Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

政治家と美女、あるいは、朝日新聞の文化擁護

2009-05-15 23:40:10 | 日記
なんかひじょうに疲れて、“アレ”についてのブログを書いたあと寝てしまって、ブログの夢を見ていた(笑)

起きて、アサヒコムを見たら、興味深いネタがいくつかあった。

やはりまず一国の首相に登場ねがう;
《8月に西インド諸島のバハマで開かれる世界大会ではスピーチ力も審査されると説明を受けた首相は、政治家の演説を引き合いに出し、「人の気持ちを瞬時につかみ取るスピーチが必要だ」と助言したという》(引用)
首相が誰に助言したかは、どうでもいいが、“美女”らしい。

次ぎ。
《「父や祖父が女好き。そのDNAがボクにもある」と話していることについて、甘利行政改革担当相が15日、閣議後の記者会見で痛烈に批判した》(引用)
甘利行政改革担当相が誰を批判したかは、みなさんごぞんじの通り。
今朝ぼくが引用した天木直人氏によれば、《鴻池のような女狂いの不道徳な人間を官房副長官に居座らせたのは麻生首相だ》というような表現もある(笑)

今日家に来ているヘルパーが、このニュースに怒っていたが言葉が見つからないようなので、妻が“恥を知れよね”と言ったら、そうだ!と言ったそうだ。

“女好きのDNA”

なかなか傑作な“定義”だと思うが、別に“女好きのDNA”が“ある”ひとは、めずらしくもない。
めずらしいのは、こう公言する“神経のDMA”である。
そういうDNAをもったひとでないと“政治家”になれない、この国のDNAが問題である。

ぼくにこのDNAが“ある”かどうかに関心がある方もおられないだろうが、ぼくの場合、はなはだ困ったことであるが、“美女”にしか関心がない。
しかも、ぼくが“美女”と感じる基準は、あまり一般的とは言えない。

たとえば林真理子という女性がいるのだが、彼女は自分のブログの“林真理子名言集”にこう書いている;
《「美貌こそ女の歴史であり、いちばんわかりやすいパーソナリティなのである」》『皆勤賞』(文春文庫)

この“わかりやすい”言葉は、上記のぼくの“趣味”を裏づけるようではあるが、この言葉を“林真理子名言集”として掲げる、林真理子の神経(DNA?)が美しくない。

まだある(笑)、このひとは自分を絶賛した中森明夫とかいうどっかの馬の骨の文章も自らのブログに引用している;
《この本を手にした貴方は幸せです。これは自らの欲望が時代の欲望を体現してしまった一人の〝運命的な女(ファム・ファタル)〟の物語。彼女は生き、愛し、書いた。それはペンとインクとばかりでない。自らの幸福のみならず、人の幸福に対してさえひときわ感応的な女性の目に浮かべた・・・・・・幾滴かの水分によっても書かれている》(引用)

絶句(笑)

まだある!
森光子の『放浪記』を見に行った感想の末尾;
《ところで『放浪記』は林芙美子の人生を描いたもの。
先日昭和のことを書いた五木寛之先生の本の中に「林芙美子というのはいまの林真理子さんのような人気作家」という一行がありました。私の自慢、 覚えててね》(引用)

覚えてねーよ。

それにしても中森明夫とか五木寛之先生というのは、どういう趣味なのかね。

しかし(最後に!)いよいよ朝日新聞の登場である。
林真理子さん“話題の阿修羅展”へ行く;
《話題の阿修羅展を見に上野の国立博物館へ。
昨日は閉館日で朝日新聞の特別招待日でしたので、ゆっくりじっくり阿修羅像を拝見できました。本当に凛々しいいいお顔。誰かに似ていると想ったら、十代の貴乃花でした。 そう、りえちゃんと婚約した頃のね》(引用)

