“韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領が死亡した”というニュースを見た。
ぼくは朝鮮-韓国の歴史についても、その戦後史についても無知である。
この盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領についても、あまり知らない。
だからこのニュースについて“論評”する資格はない。
ただ例によって、“勝手な感想”を記すのみである。
現在、“盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の死”が、自殺であるかどうかは確定していないが、遺書があったと報じられている。
ぼくのこのニュースを見ての、最初の感想は、なぜ戦後の日本の首相では自殺者が出なかったのか、というものである。
この“首相”という言葉を、“政治家”とするなら、自殺した人はいた。
しかし小泉元首相や小沢一郎元代表は、自殺しないで生きている(笑)
アサヒコムの“盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の死”記事からいくつか引用する;
★ 韓国政治を、良くも悪くも分け隔てる存在だった金大中(キム・デジュン)大統領の後任を争う選挙で、盧氏は当時の与党・新千年民主党(現・民主党)の中でも前評判は高くなかった。しかし、公認を勝ち取り、一気に大統領の座を射止めることができたのは、古い政治に飽き飽きしていた国民の「変革」を求める思いが、かつてないほど強かったためだ。
★ ただ最近、多くの韓国国民を落胆させたのは、盧氏のクリーンなイメージの失墜だった。政治とカネの問題が保革両陣営ともに切り離せなかった韓国で、盧氏は清廉さだけは誇ることができると見られていた。だが、古くからの有力後援者が脱税で拘束された後、多額の金品を盧氏の妻が受け取ったことが発覚した。盧氏が帰らぬ人となったのは、検察当局の判断が注目されていた矢先だった。
★ 大統領在任中に秘書室長を務めた側近は会見で、盧氏は岩の上から自ら飛び降り、家族あてに短い遺書を残していた、と明らかにした。韓国メディアは盧氏が遺書で、「ひどく苦しかった。恨まないでほしい」などと心境をつづっていたと報じた。
(以上引用)
“政治とカネ”の問題が、“現在”だけの問題でないこと、また、“アジア特有の”問題でないことは言うまでもない。
しかし、この“自殺”は、やはりアジア的であるように感じられる。
しかし同時に、韓国社会と日本社会の“差異”が感じられる。
最初に書いた通り、ぼくは戦後の韓国社会の変遷に無知であるのだが、日本と比べて、その“米国との関係”がちがっていたことはわかる。
また、上記に関連するが、朝鮮は現在も分断された国家であることの、日本との差異を思う。
感覚的な言い方で申し訳ないが、そこでは(日本より)すべてがクッキリしているように感じる。
ぼくは、自分が知りもしない韓国-朝鮮について、ごちゃごちゃ言いたくはない。
ぼくが言いたいのは、“この国”、ぼくが生まれ育った唯一の場所の現状である。
それを(感情的に)ひとことで言ってしまえば、“日本という国は、小泉元首相のようなニンゲンが自殺しないですむ”国なのである。
この“事態”を、良いこと(成熟)と考えるか、悪いこと(嘘八百)と考えるかは、個人の判断(趣味-嗜好)である(らしい)
<注記>
”政治とカネ”の問題が、たんに、”カネの問題”でないことは、言うまでもない。
歌を歌う、昨日の気分で;
時には母のない子のように
だまって海をみつめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
時には母のない子のように
長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
時には母のない子のように・・・・
<寺山修司「時には母のない子のように」>
歌を歌う、今日の気分で;
山羊にひかれてゆきたいの
遙かな国までゆきたいの
しあわせそれともふしあわせ
山のむこうに何がある
愛した人も別れた人も
大草原に吹く風まかせ
山羊にひかれてゆきたいの
想い出だけをみちづれに
しあわせそれともふしあわせ
それをたずねて旅をゆく
<寺山修司「山羊にひかれて」>
床屋へ行こう。
ぼくは朝鮮-韓国の歴史についても、その戦後史についても無知である。
この盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領についても、あまり知らない。
だからこのニュースについて“論評”する資格はない。
ただ例によって、“勝手な感想”を記すのみである。
現在、“盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の死”が、自殺であるかどうかは確定していないが、遺書があったと報じられている。
ぼくのこのニュースを見ての、最初の感想は、なぜ戦後の日本の首相では自殺者が出なかったのか、というものである。
この“首相”という言葉を、“政治家”とするなら、自殺した人はいた。
しかし小泉元首相や小沢一郎元代表は、自殺しないで生きている(笑)
アサヒコムの“盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領の死”記事からいくつか引用する;
★ 韓国政治を、良くも悪くも分け隔てる存在だった金大中(キム・デジュン)大統領の後任を争う選挙で、盧氏は当時の与党・新千年民主党(現・民主党)の中でも前評判は高くなかった。しかし、公認を勝ち取り、一気に大統領の座を射止めることができたのは、古い政治に飽き飽きしていた国民の「変革」を求める思いが、かつてないほど強かったためだ。
★ ただ最近、多くの韓国国民を落胆させたのは、盧氏のクリーンなイメージの失墜だった。政治とカネの問題が保革両陣営ともに切り離せなかった韓国で、盧氏は清廉さだけは誇ることができると見られていた。だが、古くからの有力後援者が脱税で拘束された後、多額の金品を盧氏の妻が受け取ったことが発覚した。盧氏が帰らぬ人となったのは、検察当局の判断が注目されていた矢先だった。
★ 大統領在任中に秘書室長を務めた側近は会見で、盧氏は岩の上から自ら飛び降り、家族あてに短い遺書を残していた、と明らかにした。韓国メディアは盧氏が遺書で、「ひどく苦しかった。恨まないでほしい」などと心境をつづっていたと報じた。
(以上引用)
“政治とカネ”の問題が、“現在”だけの問題でないこと、また、“アジア特有の”問題でないことは言うまでもない。
しかし、この“自殺”は、やはりアジア的であるように感じられる。
しかし同時に、韓国社会と日本社会の“差異”が感じられる。
最初に書いた通り、ぼくは戦後の韓国社会の変遷に無知であるのだが、日本と比べて、その“米国との関係”がちがっていたことはわかる。
また、上記に関連するが、朝鮮は現在も分断された国家であることの、日本との差異を思う。
感覚的な言い方で申し訳ないが、そこでは(日本より)すべてがクッキリしているように感じる。
ぼくは、自分が知りもしない韓国-朝鮮について、ごちゃごちゃ言いたくはない。
ぼくが言いたいのは、“この国”、ぼくが生まれ育った唯一の場所の現状である。
それを(感情的に)ひとことで言ってしまえば、“日本という国は、小泉元首相のようなニンゲンが自殺しないですむ”国なのである。
この“事態”を、良いこと(成熟)と考えるか、悪いこと(嘘八百)と考えるかは、個人の判断(趣味-嗜好)である(らしい)
<注記>
”政治とカネ”の問題が、たんに、”カネの問題”でないことは、言うまでもない。
歌を歌う、昨日の気分で;
時には母のない子のように
だまって海をみつめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
時には母のない子のように
長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
時には母のない子のように・・・・
<寺山修司「時には母のない子のように」>
歌を歌う、今日の気分で;
山羊にひかれてゆきたいの
遙かな国までゆきたいの
しあわせそれともふしあわせ
山のむこうに何がある
愛した人も別れた人も
大草原に吹く風まかせ
山羊にひかれてゆきたいの
想い出だけをみちづれに
しあわせそれともふしあわせ
それをたずねて旅をゆく
<寺山修司「山羊にひかれて」>
床屋へ行こう。