Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

辺見庸新刊

2009-05-31 11:37:06 | 日記
辺見庸の新しい本をAmazonに注文した。
『しのびよる破局-生体の悲鳴が聞えるか』(大月書店)である。
これは、“NHK・ETV特集を再構成、大幅補充”したものとあるが、ぼくはこれを見ていない。

Amazonの“カスタマー・レビュー”から二つ引用(部分)したい;

<現代警鐘の書2009/4/19By長太郎(茨城)>
勿論私もこの特集番組を見た。ですから、番組を見た方にはこの本は、特別真新しい内容では無いし、再確認を出来る媒体の一つに過ぎないかも知れない。ところが、今回読んで判ったのは、番組で見聞きしていた筈の内容が、自身全然「理解」出来ていなかった言い換えれば聞き漏らしていた部分が非常に多かったことである。おそらく私はこの本を1度読んでも、未だ半分も理解していないのではなかろうか・・。それほど、内容の濃い深い深刻な問題を孕んだ本なのである。
先ず読み始めて判るのは、文章漢字部分が一部の単語(語句)を除いて殆ど最小限に使われており、その分平仮名が目立つことである。これは、たいへん読み易い。辺見氏は現在右手が不自由であり、言語ツールとして携帯電話を利用していることがあるいは影響しているのかも知れない。彼は自身で「携帯依存症」だと告知している・・携帯で「文章」を綴りそれをPCへ転送して書いている・・また、現在身体的にも歩行が困難な為に毎日毎日歩く練習を繰り返し行なっている。練習をいくら行なっても良くはならないが、怠ると悪くなる。だから「徒労」とも思えるような「自主トレ」を繰り返す・・それは、辺見氏の深い「思索」に繋がっているように思えてならない。それはまるで終わり無きような繰り返し反芻するような「思索」だ・・読んでいてその執念に私は打たれた・・・

<辺見庸というレンズ2009/4/19By adanama(東京新宿区)>
もともと聴衆を意識したものであるためか、 語りがとてもわかりやすく、その分ダイレクトに届く。
著者の視線は、世界恐慌から秋葉原事件に渡り、具体的な事象にふれながら、広告や資本による言葉に対する感覚の収奪、 世界と人間の生体との食い違い、それによる鈍化といった 彼なりの深い洞察に落ちていく。
辺見庸の言葉が特別なのは、 彼がすぐれた評論家や作家やジャーナリストだからではない。
私たちは、すでに習慣として、「言葉」に自分の体を賭けない。
毎日朝食を摂り、排泄し、眠るのと同じくらい日常的に、無意識に、賭けない。
しかし辺見庸は、至極逆説的にいえば、 その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間だ。
だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる。
私たちは、読むにつれて「著者の言葉にただ賛同したり反論したりする、ただのギャラリー」であることに耐えられなくなる。
本書は「自分たちの日常を自分の言葉で表現できなくなっている」万人に対する、すぐれた、そして切実な引導、スターターとしてあるように思う。
(以上引用)

2番目の引用にある、《だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる》という言葉に共感する。

《その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間》

たしかに。

しかし、こういう“人間”が、過去に(歴史上に)、いなかったのでは、ない。

“現在において”希少なのだ。



知的なひと

2009-05-31 09:37:06 | 日記

けっきょく、下のブログを書いてまた寝たのだが、エンドレスで同じような状況の夢を見続けるので、意識的に起きたが、起きても、エンドレスな感じがつきまとっている。

起きてまたまた天声人語と編集手帳を見ることになる(引用しない;笑)
天声人語は恒例の“五月の言葉”だが、ぼくはこういう“言葉”を意図的に“引用”したくない。
編集手帳は芥川龍之介の“煙草と悪魔”である。
もともと喫煙習慣のなかったひと、禁煙したひとというのは、どうしてこういう“優越感を”噛みしめるような“煙草の害”で、喫煙者を強迫する文章を平気で書くのだろうか。
かれらが内心ニンマリしているのがみえるようである。
芥川のこの小説は記憶にないが、芥川はヘヴィー・スモーカーだったらしいから、そういう“脅迫文”を書いたのではないと思う。

