Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

男がみた夢

2009-05-08 00:30:32 | 日記
★ その男の考えていることは単純至極の事だった。その時壁に向かって自分は壁のしみが何に見えるか考えていた。
それはまず薄い霧のようだった。霧はたちまち雨となって地表を襲った。雨の粒に雹が混じってもいた。角のとれた雹は女らが育てた里芋の葉に穴をあけた。その男は自分と同じように秋幸も刑務所の中でそうやって時を遊んでいるだろうと思った。(一滴)

★ その男は世迷い言を考えた。
終戦直後、その男は若く、背丈だけが高かった。女は男の無作法を詰った。ある時、勝った賭博の金で、女と一緒に外で飯を食った。親子どんぶりだった。その男が差し向かいの女に気をきかして、「吸い物もとろか」と訊くと、女は「うん」とうなずき、その男が飯の上に立てた箸に手を伸ばして取り、「はい」と差し出す。葬式飯にしか箸を立てるものではない、と女は言った。(筋肉)

★ その男は部屋に閉じ籠ったまま眠っては呻き起きては呻いた。食い物を食べてないために、男は現と夢の境目を行き来しているのが分かった。男は爪をやたらに切りたくなった。髪が長くなりすぎていた。男は大声で一人言を言った。男は部屋の中を歩きまわった。ベッド代わりにしたソファに疲れて横たわった。汗が吹き出た。その汗に体を浸したまま、男は、秀雄が黄泉からここへまっすぐ歩いて来るのを待った。時々、孫一が話しかけた。孫一は片脚を引き摺りながら男の足元に坐り、無精髭を撫ぜ、「南無六文字じゃわいよ」と言った。(水)

★ 更に男は闇にいた。いや闇にいて、樹木が日に光り、樹木の緑が雫になって滴るのを見ていた。男は木を一通り見ただけで、その山に生えた樹木がいくらの金を生み出す材木となるか、判断出来た。男に、自然などなかった。男の眼に映る緑の山は、植林し、下伐りし、枝払いして育てた商品としての材木だった。商品に仕立てたのは人間だった。男は眠る度にその山の夢を見た。山の夢に寝汗をかき、呻き、叫んでいた。男に山の夢が悪夢でも何でもないはずだった。だが呻く。樹木、材木が繁り、日を受けている。男はその夢から醒めてなお、その手に杉の幹の手触りを感じた。男は手触りを感じながら山を這うように歩いている者らを考えた。枯木灘海岸から中辺路へ。更にそこから日の当たる海にひらけた土地へ。(半身)

★ 男はなおも呻いた。女らのことごとくに言った。産むよりほかに何が必要か。何もない。月に一度血を流すほかに、女に血を流すことなど何もない。孕み、その流す血を溜て七倍に増せ。男は、フサが子供を孕んだ時、うれしいと思った。いやヨシエが孕み、キノエが孕んだ時もそうだった。男はフサを抱いた(略)そのフサが産んだ子が、炎の子なのは、男は解かった。フサは孕んだ間にも内に無数の炎を蓄えた。(炎の子)

★ 男は自分が何を怒っているのか、怒りがどこからやってくるのか分からぬまま、ソファに寝そべり、起き上がり部屋の中を歩きまわった。部屋に幾夜、闇が訪れたのか、印しをつけたカレンダー以外、確かめるすべがなかった。(種子)

★ 男は風呂に入りたかった。だが風呂場は男の部屋から廊下づたいに、台所脇にある。秀雄の血のにおいをつけ、秀雄の死を身に引き受けた体で、外に出るのが嫌だった。男は部屋の中で裸になった。男は身につけていたシャツを引き裂いて、そのまま便所のドアをあけた。外光に眼を閉じてノブを引っ張り、便器の水を代え、シャツを裂いて作った布をその水に浸し、まず顔を拭った。首筋を続けて擦ると、垢がポロポロ出た。布は垢で黒ずみ、男は便器の水ですすいだ。胸に力を入れ、肌が赤銅色になるまで擦り、次は腹だった。腹は三度水ですすぎ、次に腕だった。刺青がとれるほどの強さで擦り、その次は背中、股間、尻、両脚の順だった。男は葬儀の夜から数えて七日七夜、通夜の日から数えて九夜を、部屋で過ごしたのだった。(日の外)

★男は立って見ていた。盥に張った水を掻きまわしていたその子は男を見つめた。名前が何だったのか知らなかった。いや、度忘れした。男は盥の前に一緒にしゃがみこもうとした。ふと、女が路地の家の中から走り出て来てその子をかき抱き連れ去る気がした。それで立ったまま子供を見つめた。眼が深く暗い。男は、ふと遠い昔、自分にもそんなことがあった気がした。井戸の水がにおった。子供は顔を背けて盥に手を入れ、水を掻きまわし始めた。水の音が立った。男は思いつき、そうでないかもしれない思いながら言った。
「アキユキ」
子は、手を休めず、眼を上げた。(日の外)

<中上健次『覇王の七日』>



<語りえない>

1992年、信濃町の病院を訪れたわたしにむかって、中上健次は秋幸のその後の物語を書く構想をはっきりと語り、台湾への取材旅行を計画しているという。わたしはもう彼にはいくばくもの時間が残されていないことを直感する。いったい彼が現在進行形のこと以外を語ったためしがあっただろうか。過去や、あるいは未来に言及したことがあっただろうか。秋幸はもう一度路地に帰ってくるのだ、と中上は宣言する。だがわたしは、この断言ゆえにそれがもはやありえないことを確信する。

<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 中上健次の生涯”>