないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。また、すでに知っていることを正当化するというのではなく、別のしかたで考えることが、どのようにして、また、どこまで可能なのかを知ろうとするという企てに哲学が存するのでないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。
<ミシェル・フーコー 『快楽の活用』>