辺見庸の新しい本をAmazonに注文した。
『しのびよる破局-生体の悲鳴が聞えるか』(大月書店)である。
これは、“NHK・ETV特集を再構成、大幅補充”したものとあるが、ぼくはこれを見ていない。
Amazonの“カスタマー・レビュー”から二つ引用(部分)したい;
<現代警鐘の書2009/4/19By長太郎(茨城)>
勿論私もこの特集番組を見た。ですから、番組を見た方にはこの本は、特別真新しい内容では無いし、再確認を出来る媒体の一つに過ぎないかも知れない。ところが、今回読んで判ったのは、番組で見聞きしていた筈の内容が、自身全然「理解」出来ていなかった言い換えれば聞き漏らしていた部分が非常に多かったことである。おそらく私はこの本を1度読んでも、未だ半分も理解していないのではなかろうか・・。それほど、内容の濃い深い深刻な問題を孕んだ本なのである。
先ず読み始めて判るのは、文章漢字部分が一部の単語(語句)を除いて殆ど最小限に使われており、その分平仮名が目立つことである。これは、たいへん読み易い。辺見氏は現在右手が不自由であり、言語ツールとして携帯電話を利用していることがあるいは影響しているのかも知れない。彼は自身で「携帯依存症」だと告知している・・携帯で「文章」を綴りそれをPCへ転送して書いている・・また、現在身体的にも歩行が困難な為に毎日毎日歩く練習を繰り返し行なっている。練習をいくら行なっても良くはならないが、怠ると悪くなる。だから「徒労」とも思えるような「自主トレ」を繰り返す・・それは、辺見氏の深い「思索」に繋がっているように思えてならない。それはまるで終わり無きような繰り返し反芻するような「思索」だ・・読んでいてその執念に私は打たれた・・・
<辺見庸というレンズ2009/4/19By adanama(東京新宿区)>
もともと聴衆を意識したものであるためか、 語りがとてもわかりやすく、その分ダイレクトに届く。
著者の視線は、世界恐慌から秋葉原事件に渡り、具体的な事象にふれながら、広告や資本による言葉に対する感覚の収奪、 世界と人間の生体との食い違い、それによる鈍化といった 彼なりの深い洞察に落ちていく。
辺見庸の言葉が特別なのは、 彼がすぐれた評論家や作家やジャーナリストだからではない。
私たちは、すでに習慣として、「言葉」に自分の体を賭けない。
毎日朝食を摂り、排泄し、眠るのと同じくらい日常的に、無意識に、賭けない。
しかし辺見庸は、至極逆説的にいえば、 その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間だ。
だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる。
私たちは、読むにつれて「著者の言葉にただ賛同したり反論したりする、ただのギャラリー」であることに耐えられなくなる。
本書は「自分たちの日常を自分の言葉で表現できなくなっている」万人に対する、すぐれた、そして切実な引導、スターターとしてあるように思う。
(以上引用)
2番目の引用にある、《だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる》という言葉に共感する。
《その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間》
たしかに。
しかし、こういう“人間”が、過去に(歴史上に)、いなかったのでは、ない。
“現在において”希少なのだ。
『しのびよる破局-生体の悲鳴が聞えるか』(大月書店)である。
これは、“NHK・ETV特集を再構成、大幅補充”したものとあるが、ぼくはこれを見ていない。
Amazonの“カスタマー・レビュー”から二つ引用(部分)したい;
<現代警鐘の書2009/4/19By長太郎(茨城)>
勿論私もこの特集番組を見た。ですから、番組を見た方にはこの本は、特別真新しい内容では無いし、再確認を出来る媒体の一つに過ぎないかも知れない。ところが、今回読んで判ったのは、番組で見聞きしていた筈の内容が、自身全然「理解」出来ていなかった言い換えれば聞き漏らしていた部分が非常に多かったことである。おそらく私はこの本を1度読んでも、未だ半分も理解していないのではなかろうか・・。それほど、内容の濃い深い深刻な問題を孕んだ本なのである。
先ず読み始めて判るのは、文章漢字部分が一部の単語(語句)を除いて殆ど最小限に使われており、その分平仮名が目立つことである。これは、たいへん読み易い。辺見氏は現在右手が不自由であり、言語ツールとして携帯電話を利用していることがあるいは影響しているのかも知れない。彼は自身で「携帯依存症」だと告知している・・携帯で「文章」を綴りそれをPCへ転送して書いている・・また、現在身体的にも歩行が困難な為に毎日毎日歩く練習を繰り返し行なっている。練習をいくら行なっても良くはならないが、怠ると悪くなる。だから「徒労」とも思えるような「自主トレ」を繰り返す・・それは、辺見氏の深い「思索」に繋がっているように思えてならない。それはまるで終わり無きような繰り返し反芻するような「思索」だ・・読んでいてその執念に私は打たれた・・・
<辺見庸というレンズ2009/4/19By adanama(東京新宿区)>
もともと聴衆を意識したものであるためか、 語りがとてもわかりやすく、その分ダイレクトに届く。
著者の視線は、世界恐慌から秋葉原事件に渡り、具体的な事象にふれながら、広告や資本による言葉に対する感覚の収奪、 世界と人間の生体との食い違い、それによる鈍化といった 彼なりの深い洞察に落ちていく。
辺見庸の言葉が特別なのは、 彼がすぐれた評論家や作家やジャーナリストだからではない。
私たちは、すでに習慣として、「言葉」に自分の体を賭けない。
毎日朝食を摂り、排泄し、眠るのと同じくらい日常的に、無意識に、賭けない。
しかし辺見庸は、至極逆説的にいえば、 その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間だ。
だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる。
私たちは、読むにつれて「著者の言葉にただ賛同したり反論したりする、ただのギャラリー」であることに耐えられなくなる。
本書は「自分たちの日常を自分の言葉で表現できなくなっている」万人に対する、すぐれた、そして切実な引導、スターターとしてあるように思う。
(以上引用)
2番目の引用にある、《だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる》という言葉に共感する。
《その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間》
たしかに。
しかし、こういう“人間”が、過去に(歴史上に)、いなかったのでは、ない。
“現在において”希少なのだ。