Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

狂人日記(ブログ)

2009-05-18 17:21:16 | 日記
しかしぼくとしても、“なんなの、コレ?”と溜息をついていても、仕方がないのである。

ぼくは、“正義”が欲しいのだろうか。
“真理”が欲しいのだろうか。
“女”が欲しいのだろうか。

つまり、“そういうこと自体が”わからない。

ぼくは、ほんとうは、メクラめっぽうに生きてきた-生きているだけである。
ぼくが、本を読むのも(ほんとうは)、めくらめっぽうに、である。

たとえば、今日、Amazonマーケット・プレイスから本が届いた。
それは、高橋哲哉『国家と犠牲』(NHKブックス2005)という本である。
ぼくは高橋哲哉氏の本は、『現代思想の冒険者たち-デリダ』しか読んだことがない。
有名な『靖国問題』も買ってない。
つまり実は(このブログの良き読者なら明察の通り)ぼくは、“靖国問題”とか“護憲”とか“政党政治”とか“選挙”とか“安全な社会”とかに、“関心がもてない”のである。
ぼくの最近のブログは、むかしより、そのことに正直になってきている、と思う。

じゃあ、ぼくは何に関心があるんだろうか。
たぶん“暴力”には関心がある。
ぼくが“連続レイプ魔”的人間に関心があることは、わりと最近書いたはずである。
だから、そういう“異常者”とか“狂人”と呼ばれうる人々に関心がある。
それから、近代-現代の言説を読めば読むほど“性的倒錯者”と呼ばれうる人々に関心がある;プルースト、ジュネ、バルト、フーコー、パゾリーニ……まだまだいくらでもいる。
ぼくは、ときどき、自分が“倒錯者でない”ことを、残念にさえ思う(笑)
自分には、“情熱がない”ような気がする。

さて、高橋哲哉氏のこの本をパラパラと見ると、この本には“まともなこと”が書かれている。
ぼくは“まともなこと”にも、敬意を払っている。

あまり良い読み方ではないが、いきなり最後の章を読んでみた。
この章は、デリダの『死を与える』という本をモチーフとしている。
デリダのこの本をぼくは読んでいないが、それは、聖書の“アブラハムのイサク奉献”をモチーフにしている。

“アブラハムのイサク奉献”の話を、ぼくは聖書自体で読んだことがないのだが、この“話”は、いろんな所で引用されているので知っていた。
つまりアブラハムは、神の命令で息子のイサクを殺さなくてはならなくなるのである。
この聖書の記述の“読み”を通じて、デリダも高橋哲哉も(デリダの読みを通じて)、“「絶対的犠牲」の意味を問う”のである。

ぼくは、こういう“読みの連鎖”が無駄であるなどとは、思わない。
もしそう思うなら、ぼくは書を捨てて町にでる、だけである。
というか、“町に出ても”ナンモ面白いことがないし、テレビをつけてもナンモ面白いことはないのである。

この最後の章の最後に高橋哲哉氏は書いている;
★ 私の認識はこうです。あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なものへの欲望なしに責任ある決定はありえない、と。

なにを言っているかは、“わかる”。
それどころか、この言葉は、“ただしい”と思う。

次ぎの行も読んでみる;
★ 「あらゆる犠牲の廃棄」とは、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えることにほかなりません。わたしたちは「絶対的犠牲」の構造のなかで、しかし、あらゆる犠牲の廃棄を欲望しつつ決定しなければならないのではないでしょうか。

うーむ(笑)
ぼくはこの文章の以下の部分に、傍線をボールペン(青)で引きました;
★ 特異な他者たち
★ 普遍的に応える

ぼくは、高橋氏の言説を“揶揄”したいのではない。
ほんとうに(たんに)“特異な他者たち”とは誰のことか?と思った。
“普遍的に応える”とは、どういうふうに“応える”のだろう?と思った。

“この不可能なものへの欲望”
というのは、よい言葉だと思った。

そのあと(最後の最後)に、高橋氏は魯迅の『狂人日記』を取り上げて(引用をふくむ)いる;
★ 魯迅はしかし、「人間が人間を食う」社会に絶望しつつ、しかし希な(まれな)望み=希望への問いを最後に発したのでした。

