Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ケチな爺さん

2009-05-13 11:23:33 | 日記
鴻池祥肇(こうのいけ よしただ)という爺さんが辞表を出したというニュースが報じられている。

こういうニュースは日常茶飯事であり、誰もおどろかないだろうが、この報道姿勢について朝日新聞に疑問を感じたので、アサヒコムと共同通信の記事を並べて貼り付ける。
読めば明らかなように朝日記事には“女性問題”が辞任原因として報じられていない。
つまりこの朝日記事では鴻池という政治家は、“JR無料パスを使って私的旅行”しただけのケチなジジイでしかない。

さらに参考として鴻池祥肇氏の最新ブログ(今年1月5日付)も貼り付ける。

まったく、こういうひとは、“お笑い”である;


<鴻池副長官「健康上の理由」で辞表 無料パスで旅行報道>アサヒコム2009年5月13日10時19分 
鴻池祥肇(よしただ)官房副長官(68)=参院兵庫選挙区=が河村官房長官に辞表を提出し、受理された。政府高官が13日、明らかにした。鴻池氏は健康上の理由での辞任としているが、同日発売の「週刊新潮」に国会議員の公務用に支給されるJR無料パスを使って私的旅行をした問題が報じられており、責任をとったとみられる。

<鴻池官房副長官、女性問題で辞任 後任は浅野氏>2009/05/13 10:31 共同通信
鴻池祥肇官房副長官(68)は13日午前、河村建夫官房長官に辞表を提出し、受理された。同日発売の「週刊新潮」で知人女性との宿泊旅行が報じられたことの責任を取った。政府関係者によると、鴻池氏は「間質性肺炎」のため12日に入院し、辞表は「健康上の問題」を理由に挙げた。
麻生太郎首相は、後任に自民党麻生派の浅野勝人参院議員を充てる方針。13日中に持ち回り閣議で決定する。
鴻池氏は首相の側近議員。1月にも女性問題が報じられ、河村氏から厳重注意されていた。麻生内閣では、中山成彬前国土交通相や中川昭一前財務相が問題発言などで引責辞任しており、首相の任命責任があらためて問われそうだ。
浅野氏はNHK記者を経て、1990年に衆院旧愛知5区で初当選。衆院議員を3期務め、2004年に参院愛知選挙区に転じた。外務副大臣や自民党人事局長などを務めた。


鴻池だより 第367号 21.1.5
「伊勢神宮」
「この聖地において、私はあらゆる宗教の根底的な統一性を感得する」と毛筆で記帳されたそうな。トインビー博士が昭和42年(1967年)五十鈴川の流れに手をひたし、本殿で礼拝の後のことだそうです。
大正11年11月18日、アルバート・アインシュタイン博士は来日後、まず、伊勢神宮を参拝。「近代日本の発展は、世界を驚かせた。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が、世界の一箇所くらいなくてはならないと、考えている。」
ご存じの通り、アルバート・アインシュタイン博士は、ユダヤが生んだ偉大な科学者のひとり。ユダヤ人は、長い長い間「世界を流浪」することを強いられた民族であり、インターナショナルを信ずる民なんですよね。
「伊勢神宮」の内宮が、現在の地にお祀りされて2000年、1300年前からは現在と同じ社殿。20年毎の遷宮は実に、61回を経た。
昨日、麻生総理大臣の「伊勢神宮」参拝のお供を致しました。大勢の人々の「麻生頑張れ」の声援に心強く、嬉しい限りでもありました。
今日の日本が直面している問題は、経済の再生や、行政改革の成否といった問題だけではない。財政、政治、官僚等々果てしない低迷、治安の悪化。そして何よりも教育の崩壊。これらの山積することどもは、すなわち「国家観の喪失」「歴史観」の問題に戻り着く。紀元2669年日本の歴史が始まって以来の、ゆゆしき「きのう、きょう」のことどもである。
「真っ当な教育」で伝統、文化を大切にし、道徳を重んじ礼儀正しく勤勉。親孝行で、優しい心、許す心の持つ日本人を育てよう。ディズニーランドに行くなら、まず「お伊勢さん」に子供を連れて行こう。日本はいい国柄です。
今日から国会が召集されました。午後から天皇陛下にご臨席頂き、開会式が行われました。 あなた様にとりまして、素晴らしい一年でありますように。今年も宜しくお願い致します。 1月5日 午後3時 官邸にて

