Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

雨のトキオ

2009-05-29 21:32:52 | 日記
トキオは今日も雨だった、ね。

このブログを読んでくださっている方々は、“これを書いているひとは、なんてしつこいのだろう”と思われるかも知れない。
ぼくの“天声人語”批判である。
しかし、ぼくが“しつこい”のではなくて、天声人語や読売・編集手帳がしつこいのである。
毎日同じことを言っているから、こっちも同じことを言う。

今日の天声人語と読売・編集手帳の“憧れのハワイ航路”については、今朝5分で書いた。
まったくなにが“憧れのハワイ航路”であろうか!

昨日は書かなかったが、天声人語は以下のようなことを述べていた;
▼ 党首は表情、身ぶり、声色を含めた発信の技を問われる。一騎打ちともなれば、「何を言うか」以上に「どう言うか」が重い。初顔合わせはその点で、答弁慣れした首相が引き分けに持ち込んだかに見える▼何週間後になるか、投票日へと続く戦いが始まった。両者のやりとりは事実上の第一声である。あまりに短く、中身は浅く、ヤジも醜悪ながら、党首が言葉で切り結ぶ常道が戻ってきたのは喜ばしい。政党政治にはもう一つ、政権交代という常道があるのだが、さて。(引用)

なにが“さて”なのであろうか(爆)
まったく、神経を疑う。

ぼくはひとを殴ったことがないのだが(殴られたことはある;笑)、ぼくの隣でこのように“さて”などと言うひとが“今”いたら、殴るね。

ここで話題になっている党首討論などというものを、ぼくは1秒も見ておりません。
ぼくにもけっして見たくないものが、あるのである。
しかしぼくがここで言いたいのは、くだらない“党首”のことではない。

《政党政治にはもう一つ、政権交代という常道があるのだが、さて》
である。

前にも書いたが、なぜ天声人語は“次ぎの選挙での選択がある”とか“政権交代という常道がある”とか、言うのだろうか。
まるでそれが“民主主義”の唯一の可能性であるかのように。
これでは人民は、人参をぶら下げられて走っている馬と同じではないか。
しかも腐った不味そうな人参ばかりである。

腐った不味そうな人参しかなくても、飢えていれば食べられるとでも言いたいのだろうか。

しかもこういう“人参-馬”民主主義が、ぼくが物心ついた時から繰り広げられているのである。
もうウンザリ、飽き飽き、ゲンナリ、しょんぼり、してしまう。

しかし、まさに“しかし”、ぼくは絶望なんかしていない。
ぼくの状況認識では、ぼくが生きている残りの10年か20年の間に、日本の“政治-社会情勢”(つまり天声人語氏がとやかくいうレベルでの)は、悪くなることはあっても、良くなることはありえない。
ぼくはここ数年でそれを予感し、それは近日、確信に変わった。

“良くなる要素”などなにもないではないか(笑)
これは、個人的観測(感情)ではなくて、状況的認識である。

しかし(笑)、ぼくは“絶望”しない。
考えてみれば、ぼくが生きてきた60年間、ずっとそうだったのである。
そうであっても、ぼくは生きてきたし、個人的に楽しかったり、高揚したり、希望を持ったりしてきたのである。

マスメディアや“大衆の無意識”がなにを言おうとしったことではないではないか。
“アンタは夢、まぼろしのなかで生きている”とそしられようと、“そんなことは、あなたのビジネスではない”ではないか。

まあ、さいわい、ぼくは“年寄り”になりつつあるので、余生はわがままに自分の好きな幻想のなかで生きさせてもらうよ。

ひとつ“注記”しておくが、“内田樹ブログ”を批判してから、“大衆の無意識”という言葉がずっとひっかかって、考えていた(無意識にも!)んだが、今日ハタと認識に達した。

もし“無意識”というものがあるのなら、それは“大衆の”というような限定が付き得ないものなのだ。

それは、“大衆の”とか、“進歩的知識人の”というような限定より、もっと深く、根源的なものであるはずである。
まさに“ソレ”を“無意識”と呼ぶ。
フロイトもラカンも無意識をそうとらえたはずである。

内田樹のようなインチキ学者が言っている“大衆の無意識”などというものは、“大衆の意識”にすぎない。


さて。
さて、明日はバイト先の総会で朝がはやい。
雨はあがるだろうか、あがりそうである。
あがれば、まぶしい陽ざしがもどるであろう。
寝る前に音楽を聴こうか、“ホテル・カリフォルニア”はLPで持っていたが、結局、CDに買い換えてないのである。
延々たるギターの合奏を聴きたいのだが(ライブで聴いたのは幻)
グールドの“平均律”にするか。


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