すなわち、朝日新聞社は、林真理子のようなブンカ人を“閉館日に特別招待”しているのである。

阿修羅像を見た林真理子氏の感想は;
《誰かに似ていると想ったら、十代の貴乃花でした。 そう、りえちゃんと婚約した頃のね》というもので、ござんした。

こういう女(ヒト?)が、朝日新聞や“日本の”文化を支えているのだよ。

美人薄命とならぬよう、祈りまする。



SPANISH KEY

2009-05-15 19:44:08 | 日記


仕事の帰り、紀伊国屋書店にも寄らず、喫茶店にも寄らず、まっすぐ帰ると、まだ空が明るいのであった。

きょうは、ずっと“アレ”について考えていた。

つまり“もしもあんたが、<アレ>を持ってたら、ああ、つきあいたい”という<アレ>ではなくて、もっと別の<アレ>である。

これまでのぼくの生涯を振り返ると、もっとはやく<アレ>について分かっていたら、俺の人生はちがっていただろうなー、と思うことがある。

まあ、こういう<アレ>もいろいろあるといえば、そうもいえるが、結局いちばん肝心な<アレ>は、“アレではないか”と思えるのである。

ぜんぜん関係ないが、今日駅からの帰り道(15分くらい歩く)で、考えていたのは、マイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」というアルバムに収められた、“スパニッシュ・キー”という曲の“タイトル”のことだった。

このことは、先に書いた<アレ>とは、直接関係がない。
しかし、あのアルバムのジャッケトのイラストは思い出した。

最近マイルスの名をぜんぜん聞かない。
もちろん、コルトレーンもだな。
彼らの音楽は、こんなにあっさりと忘れられていいのだろうか。

<アレ>か<コレ>か、というのも、あったなー。
<アレ>も<コレ>も、になったのだろうか。

アレコレ迷ってきたなー。

ああ、アレ!

さて、この<アレ>とは、何だと思う?



読む、書く、話す

2009-05-15 08:38:13 | 日記
いま仕事に行く前で時間がないが、最新の天木直人ブログはよい。

“日本語”がダメなひと(読めない、書けない、話せない)ひとが、まともな人間ではないということだ。
もし“日本”とか“日本人”ということを言うのなら、“日本語”を読めて、書けて、話せることを意味する。

共感する部分を貼り付ける;

小泉元首相が自民党学生部のイベントで大学生の前で、「漢字が読めなくても、変人でも首相になれる」、とほざいたという。
 国民をなめきった発言だ。変人や漢字を読めない者でも確かに首相になれた。しかし、だからこそ、こんな日本になったのだ。変人や馬鹿が日本を壊した。
 メディアは鳩山だ、岡田だ、などと騒いでいる場合ではない。小沢院政などあってもなくても、もはやどうでもいいことだ。
 メディアが書くべき事は、小泉、安倍、福田、麻生の自公政権でここまで日本が崩壊してしまったことを書くべきだ。
 鴻池のような女狂いの不道徳な人間を官房副長官に居座らせたのは麻生首相だ。その責任を問われて、「健康まで任命責任なのか」と開き直るような麻生首相でいいのか。
 そうではないだろう。一日もはやく麻生政権を終わらせる事こそメディアは報じるべきだろう。
 自公政権では、もはや日本に未来はない事を書くべきだろう。
 見え透いた権力擁護や情報操作をしていると、今にテレビも新聞も消費者に見放されるぞ。
 視聴者、読者に見放されると、テレビも新聞も本当につぶれてしまうぞ。
(以上引用)


今日の天声人語は言う:

▼ 同時に無力感も募る。自分に何ができるのか。先ごろの小紙声欄に、30代の女性が「遠い地の虐殺1面で伝えて」と寄せていたのを思い出す。「私たち一人ひとりの心が世界の良心の一部であるなら、まず知ることから始めないと」とあった▼惨事を止めうる国際世論も、つきつめれば一人ひとりの良心となろう。そして無関心こそが大きな理不尽を許してしまう。何億分の1を担う気構えは、ささやかだけれど重い(引用)

しかし、現在、“この世界”に対して、“無関心で無知”なのは、この天声人語のようなメディアそのものである。

彼らは“ささやかだけれど重い”という日本語を、理解しないで使う。

ただ商売の習慣として使う。