(以上鴻池ブログから引用)





さて、みなさん(笑)

コウノイケ氏にとって、今年が”素晴らしい一年で”あることが、決定いたしました。

なにしろニッポンは、”いい国柄”なんですねー。



宮台真司と“日本の難点”

2009-05-13 05:46:59 | 日記
さて、昨夜は下記ブログ予告通り、早く寝たのだが、悪夢ばかりをみつづけたようだ(記憶してない)
それで朝4時前に起きてしまい、不破利晴ブログを見たら宮台真司とかいう“社会学者”の『日本の難点』という新書からの引用があった;

《加えて、僕の持論を言えば、「軽武装・対米依存」から「重武装・対米中立」へとシフトするべきです。重武装とは、対地攻撃能力を中核とした反撃能力による攻撃抑止能力を備えることです。それには専守防衛の憲法九条を変える必要があります。》
《敵が日本に上陸している時点で既に「負け」です。先の大戦において沖縄では地上戦でたくさんの人が死にました。それと同じようなことを繰り返すのが平和主義といえるでしょうか。》
(以上宮台真司 『日本の難点』からの引用)

これを読んでぼくの目が覚めたであろうか?
そんなことはない。

ぼくは宮台真司という“学者”の本をちゃんと読んだのは、1冊だけだが、“有名”なひとなので、なんとなく“イメージ”はあった。
上記の引用文は、ぼくのそのイメージをまったく裏切るものではない。
“援交男”が、“日本重武装”などと言い出すことは、“社会学”を勉強しなくても明瞭である。

しかし、宮台氏は“社会学”の有名人で、“理論武装”しているらしから、不破君のように“宮台真司を越えるという野望”を持つのはおおいにけっこうだが、ぼくのようにあまり時間がない(つまり生きている残り時間が)には、むずかしい。

ぼくが、宮台氏にこだわるとしたら、彼が“映画好き”であるらしいことぐらいだ。

とはいえ、この本がいくら安くても買う気はないので、この『日本の難点』という本が、どんな感じなのかをAmazonの“カスタマー・レビュー”というので見てみた;

★サンプル1
宮台さんの熱心な読者です。教員であれば、彼の著作は読むべきでしょう。生徒に伝えるべき内容が豊富に含まれています。それにしても、読後の印象は「優しさ」です。舌鋒鋭いので、表面的には、過激で、怜悧に感じますが、根底にあるのは、深い「優しさ」です。それにしても、後半に柳田国男翁がでてくるのには、正直びっくりしました。もちろん、フィールドワークや沖縄といったキーワードから連想できなくもないのですが、農政との関わりで出てくる部分は、何か大きく円環してきて、テーマが現れるような感銘を受けます。大江健三郎も、座右に柳田国男があるそうですし、京極夏彦氏の著作にも柳田国男の影響があります。また、宮台氏は日本では右翼も左翼も一緒、と発言されていますが、本当にそうですね。愛国を掲げる人たちが、無条件にアメリカの片棒を担ぐ人たちを支持するのは理解に苦しみます。本当に愛国心があるのであれば、本書にあるような「戦略的な立ち振る舞い」こそ必要になるはずです。「未来のための謝罪ならOK」わかりやすいと思います。宮台さん、頑張ってください。もちろん即購入すべき本です。ちなみに、私は竹田青嗣の「人間の未来」と並行して読みました。ヘーゲルやマルクスの援用の仕方の違いがそれぞれ楽しかったです

