Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Not Found

2009-05-31 05:31:07 | 日記

昨夜は早く寝たい気分なので、ブログをひとつ書き、数時間前に参宮橋歩道橋で撮った泰山木の写真を出して、寝た。
今朝起きたら4時前であった。

いま“思い出して”、Doblogの自分のブログをクリックしたら、“Not Found”であった。
ついにwarmgunは、“Not Found”になったのである。
ここで、笑うべきであろうか、泣くべきであろうか。
warmgunは“gooブログに移行した”のであるが、やはりwarmgunの一部は死んだのだ。
つまり“ひと”は、このように少しづつ死んでいくのだと思う。

こういう“認識”を認識というのであって、天声人語が毎日書いている“言説”などは、なんの認識でもない。
あんなものは、“マシーン”の永久稼動運動であって、そこにはなんの“生身”もない。
ただ惰性で“言説機械”が、毎日“状況”に自動的に反応して、“言説”を缶詰のように生産しているだけである。

そこには“生き物”の気配がない。
ただのいじましい“欲望機械”があるだけである。

この欲望機械の“欲望”が、“機械”でしかないのは、まさに、彼らが自分の言説を、“多数に支持されるもの=多数をかさに着るもの”として発し続けていることだ。
かれらは、けっして、“自分の言葉”を語らないし、語ることができない。

もともと“受験-出世マシーン”として生産されたものに、自分の言葉があるはずがないのである。

なによりも惨めたらしいのは、かれらの欲望の陳腐さである。
昨夜引用した天声人語を、もう一度読む;

《そもそも、先に分割を唱えたのは、本日83歳を迎えた読売新聞主筆のだ。同紙も「再編で国民の信頼を取り戻せ」と促した。大連立騒動の黒衣役といい今回といい、衰えぬ政治への情熱、生涯現役の記者魂には恐れ入る。仕えるご同輩も心強かろう▼暮らしに縁の深い官庁が「総身に知恵が回りかね」では困る。肥大を案じるのは渡辺氏だけではあるまい。それに飛びつくのはいいが、首相が口にするからには、風雪に耐えて旗を掲げ通す覚悟がいる。夕立の祭り提灯(ちょうちん)ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない。》(引用)

さて、ここにはいかなる“欲望”があるだろうか。
実は、天声人語氏も、“総身に知恵が回りかねる”官僚政治を出し抜いて、“大連立騒動の黒衣役”とか、“厚労省分割”の仕掛け人になりたいのである。

そういうのがジャーナリストの“衰えぬ政治への情熱”だと思っているのである。
つまり、いま朝日新聞のようなマスメディアにいる人々は、いつも自分で書いているような“謙虚”な人々ではぜったいにないのである。

かれらは“読者=大衆”を操りたいのである。
そのために動員されるのが“あの”連日の、“わたしはしがない庶民と同じです・・・”言説である。
かれらは、けっして、自分を“しがない庶民”などとは、思っていない。
自分は優秀な学校を出て、優秀な企業でキャリアを築いた優秀な人間であり、そのへんの庶民の会ったことのない人物と“お話したり”、そのへんの庶民の行けない場所にも行ったことがあるなどとの、“自負”をもっている。
つまり“読者=庶民”など、バカにしきっているのである。

だからかれらが連日考えているのは、“バカな読者”に、いかに新聞を買わせ、“しかも”、この読者を自分の望む方向に誘導できるか、のみである。

ぼくは、こういうこと自体が不快だが、いちばん不快なのは、かれらが“嘘つき”であることである。
まだしも、かれらが“自分の欲望”(つまりバカな大衆を誘導する)を率直に表明するなら許せる。
彼らが、連日書き散らしているのは、その反対の言説ばかりである。

ぼくが子供のころには、“嘘つきは泥棒のはじまり”という言葉が生きていた。
また、“泥棒”というのは、恥ずかしいことだった。
そういう羞恥心のない人々が、おどろくほど増えたのである。

なにが“嘘”であるかを、哲学的に考えるとかなり難しいことになるのだが、そういう“次元”を超えて、人間には人間としての最低のモラルの“本能”があると思う。
その“本能”さえ、壊れたのか。

いやまさに、その本能を喪ったものたちが、“自分を正当化する嘘”を撒き散らしている。

ぼくたちは、けっして正しく生きることなどできないから、せめて、正直であることが必要である。

いったいぼくたちは今、なぜ“言葉を発している”のか。
それが、ぼくのそもそもの“疑問=課題”である。

なぜいつもいつも“相手に調子を合わせる”のみの言葉しか存在しないのか。

私が、あなたに伝えたい言葉とは、いったい何であるのか。

私の言葉が、決して伝わらないなら、それは何故であるのか。

そういう“課題”をほうっておいて、いかに政治-社会について、百万言を弄してもまったくの無駄としか思えない。

いつまでも長くて退屈な映画を永久に見せられているだけである。

以上は“新聞の言説”について書いた。
ならば“テレビの言説”とは、何であるのか。

もちろんテレビの言説も新聞の言説と同じであるという事態がまずある。

しかし、それはもっとひどい。
彼らは(テレビは)、“いっしょにバカになろうね!”と扇動している。

まるでバカであることが、“人間的”であるかのように。

みんなが一緒にバカになれば、“安心”であるかのように。

“バカの、バカによる、バカのための”テレビ。

たしかにこのテレビの標語は、“民主主義”に似ている。


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