自分の今朝書いたブログを読むと、“どうしようもなく、すべてが、くだらなく見える”と書いてあった。

この文章で重要なのは、“見える”ということである。

テレビで見るようなひとも、街で見掛けるひとも、近年、ぼくにはさっぱり“知的”に“見えない”(老若男女を問わず)

“知的”ということにも、さまざまなニュアンスがあり得るだろうが、ぼくの“感想”は単純である。
“知的に見えるひとがいなくなった”ということである。

つまり“知的に見えない”ひとが、実は知的である、こともあるのである。
しかし昔は(いつごろまでのことだったろう?)、知的に見えるひともいたのである(笑)

たとえば“俳優”のような、ミュージシャンのような人々にもいたではないか。
パッと見、知的でなくても、3分くらい見ていると知的であることが分かるひともいた。

たとえば、大江健三郎氏のようなひとは、パッと見、知的でもないが(笑)、30秒ほど喋れば、かれが知的なことは分かった。
なんか“セクシーなだけ”が売りのような女優であっても、ある瞬間に彼女が知的であることが分かって、うれしかった。
ただ“野蛮”なだけの音楽を演奏しているひとが、きわめて知的であることも、あった。

だから、ぼくが“知的に見える”と言ったのは、かならずしも一瞬の判断ではなかったかもしれない。
しかし現在、テレビなどでよく見る顔は、一瞬どころか、いやになるほど見てきた顔なのだ。

つまり、いま“テレビを見ていられるようなひと”は、“知的な顔”とか、“知性全般”に重きをおかない“趣味基準”をお持ちらしい(笑)

むしろ“バカ”が好きなのだ。
たぶん“バカの陰に隠れた人間性”が好きなんだろうね。

だからみんな、こぞって、バカの振りをするようになったのだろうか。
しかし“振り”をしているうちに、それが身に付いてしまい、“バカそのもの”になってしまったのだろうか。

ああ悲劇である。

ぼくが現在の大学で受講したら、笑いをこらえるのが、むずかしいと思う(内田樹教授さんへ)


もそもその朝

2009-05-31 05:45:29 | 日記

そもそも。
もそもそ。

けっこう時間をかけてブログを書いているうちに、明るくなった。

ひとは、そのひとの言葉によって、そのひとを判断しているのだろうか。

それとも肩書きによって?

ときどき、
どうしようもなく、すべてが、くだらなく見える。


Not Found

2009-05-31 05:31:07 | 日記

昨夜は早く寝たい気分なので、ブログをひとつ書き、数時間前に参宮橋歩道橋で撮った泰山木の写真を出して、寝た。
今朝起きたら4時前であった。

いま“思い出して”、Doblogの自分のブログをクリックしたら、“Not Found”であった。
ついにwarmgunは、“Not Found”になったのである。
ここで、笑うべきであろうか、泣くべきであろうか。
warmgunは“gooブログに移行した”のであるが、やはりwarmgunの一部は死んだのだ。
つまり“ひと”は、このように少しづつ死んでいくのだと思う。

こういう“認識”を認識というのであって、天声人語が毎日書いている“言説”などは、なんの認識でもない。
あんなものは、“マシーン”の永久稼動運動であって、そこにはなんの“生身”もない。
ただ惰性で“言説機械”が、毎日“状況”に自動的に反応して、“言説”を缶詰のように生産しているだけである。

そこには“生き物”の気配がない。
ただのいじましい“欲望機械”があるだけである。

この欲望機械の“欲望”が、“機械”でしかないのは、まさに、彼らが自分の言説を、“多数に支持されるもの=多数をかさに着るもの”として発し続けていることだ。
かれらは、けっして、“自分の言葉”を語らないし、語ることができない。

もともと“受験-出世マシーン”として生産されたものに、自分の言葉があるはずがないのである。

なによりも惨めたらしいのは、かれらの欲望の陳腐さである。
昨夜引用した天声人語を、もう一度読む;