★ 上記に対するぼくの感想;
① 柳田國男???大江健三郎は柳田國男以外も“座右に置いている”と思う。
どうしてここに京極夏彦などという三文文士の名が出てくるのだろうか?
柳田國男について書いた本なら、内田隆三『柳田國男と事件の記録』という宮台の先輩の“社会学者”が書いた良い本があるが、この本は売れなかったとみえて、絶版である(笑)
② 宮台真司の“優しさ”ですか-これが問題だ(笑)
③ “日本では右翼も左翼も一緒”というのは、ぼくと同意見である。
④ “本当に愛国心があるのであれば、本書にあるような「戦略的な立ち振る舞い」こそ必要”というのが、ペケ。
⑤ ぼくもたまたま、竹田青嗣の『人間の未来』は読みました。
この本については、このブログになってからも書いたはず、この本もペケです。

★サンプル2
はっきり言って、難解きわまりない。主張は具体的で、明確。でも、その根拠になると、突然、聞いたこともないカタカナ学者の翻訳語(それも三文字以上、抽象度高)が二重、三重に使用される。それでも、直近のオバマ当選の背景やら、後期高齢者医療やら、秋葉原事件やら、環境問題やら、拾い読みできる部分は十分楽しめるから、お買い得かも。ただ、アメリカ論、日本論と比べると、幸福論、教育論はついていけないところが多かった。社会システム論にケチをつける気は毛頭ないのだけど、いいところで、宮台先生の体験的教育論(麻布高校自慢とか、高偏差値大学自慢とか、親ばか丸出し!の自分の娘自慢)を聞かされるのには、いつもながら閉口する。

★ 上記に対するぼくの感想;
①“お買い得”の本を書くのが、“現在日本学者”の商売なのね。
②どうして“社会システム論にケチをつける気は毛頭ない”のだろうか。
ぼくは“社会システム論”をよく知らないけどね(笑)
③“宮台先生の体験的教育論(麻布高校自慢とか、高偏差値大学自慢とか、親ばか丸出し!の自分の娘自慢)を聞かされるのには、いつもながら閉口する”
そうだろうなー。

どうもぼくの偏見なんだろうが、宮台世代(いま50歳くらい)以下のひとたちって、“親バカ”なんじゃないの?
ぼくには、宮台社会理論より、そういうことが気になるね。

つまり、“親バカ”→“たんなるバカ”(爆)


はてさて、最近見るのを忘れていたが、宮台氏にはブログがあったのを思い出したので、見た;

■紀伊國屋書店(全国) :新書1位
■新宿ブックファースト :新書1位
■ジュンク堂書店    :新書1位
■アマゾン       :新書1位
────────────────────────
(5月2日午前9時現在)
全国の大型書店のほぼ全てで新書1位となった勘定です。
品薄化が進んでおり、ご迷惑をおかけいたしております。
(以上引用)

なんか、“学者のブログ”というより、“商店チラシ”の雰囲気ですね。

あった、映画の感想。
ぼくの嫌いなクリント・イーストウッドの新作を絶賛している。
ぼくは、前にブログで書いたことがあるが、イーストウッドの「許されざるもの」という映画が公開されたとき(もうずいぶん前だね)、ぼくの周辺の“ぼくより若い人”がみなその映画に“感動した”というのでびっくりした、ぼくは映画館に見に行ったのにさっぱり感動しなかったから(当時、ぼくも今より若かった;笑)

こういうことが、ぼくにとっては“社会理論”より重要な、“社会学的問題”(日本の難点!世界の難点でもよい)である。

いちおう宮台ブログから引用しておく;

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。
映画を見終わって──正確にいえば映画を見始めて数十分で──理由が分かった。そう。これは「いい映画」だ。本当の意味で人を打ちのめす。そんな映画は「いい映画」に決まってる。だからこそ「いい映画なんて観たくないものだ」と(特に日本人に)思わせてしまう。
■私は講演旅行を同行した東浩紀氏と同じように娘を溺愛しているらしい。自分ではよく分からないが周囲からそう言われる。だが映画を見始めて数十分で完全に打ちのめされた自分を感じつつ、「なるほど、やっぱり周囲が言う通りかもしれない」と初めて思ったほどだ。
■あまりにも打ちのめされてしまったので、帰宅するとき、妻に心配をかけまいと思って、音を立てずにこっそり自宅に進入した。その不自然な物音を聞きつけた妻が、ひどく心配顔で寝室から出てきて言った。「やっぱり打ちのめされちゃったのねえ」。滅多にないことだ。
(以上引用)