なるほど(実はぼくは『狂人日記』を読んでない)、魯迅も“希望”を語ったのだ。
もちろんぼくはベンヤミンの言葉を思い出す;“希望なきもののためにのみ、希望はぼくらに与えられている”(ぼくが暗証できる数少ない言葉である;笑)

しかし、“希望”を語るものは、“狂人”であるのだろうか。


ぼくの次ぎの読書予定は、猿谷要『検証 アメリカ500年の物語』(平凡社ライブラリー2004)である。

その前に、髭を剃って、爪を切る。
これはなんの“儀式”でもなく、昨夜風呂から出てパンツ一丁で髭を剃っていたとき、妻が転んで、家具の角に額をぶつけて出血したためである。

今日夕食のあとには、“生ゴミ”も捨てよう。


<追記>

ぼくが読み続けている『ブリキの太鼓』だって、いっしゅの“狂人日記”である。

その書き出しは以下のようであったではないか;

《そのとおり、ぼくは精神病院の住人である。ぼくの看護人はぼくを見張っていて、ほとんど眼をはなすことがない。ドアに覗き窓がついているのだ。それなのに、看護人の眼は例の茶色なので、青い眼のぼくを看破することができない。》

つまりヒットラーのような狂人に対抗し、そうでない世界をもたらすためには、“別の狂気”が必要なのかもしれない。

なぜなら“ヒットラーのような狂人”とは、この世界の凡庸なものの極端化でしかないからだ。

かつて大江健三郎氏も以下の言葉を自著のタイトルとしたではないか;

”われらの狂気を生き延びる道を教えよ”



<再追記>

“狂気に汚染されていないもの”のぼくがモデルと考える(感じる)のは、バッハです。
とくにグレン・グールドのバッハ。

だから、ぼくは感覚の調整のために、グールドのバッハを聴いています。

モーツアルトには(ぼくはさほど聴いていませんが)、すでに狂気があります。
けれどもぼくは、“狂気”が悪いものであるだけだと、いっていないわけです。

もちろんぼくの好きなロックやPOPSに、どんな狂気があるかは、そういう音楽を無視しない方々には明瞭だと思います。


インフルエンザと坂本龍一

2009-05-18 13:49:24 | 日記
もしこの“インフルエンザ騒動”を、本質的に考え、その対策を考えるなら、それは“環境問題”として提起される。

“環境問題”という言葉が古いならば、<エコ>でもよい。

この“エコ問題”について、ぼくたちは、無意味な言説を死ぬほど聞かされてきた。

もし“エコ問題”という問題があるならば、それがぼくたちの生活を取り囲む(ぼくたちがそのなかでしか生きられない)“すべての環境の問題”であるなら、それは“すべての問題”として提起される。

それは“日本の海外線(という”風景“)が消えてしまった”というような、美的-情緒的感慨(ぼくはそれを軽視しない)から、“現実の”公害被害者の生存の問題としても提起される。

また、“環境はかわりうる~変えるべき環境もある”、というふうに言うこともできる。

つまり“エコ問題”において、おいてこそ、“あらゆる問題”が、たしかに提起される。
それは、ぼくたちの個々の生存の問題であり、ぼくたちの“子供たち、孫たち”の生存の問題である。

あらゆる問題を“解決”することに取り組むならば、その一歩は、その問題を“認識しよう”とすることである。
“認識”には、一般に、二つの側面がある;
① 情報(事実)を知る
② 事実に基づいて考える(事実にもとづいて想像力を駆動する)

以上のような“思考=志向=試行”においても、その個人によって“ウエイトの差”というものはあるだろうし、あってよい。

しかし“思考=想像=幻想形成”というのは、“実証的”にあるだけではない。
人間-自然に関する事象の“総体”を、“分析しきる”サイエンスなど、どこにもない。
そんなことは、“現役の科学者”自身がいちばん知っていることである(その科学者が“真摯で”あるなら)

もちろん、ぼくは、“オカルト”を導入しない。
ぼくたちが“生きてきた”体験-経験こそ、まさに“実証的”なのである。

けれどもその“実証性”だけでは不充分であると“認識”したとき、ぼくたちは、ある問題の核心を“言葉”とする。

いちばんシンプルな言葉は、ぼくにとってはこうである;
“エコ問題の核心は、国家権力と資本である”