《そもそも、先に分割を唱えたのは、本日83歳を迎えた読売新聞主筆のだ。同紙も「再編で国民の信頼を取り戻せ」と促した。大連立騒動の黒衣役といい今回といい、衰えぬ政治への情熱、生涯現役の記者魂には恐れ入る。仕えるご同輩も心強かろう▼暮らしに縁の深い官庁が「総身に知恵が回りかね」では困る。肥大を案じるのは渡辺氏だけではあるまい。それに飛びつくのはいいが、首相が口にするからには、風雪に耐えて旗を掲げ通す覚悟がいる。夕立の祭り提灯(ちょうちん)ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない。》(引用)

さて、ここにはいかなる“欲望”があるだろうか。
実は、天声人語氏も、“総身に知恵が回りかねる”官僚政治を出し抜いて、“大連立騒動の黒衣役”とか、“厚労省分割”の仕掛け人になりたいのである。

そういうのがジャーナリストの“衰えぬ政治への情熱”だと思っているのである。
つまり、いま朝日新聞のようなマスメディアにいる人々は、いつも自分で書いているような“謙虚”な人々ではぜったいにないのである。

かれらは“読者=大衆”を操りたいのである。
そのために動員されるのが“あの”連日の、“わたしはしがない庶民と同じです・・・”言説である。
かれらは、けっして、自分を“しがない庶民”などとは、思っていない。
自分は優秀な学校を出て、優秀な企業でキャリアを築いた優秀な人間であり、そのへんの庶民の会ったことのない人物と“お話したり”、そのへんの庶民の行けない場所にも行ったことがあるなどとの、“自負”をもっている。
つまり“読者=庶民”など、バカにしきっているのである。

だからかれらが連日考えているのは、“バカな読者”に、いかに新聞を買わせ、“しかも”、この読者を自分の望む方向に誘導できるか、のみである。

ぼくは、こういうこと自体が不快だが、いちばん不快なのは、かれらが“嘘つき”であることである。
まだしも、かれらが“自分の欲望”(つまりバカな大衆を誘導する)を率直に表明するなら許せる。
彼らが、連日書き散らしているのは、その反対の言説ばかりである。

ぼくが子供のころには、“嘘つきは泥棒のはじまり”という言葉が生きていた。
また、“泥棒”というのは、恥ずかしいことだった。
そういう羞恥心のない人々が、おどろくほど増えたのである。

なにが“嘘”であるかを、哲学的に考えるとかなり難しいことになるのだが、そういう“次元”を超えて、人間には人間としての最低のモラルの“本能”があると思う。
その“本能”さえ、壊れたのか。

いやまさに、その本能を喪ったものたちが、“自分を正当化する嘘”を撒き散らしている。

ぼくたちは、けっして正しく生きることなどできないから、せめて、正直であることが必要である。

いったいぼくたちは今、なぜ“言葉を発している”のか。
それが、ぼくのそもそもの“疑問=課題”である。

なぜいつもいつも“相手に調子を合わせる”のみの言葉しか存在しないのか。

私が、あなたに伝えたい言葉とは、いったい何であるのか。

私の言葉が、決して伝わらないなら、それは何故であるのか。

そういう“課題”をほうっておいて、いかに政治-社会について、百万言を弄してもまったくの無駄としか思えない。

いつまでも長くて退屈な映画を永久に見せられているだけである。

以上は“新聞の言説”について書いた。
ならば“テレビの言説”とは、何であるのか。

もちろんテレビの言説も新聞の言説と同じであるという事態がまずある。

しかし、それはもっとひどい。
彼らは(テレビは)、“いっしょにバカになろうね!”と扇動している。

まるでバカであることが、“人間的”であるかのように。

みんなが一緒にバカになれば、“安心”であるかのように。

“バカの、バカによる、バカのための”テレビ。

たしかにこのテレビの標語は、“民主主義”に似ている。