もっと長々と書いてある(ぼくのブログより長い!)のだが、なにをいっているのかほとんど、ワカラナイ。
映画の感想より、宮台氏の“家庭の雰囲気”がわかる文章である。

こういう文章を読んでのぼくの感想は、ひとこと、“くだらねーなー”というものである。
それは、ひごろ、ぼくが“この世代”に感じている“くだらねーなー”という“直感的感想”をフォローするものである(笑)


要するにぼくは、この宮台の本もイーストウッド新作も見たくない。

そういう“偏見”をもっていると、“老化”したり、“世間を狭くする”とか思われるかもしれないが、日頃このブログで述べているように、読む本も、見る映画も“無数”にあるのである。

つまり宮台氏の本より、イーストウッドの映画より、“よい本と映画”が、無数にあるのである。

限られた時間(すべてのひとにとってそうである)で、読みうる本と見うる映画には、“限界がある”のである。
ぼくが買わなくても、宮台氏の本はすでに売れている、イーストウッドの映画も。

ぼくが以上のように、宮台氏やイーストウッドを“批判”しても、せいぜい1日100人弱のひとが読むだけである。
宮台氏には印税がはいるが、ぼくの労働には一銭もはいらない。

これこそが、“日本の難点”である(笑)

つまり、宮台氏がわざわざ論じなくても、この国が、宮台氏のような人々によって“重武装”される未来が待っている。

宮台君にききたい;
“重武装”というのは、当然、“核武装”のことだよね。


結局、“宮台真司のようなひと”は、自分のカワイイ娘を“守る”ため、日本を重武装したいだけである。
それを“社会理論(他人が考えた)”を動員して、べちゃくっているだけである。

“娘がカワイイ”ひとの映画に過剰に共感するのみである。

“そういうこと”は、ひとりの人間の感情としては理解できる(善い)のである。
しかし、“理論”(つまり自分が“学者”である根拠)に対しては、不誠実である。

自分の感情でしかないものを、理論によってアリバイづくりするのは、“学者”として、サイテーである。

しかも、こういう詐欺によっては、“愛する娘”も守れない。
核爆発から、愛する娘のみを守る“シェルター”は、ありえないから。

こういう“事実認識”において、“宮台氏のようなひと”の認識は、突然“楽観的”になる(客観性を失う)のである。



<追記>

ぼくが、宮台氏についていちばん不可解なのは、イーストウッド新作評にあった以下のような部分である;

《私は講演旅行を同行した東浩紀氏と同じように娘を溺愛しているらしい。自分ではよく分からないが周囲からそう言われる。だが映画を見始めて数十分で完全に打ちのめされた自分を感じつつ、「なるほど、やっぱり周囲が言う通りかもしれない」と初めて思ったほどだ》

なぜ、宮台氏は“娘を溺愛していると周辺から言われる”ことが、映画を見て、” 周囲が言う通りかもしれないと 初めて思った“のであろうか?

50歳にもなって、この程度の“自己認識”しかないものに、どうして“社会認識(世界認識)”が可能なのだろうか。

やはり、”宮台真司のようなひと”は、あまったれているだけではないだろうか。




<再追記>

ぼくには“自己認識”があるので、上記ブログがすでに長すぎる(しつこい)ことは認識している。

しかし最後に、これだけは言っておきたい。

もし、“日本という社会”が変わる時がくるとすれば、ぼくではなく、女性という性をもつひとが、上記のような”娘を溺愛するバカ親父を批判しきる”ときである。

コイズミ構造改革やら、“自公か民主か”などという、“選択”では、この国を1ミリも“変える”ことはできない。

日本を“変革する”唯一の希望は、“女性の言説(感覚)”が変わることである。