Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

HOTEL CALIFORNIA再び

2009-05-27 22:44:21 | 日記
今週は土曜日にバイト先のNPOの総会があるため、ぼくも連日の出勤となった。
今日は昼からの出勤だったので、怒りのブログをひとつだけ午前中に書いたが、勤務先から帰って、パソコンを開いても、しんどくて言葉が出てこない。

本もここ数日、ぜんぜん読んでいない。
ツナミン・ブログの長文の“憲法と裁判員制度”の第1回は読んだよ、明晰な良い文章だと思う、みなさんも読んでください。

そこで、テレビの映画かドラマでもちょっと見て寝ようと思ったが、“内田樹の研究室”ブログ(福島みずほさんと会う)を見てしまった。

(実は今日も、“最近テレビで鑑賞した映画”シリーズで、「パルプ・フィクション」のこととか“書けないわけではなかったが”、やめた)

福島みずほさんは、どうでもよいのだが(前に国立駅前で握手しそうになったが)、本当にマー、内田樹というひとは、ぼくの“反対”のひとなのである。

以下3箇所引用する;
★政治家たち、とくに為政者は自分がどうして「こんなこと」を考えたり、言ったり、したりしているのか「言えない」のである。
けれどもまさに自分が現になしていることが「何であるか」を綱領的な言語で「言えない」という事実が自民党の長期政権を支えてきたのである。
なぜなら、その「言えないこと」こそが大衆の無意識的欲望に「触れている」からである。
★「言葉を持った自民党」はもう自民党ではない。
そんなものをうっかり綱領的に表現したら、驚くほどに貧しく卑屈な政治思想が露呈するだけである。
おそらくはその逆の構図として、旧左翼の側に(まだ予兆的ではあるけれど)「大衆の言語化できない欲望」への関心が芽生えている。
★ 自民党が「綱領的に・政治学的な語法で政治過程を語る」という野望を持ち始め、旧左翼が「大衆の無意識に触れなければ、どれほど表層的に整合的な言説でも、何の力も持たない」ということを感知し始めているとしたら、それが日本における「政界再編」のひとつの機軸になるだろう。
(以上引用)

要するに、“自民党”と“旧左翼”が対比されている。
内田樹がここで言っていることの核心は、“大衆の無意識的欲望”である。

その“大衆の無意識的欲望”に触れているか、触れてないかが、“「政界再編」のひとつの機軸になるだろう”ということなのである。

“大衆の無意識的欲望”は、“大衆の言語化できない欲望”とも言い換えられている。
さすが“ラカン派”ですね、バカ!(笑)

ぼくはこういう“分析”にこそ、ウンザリしている。

触れるも触れないも、“大衆の無意識的欲望”などというものは、存在していない。
ぼくは“ラカン”の解説書を数種途中まで読んだだけだが(笑)、ラカンならぜったいに、そう言う。
ゆえに、内田樹は、ラカンを理解していないだけでなく、“なにも理解しえない”。

吉本隆明が、かつて、“大衆の原像”などという世迷いごとを言って、結局、コケてしまったのと似たパターンである(似たパターンであるのであって、“同じ”ではないが)

“大衆”などというものは、どこにもいない。
ぼくは、このことを理屈以前に実感してきたが、中上健次を読むことで、その実感は強化された(というか確信に変わった)

“大衆”も“進歩的知識人”もいない。
そんなものは、学者とマスメディアがでっちあげた虚像である。

たとえばぼくが、近日引用したイーグルスの“ホテル・カリフォルニア”は、“大衆的な音楽”である“ロック”と呼ばれるジャンルから出現した。
その音楽と歌詞は、“大衆的”であろうか?

そのアイロニーと幻想は、進歩的知識人的であったり、大衆的であったりというような“分類”をはるかに超えているのだ。

それが60年代以降の“ポップ・カルチャー”の意味である。

しかし“大衆の言語化できない欲望”について、“言語”で語っている内田樹というひとは、いったいなにをしているのだろうか。

内田樹のような恥知らずの田舎者は、ほんとうに恥ずかしい。


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