これは、あまりにも正しくて、“何も言っていない”ほどの命題である(笑)
ここから“すべては始まる”のである。

しかし、この“命題”の手前で、あるいは、この命題に気づかぬ振りをして、あるいは、この命題に気づかぬほどの馬鹿が、堂々と、発言している。

というか、いまマスメディアで発言している輩は、みなそうではないか。

最近の不破利晴ブログは、坂本龍一という名の馬鹿を取り上げている;

★ 2009年4月25日、土曜の朝日新聞「be on Saturday」のトップは「坂本龍一」であった。そして、『「エコはファッション」でいい』と題された最近の坂本龍一が展開するエコロジー活動記的記事に、圧倒的嫌悪感を感じている(不破ブログより引用)

さらに不破ブログから引用しよう;
★《「水道水をください」。ニューヨークの高級レストランでボトル水は飲まない。「セレブがやり出して広まっているんですけど。トレンドだけれども、そこにあるのはとてもまじめな考え方です」。格好良さがないと、続かないし、広がらない。
 「エコはファッションであっていい」と言い切っている。》
~2009年4月25日 朝日新聞「be on Saturday」より~

ぼくはこういう坂本の発言およびこういう発言を“セレブの発言”として持ち上げて、それが“エコ問題”解決の役に立つがごとき虚偽言説を掲げ続ける“朝日新聞”に“圧倒的嫌悪を感じる”から、購読を昨年暮れでやめたのである。

もちろん“坂本龍一だけ”ではないが、このような無思考=無倫理なセレブどもが、“環境”を破壊している。

“エコはファッションでいい”

まさに。
ぼくも“ファッション”は、大好きである。

ぼくには自分の着るもの、携帯するものに“無頓着”であっても(あってこそ)、正しい生き方ができる、などという“古典的”発想とライフスタイルはない。
ぼくの“ファッション”が、他人からみて、“なんなのアレ”と見えようと(笑)、ぼくのファッションこそ、ぼくの63年の人生の表現である。

だから坂本龍一とwarmgunの“差異”は、ファッションの差なのである。
ファッションの差と言説の差は、同じものである。

そういうことが“わからない”ひとは、いかに“古典”に通暁していても、“現代人”ではない。



Bang Bang !

2009-05-18 11:20:48 | 日記

現在。

現在のヤフーニュース・総合アクセス・ランキングを見ると、“二つの話題だけ”が入り乱れている。

ひとつが“新型インフルエンザ”であることは、報道姿勢や内容に問題があるにせよ“当然”である。

しかしもうひとつの“松本人志”というのは、何なんであろうか?

こうもこの二つが、ならべてランクインしているのを見ると、松本人志とインフルエンザには“関係がある”のではないか?というような疑問が生じるのである。

つまり、両方とも関西から拡がっている(笑)
高校生から発症している。

つまり、現在日本において、“インフルエンザ”感染が拡大するルートと、“情報”感染が拡大するルートは同じである(同じではないか?)

だれにとっても、インフルエンザが“敵”であることは議論の余地なきことであるが、“お笑い”が敵であることは、議論の余地あることであるらしい。

ぼくにとっては、どっちも“バイキン”みたいに思えるがね。
“ウイルス”にだって、人類を絶滅させたいなどという“意思”があるわけではないだろう。

まあ、ジョーダンですよ。
ぼくは、この世になにが流行ろうが、関係ない。

ぼくやぼくの妻が、ころっと感染するかもしれないし(年寄りはなぜか感染しにくいようだが;笑)

しかしウイルスに感染しなくても、ぼくは昨夜、妻と救急車に乗った。
その前、ぼくはタオルを冷たい水であらって、水が血の色に満たされるのに、動顚した。

ぼくが救急車に乗ったのは2度目だった(前は、ぼくが現場所長をしていた“現場”職員が癲癇だったのだ)

危険はどこにでもある、というべきだろうか。
ぼくは、けっして冷静であることは、できない。

むしろ“呆然”であった。

Bang bang, I hit the ground
Bang bang, that awful sound
Bang bang, my baby shot me down.